総 説 (暫定)日露戦争期までは旧海軍はもちろんのこと、列国海軍においてもまだまだ今日で言うところの 「射法」 と呼べる程のものはありませんでした。 その転機となったのが、明治40年の 「距離時計」 及び明治41年の 「変距率盤」 であり、そしてパーシー・スコットなどによる 「一斉打方」 (今日でいう 「交互打方」 のこと) が英海軍からもたらされたことでした。 これに併せて近代的な射法の研究が始まり、明治43年にはそれまでの明治38年制定の 『艦砲射撃心得』 とは全く異なる新しい教範である 『艦砲射撃教範草案』 が作成されましたが、射法研究の進歩は著しく、これに伴って草案もまた度々の改訂が必要となった結果、『艦砲射撃教範』 として制定されたのは大正2年のことです。 そして大正5年には方位盤が兵器採用され、また第1次大戦における英独海軍の海戦の戦訓がもたらされたことにより、射法もまた大いなる改善がなされて 大正8年に 『艦砲射撃教範』 の全面改定 がなされました。 ここに至って 昭和期まで続く旧海軍の近代射法の確立 を見たわけです。 したがいまして、明治40年代の砲戦術として、射法についてはこの期間だけを取り出して解説することには大変難しいものがありますので、大正中期の砲戦術の項に進みましたところで、改めてこの明治40年代までのお話しをどの様にまとめるかを考えてみることといたします。 つきましては、取り敢えずは既に公開しております次の記事をお読みいただき、日露戦争期から大正中期にいたる射法の進歩の概要を掴んでいただけたらと思います。 『旧海軍の射法』 コーナー中の 『射法の沿革』 『砲術の話題あれこれ』 コーナー中の 『第1話 多田 vs 遠藤論争』、及び 『第2話 日露戦争期の旧海軍の砲術』 初版公開 : 22/Apr/2018 |