砲 熕(1) 最近の砲熕の発達クリミヤ戦争(1854~1855)において、それまでの実弾(スダマ、無炸薬弾)であったものが弾丸の中に炸薬を詰めた榴弾が発明され、同時に艦艇の舷側に装甲板を装着して防御することが行われるようになりました。 そしてこれ以降、砲熕と装甲とはその強度を増して互いに競うこととなり、長足の進歩を遂げることになります。 とは言っても、厚い装甲を船体の舷側全てにわたって装着することは艦船の建造上とても無理なことは明らかで、また反対に巨大な砲熕を多数搭載することもまた不可能なことです。 このため、主たる装甲は水線付近中央の致命部に限定することとし、その一方でこの厚い装甲を貫通し得る大口径砲を少数と、非装甲部に対する中口径砲の多数を搭載する方向に進んできました。 これに加えて、魚雷(魚形水雷)が発明され、これを搭載して来襲する水雷艇の防御用として多数の小口径も搭載されることになってきました。 この傾向は日露開戦まで続くこととなり、砲装は極めて複雑なものとなり、これにより当時の各国海軍の戦艦の砲装は、12インチ砲を主砲、6インチ砲を副砲とし、そして3インチ以下の小口径砲を補助砲として搭載するのが標準となったのです。 即ち、英海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」(Prince of Wales)、旧海軍の「三笠」、そして米海軍の「メイン」(Maine)などはその代表といえます。 その一方で、装甲による防御方法も次第に複雑となり、致命部に対する重装甲以外に、比較的薄い装甲によって艦体の大部分を保護するようになり、このためこの装甲に対して効果ある砲熕として中間砲を用いる方法が生まれました。 即ち、英海軍の「キング・エドワード7世」(King Edward VII)、旧海軍の「香取」、米海軍の「コネチカット」(Conneticut)などのように、主・副の両砲種の間に8~10インチ砲を採用することとなりました。 そして、副砲の6インチ砲を全廃するものも出てきます。 これは、舷側の大部分に装甲防御を施すことから、これを穿徹し得ない6インチ砲程度のものではその価値は無いという見地からです。 即ち、英海軍の「ロード・ネルソン」(Lord Nelson)、旧海軍の「薩摩」、そして仏海軍の「ダントン」(Danton) などです。 そして遂には、主砲と中間砲の2つの砲種を使用するため射撃が斉一にならず、このため特に遠距離における射撃指揮が困難となることの解決が求められます。 これが日露戦争後に出現した英海軍の「ドレッドノート」(Dreadnought) で、この艦が顕れるやいなや各国海軍の建艦に一大革命を与え、巨砲全装主義はたちまちにして全世界を風靡することになります。 ただし、「ドレッドノート」といえども主砲の12インチの他に水雷艇防御用の小口径砲が必要であり、3インチ砲を搭載しました。 そしてその後のド級艦では結局これでも威力不足であることから、4インチ砲が採用されることになりました。 しかしながら、魚雷の発達には顕著なものがあり、これを搭載する高速水雷艦艇に対しては射程及び精度共に小さい小口径砲では信頼するに足りないとして、発射速度に大差がないより大きな口径の砲種を選択することは当然の趨勢といえ、旧海軍において「安芸」以降に採用した6インチ砲はまさにその要求を満たすものとされたのです。 「三笠」以降に於ける戦艦の砲装の変遷を表にすると、次のようになります。
戦艦の砲装は上表のようにその種類において変遷してきたところですが、またその威力においても絶えず向上してきた言え、一例として英海軍に於ける12インチ砲においてここまでの10年間の進歩を示すと次のようになります。
この12インチ砲に限らず、他の砲種においても砲身長(膅長)と初速が漸次増加の傾向を示していますが、その理由は主として次の2つです。 (ア) 砲熕の破壊力はその弾丸の撃勢、即ち 1/2・mv2 に比例する (イ) v、即ち初速を大きくするには装薬量を増加しなければならないが、従来の砲熕をもってしては到底その膅内圧力に耐えられないことから、より一層の緩燃火薬を製造して、装薬量を増加すると当時に、膅長を長くしてその燃焼を完全にする しかしながら、装薬量及び初速を大きくすることは、これにより高熱かつ大量の燃焼ガスを発生することとなり、このため膅中の著しい侵蝕もたらし、砲の命数を短縮することになります。 特に大口径砲になるほどこの影響は大きく、極端な話し、戦闘中に射撃精度不良となる可能性が出てきます。 このため大口径砲の威力の増大にはこの方法をもっては限界を生じることとなり、結果的に初速を減じて侵蝕作用を小さくするとともに、口径の増大と装薬の増加を計らざるを得ないこととなりました。 これが英海軍における13インチ半砲、米海軍における14インチ砲の採用へとなった理由です。 そして当然のことながら、一国の海軍の戦艦が優勢なる砲熕を搭載するならば、他国海軍においてはこれと同等又はそれ以上の主砲を採用することになるのは自然の成り行きです。 したがって、明治40年代においても、主砲の威力を一層増大させるためにはいかなる方針を採るべきであるのかは、重要な課題であったわけです。 砲身命数の点からするならば、口径を更に増大するより他はなく、米海軍のシムス(William Sims)提督は12~16インチの間が適当であると主張し、またイタリアの技術者 Ouniberti は日露戦争後に16インチ砲を主張しており、米海軍においてもこの16インチ砲を主張する者が少なくなかったとされています。 その一方で、高初速に伴う膅中の侵蝕は避け得ざるものであるという前提に基づくものであることから、これに対して侵蝕作用は絶対的なものではなく相対的なものであるので、口径増大の方法は科学技術の進歩により必ずしも正論とは言えないであろうとの疑問が呈されました。 これに加えて、装甲の進歩により弾丸の撃勢威力の増大が求められるようになりましたが、口径の増大をもってこれに対処することには限界があることは明らかで、高初速にこれを求めざるを得ないところとなります。 結局のところ、初速を増大することは侵蝕の原則により口径が大きくなるほど砲身命数が小さくなりますので、ここに至って一旦16インチ程度まで達した砲熕も再度10数年前までの12インチ程度に戻らざるを得なくなったのです。 このことについては、『砲術の話題あれこれ』の第1話『多田 VS 遠藤論争』中の 『19世紀末に戦艦主砲の口径が小さくなった理由』 で、金田中佐(当時)の手になる大変判りやすい図表で説明しておりますので、そちらを参照して下さい。 このため当時としては侵蝕作用の減少に努めることが重要な課題となりましたが、その為の方法としては、内膅の材質の改善、装薬の改良、膅内燃焼ガス作用の研究、の3つが求められたのです。 以上の事は、単一の射撃における威力を増大するものですが、もう一つ、これと同時に発射速度の増加が伴わなければ 時間効力(命中速度)の発揮ができないことは言わずもがなです。 初版公開 : 18/Feb/2018 最終更新 : 25/Feb/2018 |