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加藤寛治の砲術 |
砲術長安保清種の着任 |
「聯隊機密第276号」 と 「聯隊法令第24号」 |
日本海海戦の砲戦経過 |
安保清種の日本海海戦戦訓 |
安保清種の意見具申 |
前項では 「三笠」 砲術長として黄海海戦を戦った加藤寛治が、その海戦において、そしてその教訓を得た後においてどの様な砲術を採用していたのかを2つの文書を根拠として説明しました。 結論としては 当時の旧海軍では 「一斉打方」 を行ってないし、たとえやりたくてもできなかった、と言うことなのです。
しかし、中には “加藤寛治に替わった安保清種が日本海海戦において実施したのでは?” と思われる方もおられるかも知れません。
これを主張する最先鋒の一人が遠藤昭氏なのですが ・・・・ これはこの 『砲術の話題あれこれ』 の第1話で説明してあるとおり、その主張は全く根拠のないもので、酒の肴にもならない話しです。
既に話してきました様に、一斉打方を行うためには、当時の 「三笠」 の砲戦の装備・設備・施設は勿論、射撃指揮組織では適応出来ません。 そして、もし仮にこれらが日本海海戦までに新たに整った としても、その為に乗員の訓練を一からやり直さなければなりません。 全く新しい手順に従って。
考えても見て下さい。 明治38年2月13日付けで発令になり、3月10日に 「八雲」 砲術長から着任した安保清種に、5月27日の日本海海戦までにこれが出来たとお考えになるでしょうか?
安保清種にとっては、「三笠」 砲術長としての新たな職務に習熟することが精一杯であり、そして前任者の加藤寛治のやり方をそのまま引き継いで、これの練度向上に努める以外に無かったであろうことは容易に想像がつくことです。 バルチック艦隊が今にも現れてもおかしくない時期だったのですから。
このこと一つを考えただけでも “絶対に不可能” であったと断言できます。 砲術というものを、そして艦船勤務というものを少しでも知っているならば、そのようなことは常識の話です。
それでは順を追って日本海海戦時の 「三笠」 砲術長であった安保清種の砲術について説明し、それを証明していきたいと思います。
まず最初は 「三笠」 艦上における砲術訓練についてです。 上記のとおり、もし仮に 「一斉打方」 に転換したとすると、3月10日の安保清種の着任以降、「三笠」 ではそれまでとは異なる新しい方式・形態の訓練が行われていなければなりません。
「三笠」 艦上で日々どの様なことが行われていたかについては、『三笠戦時日誌』 でその状況が詳細に記されています。 幸いにして今日ではこれは国立公文書館の 「アジア歴史資料センター」 によりネット上に公開されていますので、その38年2月分から5月分までを是非一度目を通してみて下さい。
これをお読みいただければお判りの様に、呉での修理・整備を終えて2月17日に佐世保に回航、同20日に佐世保を出港して翌21日鎮海湾に到着しましたが、それ以降、砲術長が替わったからと言っても砲術訓練はそれ以前と何ら大きな変化はなく、引き続き内筒砲射撃を中心としたそれまでの訓練を更に徹底して行っています。
そしてこれらの訓練の節目になるのが 「内筒砲対抗射撃」 です。 これは連合艦隊司令長官命により実施されるもので、2隻が組になりそれぞれが曳航する標的を相互に撃ち合い、成績を艦隊中に公表するものです。 3月以降日本海海戦までの間に3回行われています。
この内筒砲対抗射撃おける 「三笠」 の成績は次のとおりです。
回 次 | 実 施 日 | 対 勢 | 射距離 (m) | 命中率 (総命中弾数/総発射弾数) |
第 1 回 | 3月28日 | 並 航 | 380 〜 680 | 23.5% (154/656) |
反 航 | 250 〜 720 | 6.4% (71/1106) | ||
第 2 回 | 3月30日 | 並 航 | 390 〜 660 | 37.6% (683/1814) |
反 航 | 370 〜 950 | 8.6% (127/1470) | ||
第 3 回 | 4月 5日 | 並 航 | 360 〜 640 | 45.4% (631/1390) |
4月 6日 | 反 航 | 280 〜 550 | 30.7% (285/927) | |
4月 7日 | 並 航 | 250 〜 580 | 52.5% (894/1703) |
回を追って成績は向上していますが、それでも 「三笠」 の成績は第1戦隊の他艦には及ばず、毎回その結果について伊地知艦長の叱咤激励の訓示が行われました。 勿論その中にも、打方や訓練方法を換えたから云々、 などとは一言も出てきません。
この対抗射撃やその後の実弾射撃訓練で好成績を収めるために、内筒砲射撃を主体とした猛烈な訓練に日々励んだことは 「三笠戦時日誌」 からも明らかです。
既に説明ましたように、内筒砲射撃というものは砲術長・砲台長の射撃指揮法や射撃関係員のチームとしての訓練もありますが、その主体はあくまでも射手の照準発射の演練です。 したがって、良い成績を出すためには、各砲の射手それぞれが各自で照準の最も良いと判断した瞬間に引金を引くことです。 これはつまり 「独立発射」 であって、斉射のために発射時期を令される 「発令発射」 ではありません。
当時の砲術としては、射撃計算、即ち苗頭・照尺だけは出来るだけ艦で統一したものを使おうと努力していました。 ですからその命令・号令が確実に伝達されるように通信伝達訓練も合わせて行われていました。
しかしながら、決定距離を得るための試射の一部で斉射を用いるかどうかは別にして、艦砲の命中率を高めるためには本射は 「独立発射」 が当然と考えられていました。 だからこそ 「急射」 「常射 (並射)」 「徐射 (緩射)」 という区分が教範で規定され、個々の砲はそれぞれの射手が自己の照準の最も良い瞬間を判断して発射することになっていたのです。
これを要するに、5月27日の日本海海戦において 「三笠」 の艦砲射撃のやり方は、先に説明した加藤寛治の砲術そのままであったと言えます。
『別宮暖朗本』 の著者以外にも、現在でも旧海軍が日本海海戦において 「一斉打方」 を行ったと主張する人がいます。 その代表が先にも出てきました遠藤昭氏です。
遠藤氏のその主張の根拠とするのは次の2つです。
1.明治38年4月の英海軍 Thring 大尉の来日 (「変距率盤」 の持参)
2.明治38年4月17日の連合艦隊司令長官訓示
英海軍大尉の来日については既に 『砲術の話題あれこれ 第1話』 の 『04 英海軍 Thring 大尉の来日』 で説明してあるとおりで、もし仮にこの大尉の来日そのものはその事実があったとしても、それは旧海軍にとって外国海軍の一若手将校の来日という、ただそれだけのことに過ぎません。
またその大尉が 「変距率盤」 を持参したとする遠藤氏の話もまったく根拠がありませんし、かつ本第2話の 『09 変距率盤と距離時計』 や第1話の 『05 変距率盤について』 『06 距離時計について』 でも話してきました様に、「変距率盤」 だけで 「一斉打方」 が可能になる訳ではないことは、皆さん既にご理解いただいていると思います。 (しかも、例え持参したとしても、一つや二つでどうなるのかと。)
そして遠藤氏が主張する2つ目の根拠が、『戦闘実施に就き麾下一般に訓示』 と題する明治38年4月17日付けの 『聯隊機密第276号』 です。 氏はこれによって 「独立打方」 から 「一斉打方」 への転換が命ぜられ、連合艦隊は一斉にこれを実施したとしているものです。 本当なんでしょうか?
その 『聯隊機密第276号』 の原文全文がこれです。
全5項目のものですが、注意していただきたいのは、これは連合艦隊全将兵に対する東郷平八郎の 「訓示」 であると言うことです。 即ち、間近に予期されるバルチック艦隊との決戦を控えて、連合艦隊の最高指揮官としての所信と要望 を述べたに過ぎません。
当然ながら 「訓示」 は、命令でも指示でもありませんし、戦策や法令を規定したものでもありません。 これをもって打方の変換命令を出したと解釈するのは、どの様に考えても無理があるでしょう。
そして、この5項目中、遠藤氏が指摘するのがその第4項です。 改めてその全文を示します。
四、実戦及び射撃の経験に依るに 一艦砲火の指揮は出来得る丈け艦橋にて掌握し射距離は艦橋より号令し砲台にて毛頭之を修正せざるを可とす 殊に実戦に於いて其然るを覚ゆ 砲戦酣なるときは一艦各砲の弾着は素より各艦の砲弾一所に集注し其何れが我が弾着なるや分別する能わず 故に 一艦の全砲は同一の射距離にて発射し 其弾着を見て全砲の射距離を修正するを要す 斯くするときは艦橋よりの射距離不当なる場合には全砲弾を失うと雖も適良なれば全砲弾の命中を得結局の統計に於いて命中公算を増加すること疑うを容れず又魚雷攻撃は水雷其物の機能に往々欠点あると、発射位置を得るの難きと、夜中敵艦の針路速力を測定するの困難なるとに依り其奏効を不確実ならしむ、然れども肉薄攻撃するときは距離の短縮に依り前記の三欠点を消滅せしむ、由来我が水雷攻撃の結果不充分なるに就いては世界已に其評多し深く戒めざる可らず 若し夫れ連繋水雷に到りては大なる技能を要せず唯だ断然敵前を一通過するにあるのみ
(注) : 太字 は管理人による)
後半は水雷戦に関するものですから説明は省略するとして、さて、この前半部分のどこをどの様に解釈したら、遠藤氏が主張する東郷平八郎が命じたとする 「独立打方」 から 「一斉打方」 への変換命令になるのでしょうか?
“艦橋において砲火指揮を掌握する” ことも、そして “射距離は艦橋より号令する” ことも既に説明してきたところですので、これが 「一斉打方」 を示すものではないことは既に皆さんに十分ご理解いただいているところです。
しかも、ここで東郷が訓示として言っているのは “出来得るだけ” であり、“可とす” です。 “絶対に” とも言っておりませんし、“べからず” とも言っておりません。 ましてや、“全砲は同一の射距離にて発射し” とは言っていますが、“一斉に発射し” とも “斉射をもって” などとは一言も言っていない ことにも注意して下さい。
これを要するに、この 『聯隊機密第276号』 は 「一斉打方」 とは何の関係もない と言うことです。 したがって、遠藤氏の言う
T大尉が日本側にイギリス海軍の研究成果を伝え、新兵器の 「変距率盤」 (the tool of rate of change of range)
の説明をしたのが、翌4月15日。 そして日本側が対策会議を開催したのがその翌日の4月16日。 この日、東郷大将は今の日本式の射撃法 (「独立打ち方」)
を廃止し、イギリス式の射撃法 (「一斉打ち方」) に変更することを決意した。 大将の決意は4月17日に連合艦隊全員に布告 (聯隊機密276号)
された。 まさに、日本海海戦の40日前であった。 |
などは、ちょっとお恥ずかしい限りのもので、この様なことで 「一斉打方」 を主張するのは全くもって土台無理な話しです。
そもそも、この時連合艦隊では 「聯隊日命第16号」 に基づいて4月10日から順番で常装薬艦砲射撃を実施中です。 そして 4月17日には東郷は 「八雲」 「吾妻」 の射撃を視察 しています。 「一斉打方」 への転換を命じたのであるならば、射撃訓練も一旦中止を命じて、その転換を完了したところで改めて行うのが当然の筋です。 戦時中といえども年に1〜2回程度しかない、訓練の総仕上げとも言うべき貴重な常装薬射撃を、漫然と継続する訳がありません。 その様なことは船乗りとして当たり前のことです。 たったこの1点をもってしても、遠藤氏の主張は誤りであると簡単に断言できます。
そして、ダメ押しの文書です。
“射距離は艦橋より号令し砲台にて毛頭之を修正せざるを可とす” というのがどの様な意味なのかは、既に 『加藤寛治の砲術』 のところでも詳細に解説したところです。 ところが、この東郷の訓示で “毛頭之を修正せざるを” と言ってしまったものですから、連合艦隊内ではやはり多少の混乱があったものと推測されます。
現場の砲術長以下にしてみれば別にどうと言うことはないのですが、艦隊内、特に艦長が砲術畑でない様な場合などには、例え訓示とはいえ流石に司令長官の一言であるだけに、その解釈を巡って砲術長・砲台長などとの間で色々問題が発生したであろうことは容易に想像がつきます。
そこで、5月3日になって改めて出されたのが、次の 『聯隊法令第24号』 です。
これは 「法令」 ですから、先の「訓示」と異なり、聯合艦隊の全艦が従わなければならない “規定” です。 そしてこれによって、艦橋より令される射距離の意味も明確に定義され、誰がみても解釈に齟齬が生じないようになりました。
内容的には既にご説明してきた 当時の砲術の要領そのままであり、改めてそれを連合艦隊として正式に追認したもの ということです。 そしてこれはつまり、日本海海戦においては 「三笠」 を始め連合艦隊のどの艦たりとも 「一斉打方」 は実施していないという証明でもあります。
遠藤氏を始め 「一斉打方」 実施を主張する人達は、先の 『聯隊機密第276号』 を探し出してきてそれを根拠にしたものの、ここまでは誰も調べていません。 (というより、例えこの文書を見つけたとしても、その意味が判らなかった?)
「三笠」 砲術長 安保清種の砲術について、続いて日本海海戦初日である明治38年5月27日当日の射撃の状況を 「三笠」 の戦闘詳報である 『日本海海戦戦闘詳報 第一号』 (三笠機密第151号、明治38年6月10日) の記述から抜萃して、時系列的に見ていきます。
第1次右舷戦闘
2時07分 敵の先頭を圧しつつ左に回頭
2時10分 射距離6千4百に至り嚮導艦 「スワロフ」 型に向て 右舷6尹前砲台の一斉試射
2時11分 6千2百に至り右舷砲台の 並射撃 を開始 徹甲鍛鋼交互に発射
2時21分 4千9百の射撃距離に到り一時 急射撃
2時22分 射距離4千6百に於いて12听砲員を砲に配し専ら旗艦を射撃
2時28分 並射撃 に復す 距離5千4百乃至5千7百
2時40分 距離5千7百米突 我前部の12尹砲及び6尹砲毎発殆ど空弾無く目標は其の爆煙に包まれて認識し難く
2時41分 一時打方を待つの止むを得ざるに至る
2時47分 嚮導艦の我に向首し来るに対し射距離5千8百猛烈なる縦射を加う
2時53分 左16点の変針と共に右舷戦闘を止む
第2次左舷戦闘
3時11分 敵艦隊と反行射距離5千3百敵の戦闘に対し左舷砲火を集中 嚮導艦 「スワロフ」 最近2千6百に及ぶ
3時23分 2千9百の射距離に於いて最近戦艦 (嚮導艦と同型) 我顕著なる命中弾 12听砲火は専ら 「ナヒモフ」 (距離3千3百) に集中 目標の戦艦距離次第に遠ざかりしを以て全砲火を 「ナヒモフ」 に転じ射距離3千9百乃至4千2百に於いて一時之を猛射せしむ
3時30分 射距離漸次遠ざかりしにより左舷の発射を止む
第3次右舷戦闘
3時45分 左16点の変針を行い同行にて右舷戦闘となる
4時01分 6千5百頗る好目標なる3煙筒の 「ヲスラビア」 を砲撃す 次いで目標を当時戦闘に位置せる 「ボロジノ」 型に換ゆ
4時07分 6千2百の射距離にて 「ボロジノ」 型を砲撃中前部12尹弾筒発したるの形跡あり直ちに筒中を検せししも異状なかりしを以て発砲を継続せり 射距離は漸次減じて5千7百に至る
4時10分 更に目標を換え嚮導艦 「スワロフ」 を猛撃す 射距離5千6百弾着最も良好
4時13分 後部12尹砲弾筒発せるものの如く砲口近く海面に弾片飛散し濃煙を発す
4時29分 弾薬の浪費を顧慮し 徐射撃 をなす
4時35分 右舷戦闘を止め左8点変針続いて右8点に針路を変す
第4次右舷戦闘
5時00分 三々五々隊を乱せる敵艦隊中2煙突の右翼艦 (戦艦の如し) に対し6千5百の射距離に於いて砲火を交え 次いで5千米突なる2檣3煙突の仮装巡洋艦 (仮巡ウラル?) に目標を変更 4千百に近づき猛火を注ぎ一時爆煙の為目標明らかならざるに至れり一時打方を中止せし
5時18分 敵の最も左翼なる2煙突の巡洋艦を4千4百に発見し之を砲撃す
5時28分 右舷戦闘を止め右16点の回頭
第5次左舷戦闘
5時32分 射距離5千2百米突なる工作船 「カムチャッカ」 に対し 徐射 を行う 次いで第4次右舷戦闘にて撃破したる3煙突の仮装巡洋艦型を射距離4千に近づくに至り全砲火を之に 集弾し2千米突の近距離に肉薄接近するに至る迄連続最も猛烈なる砲火を継続す 47密砲亦た之に加わり
5時42分 其全く戦闘力を失わるるを見て小口径砲の外発砲を中止す
5時52分 左舷艦首4千に敵駆逐艦を発見し小口径砲を以て之を砲撃
5時57分 戦艦4隻単縦陣にて吾と同航6千3百米突の射距離より我左舷砲火を其先頭 「ボロジノ」 型に集弾
6時04分 前12尹右砲筒発せるものの如く天蓋の前部及び砲身の一部破壊し廃砲に帰せし 左砲のみを以て砲火を継続 先頭艦は我命中弾の爆煙に蔽われ照準し能わざりしを以て目標を2番 艦に換え之を猛撃 次いで再び先頭艦に復せしも当時夕陽に面し弾着の識別明瞭を欠きしを以て 徐射 となす
7時04分 我が12尹弾の命中頗る良好
7時10分 日没に垂んとする時本艦の砲火を止め戦闘中止
(注) : 太字 は管理人による。
以上は 『三笠戦闘詳報』 中の 『第5項 砲銃水雷の射撃及其威力』 を中心にして抜萃したものです。
さて、これのどこをどう採ったら 「一斉打方」 を実施していたことになるのでしょうか? それどころか、ご覧頂けば容易にお判り頂けるように、この戦闘詳報に記されているものはまさに 「加藤寛治の砲術」 でご説明してきた艦砲射撃そのまま であることは明らかです。
ましてや 『別宮暖朗本』 の著者の言う
『三笠』 の12インチ主砲は、2時15分の第3斉射で夾叉 (ストラドル) を与えたものと推定される。 そこからは命中弾は連続する。 東郷平八郎は 「だいたい5〜6発目が 一番よく当たる」 と後年語ったが、まさにこのときである。 |
『三笠戦闘詳報』 によると、それ以降、12インチ砲及び6インチ砲毎発は、ほとんど空弾なく命中したという。 これが斉射法の威力であるが ・・・・ (後略) (p300) (p312) |
(注) : 太字 は管理人による。
など、全くの “デタラメ” であることがよくお判りいただけるでしょう。
同じく 『三笠戦闘詳報』 から、その 『第13項 戦闘中の実験に依り将来改良を要すべき点』 に記されているものを紹介します。
まず同項の中の 『砲銃水雷其他通信之部』 から砲術関係を抜萃します。
(一) 我海軍の安式12尹砲は多数発砲に際し筒圧に対する耐破力を較々欠くる処あるやの疑あり 将来の造砲に就ては充分改良を要すべきものと認む ・・・・(後略)・・・・
(二) 本年5月三笠機密131号を以て意見上申に及びたる12尹砲々身注水冷却装置並に同5月三笠機密191号を以て意見上申に及びたる6尹砲筒中注水冷却用ポンプは実戦に際し 充分有効なるを認めたり ・・・・(後略)・・・・
(三) 海戦当日の風波強かりし為め中甲板6尹砲は絶えず海水の浸す所となり ・・・・(後略)・・・・
(四) 戦時一等巡洋艦以上に対しては今日の定額弾数の約半数を増載せしむる事絶対的に緊要なるを認む ・・・・(後略)・・・・
(五) 一舷戦闘に於ても敵艦隊混乱して方向亦区々たる時に在りては屡々目標を変更し数けの目標に向かって砲火を分つ事多きのみならず激動の為め距離測定器其物の歪を生じ易きを 以て測距器は少なくも前艦橋に2台据付くるの必要を認む ・・・・(後略)・・・・
(六) 防御部内を屈曲通過する電話管は戦時避くべからざる騒声の為めに頗る其明瞭を欠き殆んど用をなさざりしもの多し ・・・・(後略)・・・・
(七) 戦闘に当り各種の命令を最上艦橋より司令塔に下すに単に一条の電話管によるは頗る通信の迅速確実を欠く嫌いあるを以て ・・・・(後略)・・・・
(八) 本年4月三笠第49号を以て上申改装したる距離命令通報器は歪を生ずる事なく ・・・・(後略)・・・・
(九) 高声電話は一種独特なる蓄音機様の音声を発する為め砲声盛なる時に於ては電話管に比し頗る結果良好なりし ・・・・(後略)・・・・
(十) 敵12尹砲弾の本艦6尹装甲板を貫きたる其2個所に就き甲板の破片弾片弾痕貫通の実跡等を推究するに敵12尹砲弾は徹甲実弾と徹甲榴弾の2種あるを認むるを 得べし ・・・・(後略)・・・・
(十一) 砲門を開きたる場合に其下扉の其位置に於ける 「セキューア」 は薄弱なり ・・・・(後略)・・・・
以上の11項目が砲術関係の戦訓として記されているものです。
そして、この 『第13項 戦闘中の実験に依り将来改良を要すべき点』 の最後にその総括として次の様に記されています。 その全文をご紹介します。
之を要するに今回の海戦に於て造船、造兵、艤装、兵装其他各種の事項に対し実地に教訓を示したるもの多々なりと雖も彼我全力を挙げたる堂々たる海戦に於て空前の大勝を博し得たる所以を稽うるに
無線電信が敵情偵察、勢力集中等の戦略上に資するの効果大なりし事
実戦に射撃に幾多の経験を重ね我射撃の技倆著しく優逸なりし事
下瀬弾の威力極めて偉大なりし事
其命中弾明瞭にして砲火指揮上至大の効ありし事
二三遁走敵艦を除くの外我が速力概して彼に優りたる事
魚雷襲撃の効果確実なりし事等其主因にして交戦距離比較的近かりし事
敵艦が石炭其他を過度に増載して帯甲水線下に没し居たる事
風波高くして乾舷の較々低き部に穿ちたる弾孔は著しく浸水の媒たりし事
防御甲板上に浸水傾斜したる儘高浪中に転舵し自然 「ツリム」 を失いたる事等敵装甲艦の沈没を容易ならしめたる一因なりと認むるを得べし
果たして然らば吾人は我の由て勝ちし所以の特長に顧み愈々講究訓練の歩を進め彼の由て敗したる所以の欠点に鑑みて益々改良刷新の途を講ずるは将来の一大要務とする処にして尚ほ 我下瀬弾が強猛無比の高度爆発弾たるは開戦以来の実績に徴し各国の等しく直接間接に認識し挙つて之が探求に努めんとする処となるを以て此際一層其秘密を厳にする必要あると同時に我に於ても 高度爆発弾の防御に対する造船上の講究は特に其要を認む
又特種水雷は今後の海戦に於て大に其効果を発揮し得べきを以て苟も快速を有する艦艇には悉く之れを備える事とすれば一層水雷の効果を確実にすべしと信ずるが故に充分秘密を厳にし 尚ほ其構造並に使用法に関し益々講究を重ぬるの必要を認むるものなり
(注) : 太字 は管理人による。
つまり 『三笠戦闘詳報』 の中ではその戦訓事項として 「今後は一斉打方でなければならない」 とか 「変距率盤は有効だった」 とかは一言も出てきません。 当たり前のことではありますが。
もし本当にこれらが日本海海戦直前に導入されていたことが事実であるとするならば、まずその事が最大の戦訓として記されなければならないはずです。
したがって、日本海海戦における 「一斉打方」 の実施のことも、また遠藤氏の主張する英国海軍某大尉の持参したとする 「変距率盤」 の話しも、この戦闘詳報の記述によって完全に否定することができます。
もっとも 『別宮暖朗本』 の著者なら、“重大な極秘事項を隠蔽するために戦闘詳報から削除した” ぐらいは言い出しかねません。 実際に本書の中で
『公刊戦史』 もロシア側の 『露日海戦史』 も同様であるが、デスクワークに専念する少壮官僚の作文であって、実際的な問題を精神主義的なことに置き換えることが多い。 連合艦隊が日没による砲戦時間の終了を考慮すれば、早めの出撃をなすべきだった、との批判にそなえ、信濃丸の通報時刻をわざと遅らせたものだろう。 (p291) (p302) |
などと平気で言い放つほどですから。 ( これについては、既にブログの方の 「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (前・後編) で根拠を示して絶対にあり得ないことをご説明済みです。 余りもバカバカしい話しですが。)
さて、日本海海戦当時の 「三笠」 が実施した安保清種の砲術について、もう一つの史料を紹介したいと思います。
上記で、砲術長安保清種の実施した砲術について 『三笠戦闘詳報』 から抜萃してご紹介しました。 この報告書は 『日本海海戦戦闘詳報 第一号』 (三笠機密第151号、明治38年6月10日) として 連合艦隊司令長官に提出されています。
この戦闘詳報は戦闘実施の詳細について、いわゆる “記録” として報告することが定められていますので、戦訓事項については本来的な意味からすると付加的なものです。
そこで 「三笠」 の伊地知艦長は、将来の海戦及び戦備を念頭にこれまでの戦訓に基づいた改善・改良について、自らはもちろんのこと、主要幹部を始め、初級士官や候補生、准士官に至るまで広く意見を集め、 これを纏めて独自に連合艦隊司令長官へ提出しました。 有益と認める現場担当者の率直な意見を全てそのままです。
これが 『第二期戦闘中ノ実験ニ依リ攻究シ得タル事項並ニ将来改良ヲ要スベキ諸種ノ点ニ付キ意見』 ( 三笠機密第177号、明治38年7月4日 ) です。 ( なお、この 「三笠」 の提出文書によって現場からのこの種の意見聴取の必要性を認めた軍令部及び海軍省は、8月8日になって 「官房機密第943号」 をもって全艦艇から提出させることとしました。)
伊地知艦長自身の意見を始め、多くの乗員によってそれぞれ大変に興味深いことが沢山書かれていますが、ここでは本題に沿って、当の 安保清種砲術長の提出分からその全項目をご紹介 します。 当時の艦砲射撃について砲熕武器と 砲術の両方の実態について記されているとともに、当時の戦艦の砲術長にとってどの様な事が関心事であったかが判る貴重なものです。
日本海海戦に於ける実験事項並びに将来の改良に就いての希望
三笠砲術長 海軍少佐 安保清種
一、砲火の指揮は全然艦橋に於いて掌握するを原則とし指揮に関する通信系統は必ず之に基づきて設計するを要す
射距離は固より苗頭も総て艦橋より令するに尤して困難を認めず然して四千内外の距離に於いては我が集弾を目標中の任意の部に移し導くを要すること屡々なり
例えば前砲台は殆ど沈黙したるも後部主砲尚ほ存する時は此部に集弾を要するが如き即ち然り是を以て苗頭も其基準を艦橋より令すること極めて緊要なり
艦橋より通信連絡杜絶したる場合には砲台若しくは各砲の独断専行に任ずる事固よりなりと雖も之れには自ら程度あり 幾種の通信装置悉く破壊するも艦橋の本能にして全廃せられざる限りは人員の往復伝令を以て 最後の通信手段とし飽迄 「ブリッジコントロール」 の主義を持続するは多少発射速度に関係を及ぼすべきも比較的不確実なる砲台若しくは各砲の独断専行に優ること萬々なり
今回の海戦に於いて本艦の六尹七番砲廓の甲板敵弾に破られ廓内の砲員悉く死傷し通信機関亦た破壊せらるる中勇敢なる 番砲手は疾を忍んで独り砲側を離れず自ら弾薬を装填し一発毎に走りて廓外に到り 中甲板伝令員に就き一々距離苗頭を確かめて縦横尺を整ゆ以て有効なる発砲を継続せり (注)
又た六尹三番砲廓は戦闘の初期敵弾を被り其指揮塔より艦橋に通ずる通信装置は悉く破壊せられたるも一伝令員を廓外に出し艦橋伝令の黒板に注意せしめ終期迄有効なる通信を確保し得たり
蓋し酣戦の際一発毎に砲側を離るるが如き或いは廓外に一伝令を配するが如き如何にももどかしき観ありと雖も不確実の縦横尺を以てする命中なき速射に優るや遠し 即ち砲火の指揮は艦橋の本能廃せざる限りは 終始艦橋に於いて之を司らざる可からずとの断案を下すに憚らざる所なり
(注) : 6尹7番砲の事とし、かつ砲手番号が未記入ですが、「三笠戦闘詳報」 を見る限りではこれは6尹5番砲の事で、当該砲手は5番の野村幸平二等水兵の事と考えられます。
既に何度も説明してきましたので更なるものは不要と思いますが、ここに記されてるのは 砲側照準による 「独立打方」 を如何に有効ならしめるか ということであって、 「一斉打方」 の方法ではありませんし、勿論この要領では 「一斉打方」 はできません。
二、砲戦の要訣は沈着精確なる射撃を以て努めて多数の命中を期するにあり 今回の海戦に於いては比較的近距離に在りても主として徐射常射を用い命中の確実を博し得たり
然れども艦砲射撃教範に規定しある徐射なるものは別に其必要を認めず一門毎の発射速度を著しく制限するは反て射手をして無為に困ましめ且つ砲台一般の労力不経済を免れず
寧に砲台の指命発射を以て常射を行い所謂砲数の制限を以て全艦の射撃速度を加減するを可とするが如し
従て徐射の号音も其必要を認めざるのみならず酣戦の際常射より徐射に復せんとする場合の如き往々急射の号音と誤解を来すの恐れあるを覚ゆ
「指命打方」 を常用とし、それによって間接的に射撃速度を調整するとうアイデアであるということは即ち、「三笠」 砲術長をもってしても 当時はまだ本射における 「一斉打方」 の必要性は認識しておらず、 かつ斉射間隔によって射撃速度を調整するという発想も無かったことになります。
三、敵の陣形混乱に陥り各艦右往左往に運動するに当たりては各砲台をして誤りなく艦橋より令する目標を会得せしむるには頗る困難を感ず 殊に目標返還の際の如きは酣戦中と雖も一時打方を中止して普く 目標を会得せしむるの必要に迫らるる事多し
此場合に所するため艦橋及び各指揮塔に画度 「ダイレクター」 を備え各砲座には悉く旋回度を画し置き正横線を基線とし前方何度にある二煙突戦艦、後方何度にある三檣敵艦と令するが如きも大いに 所令の目標会得を速やかならしむるの一手段なりとす
又た指揮塔を少しく外方に突出せしむる等其耕藏を多少の改良を施し塔内より直接砲台の砲身を視得る様にし砲台長をして毎に揮下の諸砲が果たして目標を誤解し居らざるや否やを確かめしむるも極めて 緊要なり
「ダイレクター」 を日本語にすると 「方位盤」 ですが、安保清種がここで言っているのは、今日で言う 「目標指示器」 の一種のことです。 つまり、「一斉打方」 によって有効な斉射弾を構成するための一元的な照準の必要性による、後の 「方位盤」 のアイデアではないことに注意して下さい。
四、海戦の際彼我離合し打方を開始する場合には毎に試射として一舷六尹砲の斉射を用いたり 或場合には其単発試射に優ること遠きを感ぜせしめたり
適正照尺、つまり当時で言う 「決定距離」 を早期に得るための方法としての斉射の必要性を言っていますが、本射における連続した有効弾獲得のための斉射の必要性は言っておりません。 つまり、 まだ安保清種には 「一斉打方」 の発想も必要性も無かったことになります。
五、砲戦中僚艦の弾着と混同して自艦の者を識別し能はざるに到らば近戦中に在りても一時打方を中止し 更に一斉試射を以て砲火を再始する事最も緊要なり
砲側照準による独立打方であったからこそ、集中射撃時における弾着錯綜によるこの戦訓が出てくるのであって、本射も一斉打方であったならばこの意見が出ることはあり得ません。
六、混戦中自艦及び僚艦の落弾目標の幅に蝟集する場合に於いても四千米突内外の距離に在りては発砲の瞬時より其飛行を注目せば艦橋より自艦十二尹砲弾の弾着を区別し得ること比較的容易ならん
射距離4千メートルにおける12インチ砲の弾丸飛行秒時は6.5秒ですので、秒時計などを使わなくとも弾着時期が判別できるという意味であって、決して目で弾を追えるということではありませんのでご注意を。
もちろん、12インチ弾でしたら状況によっては瞬間的に弾が見えることはありますが、砲煙や発砲の衝撃等々によって常に確実かつ容易に見えるということはあり得ませんし、砲術長がこれをやっていては他の 肝心なことが何もできなくなってしまいます。
七、高度低き日光に面して砲戦を交ゆるは照準の困難は兎に角弾着を識別し能わざる点に於いて極めて不利なり
廿七日海戦の末期に於いて 「ボロジノ」 「アリヨール」 等に対する際の如きは日光の爲め艦橋より僅かに十二尹砲弾の弾着を認め得るに過ぎずして専ら上檣楼監視将校の言を信頼し弾着の 修正を施したるも到底其効果少なきを悟り一時打方を中止するの已を得ざるに到れり
風波高き時風下に位置するの不利亦た之に譲らず
八、上檣楼に弾着監視将校を配すること並びに上檣楼、艦橋間の通信確保は緊要事項なり
この第7項及び第8項については、特にご説明するまでもないことでしょう。
九、下瀬弾の特長たる其爆裂効果は別問題として其命中弾の顕著にして遠距離にありて容易に識別し得るの点は実に砲火指揮上偉大の効果あるを認むると同時に其近弾が著しく敵の照準発射を妨ぐる に効ありしは益々其実証を示したり
十、我下瀬弾と雖も命中の箇所により其爆煙を認め得ざりし事往々あり殊に徹甲弾に於いて然りとす恐らくは船体を貫きたる場合ならんか
我十二尹砲弾が五千二百の距離に於いて工作船 「カムチャッカ」 に命中し遂に爆煙を挙げざりしも其一例なり
下瀬火薬については、装甲に命中した際に薬室内の前部に圧縮され伊集院信管作動前に不完爆となったとの指摘もされており、「三笠」 側から炸裂しなかったと見えた場合の個々の事象が信管不良により 作動しなかったのか、あるいはこれによるものかのどちらであるのかの詳細は今日となっては検証不可能です。
十一、海戦中目撃し得たる限りに於いては水面を打ちたる我が砲弾の約三分の一は爆裂したり 敵弾の我艦に命中して爆裂せざりしもの ありしも又往々水面爆発を致したるものありし
ロシア海軍においては、徹甲弾・徹甲榴弾については遅延信管が使用されていたことはその捕獲艦からも明らかにされていますが、榴弾 (旧海軍で言う鍛鋼榴弾) の場合の信管については不明で、本項からすれば瞬発信管が用いられていたことも考えられます。
十二、十二尹砲は固より六尹砲に於いても交戦中一発毎に特製 「ポンプ」 を以て筒 (「月」 偏に 「唐」) 中を洗浄せしめたるは 砲身冷却として夫れ自身有効なりしのみならず自然濫射を防ぎ砲員は頭脳を冷静ならしむるに間接の利ありしを認めたり
十三、四千五百乃至五千米突以外の射距離に於いて十二听砲以下の砲員受弾員等を毎々防御部内に位置せしめたるは大いに死傷者を 減じたる一因なりし 戦闘中は必ず実施すべき守則の一なりとす
十四、六尹及び十二听砲揚弾機は今回の戦闘中殆ど故障を不見して其供給速度も毫も不足を感ぜざりし
然して各揚弾機の 「チェーン」 を通ずる滑輪の周囲に帆布帯を巻きたると十二听揚弾機の一部は 「チェーン」 に換ゆるに索を以てしたるは大いに各部の喧噪を減じ号令伝達の防害を少なくせり
十五、敵の陣形混乱の場合に際しては往々二様の目標を選ぶの必要あり 且つは両舷戦闘の必要上より距離測定器は必ず二個を艦橋若しくは 其付近に常備するを要す
同一目標に対する場合にありても両者を参考とするは大いに利あるのみならず激動のため中途にして器も歪を生じたる際之を更換する間 一方に於いて有効なる測距を継続し得るは至大の利益にして今回自然に実験したる処なり
十六、発砲電池、夜中照準用電池等の不能に帰するは使用の繁閑、潮、雨、寒暑に曝露するの多寡等種々の原因よりして戦時特に 其多きを見る 本艦に於いて本年二月中旬呉出港以来五月上旬まで約三ヶ月間に此種の電器五百九十四個中不能に帰したるもの其数実に百八十三個の多きに及べり
今不能に帰せし電器毎月約百分比を挙げれば左の如し 尚参考として八雲に於いて実験したるものを保記す
(表 略)
兎に角各艦は毎月約一割の電器を失ひつつあるものとして三笠にては毎月平均六十余個の電器を新にする必要あり
幸いに工作艦運送艦等の便豊なりしを以て毎々良好の状態を保ち得たりしも扨て戦場に臨むや風波起こりして海水瀑の如く砲門より 進入し中甲板砲の発砲電池は短電路のため不能に帰せしもの多く主として信頼使用したりしは 「トランスフォーマー」 よりの 「ダイナモ」 電流なりし
然して我六尹砲の撃発装置の如きは遺憾ながら最後の副装置として信頼し難きものあり 各艦各砲に 「ダイナモ」 電流の応用は特に其必要を見る
又駆逐艦の如きは平素に在りても潮雨の爲め其電池を侵さるること多く海戦当日の如き殊に甚だしかりしと云う 駆逐艦装備の十二听砲に 限り全然撃発専用に改むる方寧に簡単にして有利なりと認む
十七、通信機関を導くに防御部内を通ずるは固より緊要なりと雖も伝話管の如きは其委曲延長の結果大いに通信の明瞭を欠くを免れずして 今回の戦闘に於いても司令塔よりの後部六尹指揮塔に通ずるものの如きは殆ど用をなさざりし
艦橋と前後砲塔共に各指揮塔間の如き砲火指揮上最も緊要なる箇所には別々副装置として成るべく屈曲少なき大径直通伝話管を導き 其破損せらるる迄の間極めて有効なる指揮を継続するは少なからざるの利益あり
又高声電話器は酣戦の際に於いても蓄音機的一種異様の発音をなすを以て場合により伝話管よりも有効なりしと云う
十八、「バー」 式距離号令通報器は戦闘中毫も故障なく終始有効なりし
この件については、先の 「加藤寛治の砲術」 において黄海海戦時の戦訓として距離号令通報器は故障が多い旨がありましたが、工作艦 「関東丸」 による現地での目盛板の改造と併せての改修の成果が現れたものとも考えられます。
十九、由来飛行中に於ける長弾運動は孰れも其弾軸と弾道切線と或る角度をなし遠きに従って其角度を増し弾頭の画く軌跡は恰も延伸せる 「スパイラルスプリング」 様の形状を呈するものにして弾長の大なるに従って弾丸銃身周に於ける曲線旋動の度は自から増加するを免れずとせば我鍛鋼弾の如き 弾長大なるものは遠距離に対し能く其弾軸を正当なる方向に維持し得べきや否や聊か疑なき能わざるなり
旅順及浦潮の間接射撃に於て我十二尹及八尹砲弾の爆裂せざりしものありしと言うが如き 8月10日の海戦に7千内外の距離にて 「アスコリッド」 命中したる我8尹砲弾が爆裂せずして其儘石炭庫に存留せりと言うが如き
将た今回の海戦に於ても捕虜将校 (旗艦 「スワロフ」 の参謀長並に砲術士官なりと言う) の語る所なりと言うを聞くに我砲弾の中に 著しき長口径弾ありて其命中せる場合には同じく爆裂したれども其飛来の状態は恰も跳弾の如くにして明らかに他と区別し得たりしと言うが如き
果して然りとせば我鍛鋼弾は7、8千以上の距離に於ては命中弾の幾分は或は爆裂せずして了るものあるやを疑わざるを得ず
尚斯弾飛行にして斯の如き現象あるとせば徹甲弾と同一縦尺を以てしては命中に少なからざる影響を及ぼす患なしとせず造兵上特に講究を 要すべき処にして唯だ遽に其長弾を短くするが如きは徒に鍛鋼榴弾の本能を減却し去るに過ぎず此辺の所深く当局者の考慮を切望するものなり
我徹甲榴弾の装甲板に対する効果は不明なれども徹甲実弾を必要とせざるや否やに就き併て講究を望む
二十、海戦後検査したる所によれば後砲塔12尹砲身は約3ミリ呉製6尹砲身は約2ミリ其内筒の砲口の方に延長したる実跡あり
右は何れも本年1月呉工廠に於て換装したるものにして新砲を以て多数の発砲をなす時は其内筒の延出は或は免れざるものならんか
二十一、6尹砲砲尾腕の予備は14門に対し3個あり 従来装載の安社製砲に対しては孰れも適合したりしが本年1月換装したる呉製砲7門に 対しては一つも適合せず
依て同4月工作艦関東丸に依頼し内1個を呉製砲に嵌合する様摺合せを施したれども呉砲の用に適合するもの必ずしも其乙丙に適合し 能わざるを発見せり 斯りては呉砲の6門は全く砲尾腕の予備を有せざると同様にて準備上頗る遺憾なき能わず
多数の製作に際し各部厘毫の差異は固より免れざる処なるべしと雖も斯種の如き尾栓装置の緊要なる部に対しては造兵上一層の注意を 切望するものなり
二十二、「ボートデッキ」 12听砲の準備弾薬にして其甲板に併列しありしもの10個は敵弾命中のため悉く誘発せり 然れども其位置に 直接せる6ミリ鉄板の 「ロッカー」 内に格納しありし12听準備弾薬10個は 「ロッカー」 の壁板甚だしく破られたるに拘わらず毫も異条なかりし 12听砲準備弾薬格納用鉄 「ロッカー」 の設備は最も其必要を見る
二十三、6尹砲廓天蓋に敵6尹弾の命中爆裂するや其直下1米突半に準備しありし廓内後壁弾台の鍛鋼弾3個 (各430ミリを隔つ) や装填のため3番砲手の抱き居りし鍛鋼弾1個は1米突乃至4米突の距離に吹飛ばされ其導環は孰れも離脱し弾頭弾底の一部に欠損を生ぜしものありしも 一つも炸発を起さざしりは幸なりし
然れども危機は真に一髪の間を存せざりしものにして曩には蔚山沖海戦に痛惨なる磐手の一例あり 今回の海戦に本艦に於ても 上甲板砲廓の天蓋を破られしもの3弾に及べり
司令塔、砲塔、砲廓の如き主要部の天蓋は充分の防御を必要とするは既に吾人が屡々唱道したりし所にして少なくも新艦に対しては 其断行を切望するものなり
二十三、6尹砲廓天蓋に敵6尹弾の命中爆裂するや其直下1米突半に準備しありし廓内後壁弾台の鍛鋼弾3個 (各430ミリを隔つ) や装填のため3番砲手の抱き居りし鍛鋼弾1個は1米突乃至4米突の距離に吹飛ばされ其導環は孰れも離脱し弾頭弾底の一部に欠損を生ぜしものありしも 一つも炸発を起さざしりは幸なりし
然れども危機は真に一髪の間を存せざりしものにして曩には蔚山沖海戦に痛惨なる磐手の一例あり 今回の海戦に本艦に於ても 上甲板砲廓の天蓋を破られしもの3弾に及べり
司令塔、砲塔、砲廓の如き主要部の天蓋は充分の防御を必要とするは既に吾人が屡々唱道したりし所にして少なくも新艦に対しては 其断行を切望するものなり
二十三、6尹砲廓天蓋に敵6尹弾の命中爆裂するや其直下1米突半に準備しありし廓内後壁弾台の鍛鋼弾3個 (各430ミリを隔つ) や装填のため3番砲手の抱き居りし鍛鋼弾1個は1米突乃至4米突の距離に吹飛ばされ其導環は孰れも離脱し弾頭弾底の一部に欠損を生ぜしものありしも 一つも炸発を起さざしりは幸なりし
然れども危機は真に一髪の間を存せざりしものにして曩には蔚山沖海戦に痛惨なる磐手の一例あり 今回の海戦に本艦に於ても上甲板砲廓の 天蓋を破られしもの3弾に及べり
司令塔、砲塔、砲廓の如き主要部の天蓋は充分の防御を必要とするは既に吾人が屡々唱道したりし所にして少なくも新艦に対しては其断行を 切望するものなり
二十四、本艦に於て防御部の外側に敵弾を被りしは12尹砲弾2発6尹砲弾5発にして12尹弾は孰れも5千内外の距離にて下甲板6尹甲鈑を 貫き背後の石炭庫に其破片を留め6尹弾は5500乃至5800の距離に於て1弾は前砲塔外鈑に他の4弾は中甲板6尹砲門付近に命中し孰れも貫徹せずして 其儘外側に炸発したるものなり
従て6尹以上の備砲にして敵弾のため廃砲に帰したるは砲鞍耳に直接命中を受けたる10番6尹砲1門のみに過ぎざりしと雖も外側炸裂、 跳弾破片等のため砲身に多数の微痕を被り若しくは照準器砲具等を毀損せられたるもの6尹砲6門の多きに及べり
敵にして若し我下瀬弾の如き強猛なる高勢爆裂弾を使用せしものとせば我備砲は6尹砲以上のみにても恐らく半数以上の廃砲を見るに至りしこと 推するに難からず 其他船体部に於ても彼我其位置を換ゆるとせば其災害の程度実に惨憺たるものありしを疑わず 将来の造船造兵に就ては深く戦利艦の被害程度に 鑑み周到なる講究を重ねて高勢爆裂弾に対する船体兵器の防御に充分の改良刷新を施すこと最も緊要なりとす
各国に於て高勢爆裂弾の研究益々発達したる暁に於ては交戦未だ幾何ならずして忽ち沈黙に帰するが如き多数の備砲あらんより寧ろ幾分の砲数を 減ずるも砲身孔、砲身の間隙、砲座の天蓋等其他充分の防護を施し長く交戦に堪える兵装を備えるを反って得策とするに至るべし
二十五、今回の海戦に於て敵装甲艦が砲弾のため比較的容易に沈没したりしは交戦距離比較的近くして我砲火の効果極めて確実偉大なりしに 因るや固よりなりと雖も敵艦が石炭其他を過度に増載して常用水線以下に没し居たると当日風波高くして乾舷の較や低き部に穿たれたる弾孔は著しく浸水の媒を なしたるとに帰するを得べきが如し
現に我艦船に於ても水線付近に被弾して浸水のため甚だ困難を感じたるもの少なからざりしを思えば将来の新戦艦には下甲板 「シタデル」 甲鈑を前後に拡張して水線帯甲の上部に更に 「コンプリートアーモアベルト」 を装着すること得策に非らざるか
然れども我速力の彼に比し概して優越なりしは今回の海戦に於て戦略戦術上至大の効果を奏したるものにして今後益々之が増進を図るの 必要あるを以て速力の幾分を犠牲として装甲に充つるが如きは断じて不可なり 其辺の処深く当局者の考慮を切望す
二十六、司令塔にして海戦に災害を被りしもの敵にして 「ツレサレウ井ッチ」 「リューリック」 「オスラビヤ」 等其重なるものにして我に於ても今回の海戦に三笠、朝日、富士、日進等孰れも人員要具に多少の損傷を被れり 之れ蓋し現時の司令塔が恰も弾片破片の 収容所たるが如き位置に設置せらるるに因るものにして必ず改良せざるべからざるものの一つなり
元来司令塔なるものは戦闘中主脳将校が其艦を指揮操縦すべき最良唯一の発令所として設計せられたるものなるに拘わらず今日尚実戦に 際し艦長其他主務将校等の位置に関し区々として多少の議論ある所以のもの必意するに司令塔の位置比較的低きに過ぐると展望の点に於て較や欠く所あるが 為めに外ならずして其位置の高低展望の便否は実際一艦の戦闘力発揚上少なからざる関係を有するを以てなり
砲火の指揮は指揮者の眼高大なれば大なる程有利なるとは夙に一般の認める処にして実戦を経るに従て益々其感を深くせり
近来英国に在りても指揮者の位置を上檣楼に選定すべしとの議論ありと言うも蓋し所以あるなり 然れども其効果は指揮に関する通信機関の 完全なる具備と相俟たざるべからざるが故に造船上設計せられたる指揮者の位置を離れて戦闘中任意の位置を選ぶは自から幾分の不利不便を免れずさればとて 現時の司令塔を其儘高めんには 「ツリム」 の許さざる所にして勢い鈑厚を減ぜざる可らず 然るに操艦に要する諸機関なるものは各種の砲弾に対し絶対的に 防護するの必要あり 舵機は固より回転「テレグラフ」の微と雖も其破損は直ちに陣形紊乱の因をなして戦局の不利を醸すことなきを保せず 「ツレサレウ井ッチ」 「リューリック」 の如き舵機に関する其好適例なり
是に於てか高きに従て益々有利なるべき指揮者の位置と飽迄防護を要すべき操艦諸旗艦の位置との調和は自から容易ならずして其孰れかに 幾分の譲歩を見るか全然分離するか二者を選ばざる可からざるに居たる
今試に司令塔に就ての小官の考案を述ぶれば左の如し 但し一等巡洋艦以上の新造艦に対するものとす
現時の厚甲鈑司令塔を廃し中甲板「シタデル」甲鈑内に薄甲鈑大型司令塔を設け此処に舵輪其他操艦に要する一切の旗艦を備え 尚お砲火指揮に関する諸機関の予備装置を設くるものにして其大さは適宜とし甲鈑の厚さは「シタデル」甲鈑と相俟て各種の砲弾に対し絶対的に 防護せらるるに足るを要す 其天蓋甲鈑も亦然り、前檣の下半部を装甲檣とし其頂点に一司令塔を設け此処に「コンパス」測距儀其他砲火指揮に関する一切の 機関を備ふるものにして下層司令塔、上檣楼、各指揮塔に通ずる伝話管の如きは殊に大径なるを要す 其の高さは現時の「コンパスブリッジ」より較や高きを 適当とし其大さは内径3米突乃至3米突半位とす
上層司令塔並に装甲檣の厚さは3吋乃至3吋半位にて4千米突内外の距離に於ける6尹以下の砲弾と破片とを防護するに足るを要す
測距儀は上層司令塔の上部と装甲檣の台とに2個を常備し孰れも防護鈑を有す 別に日常の航海用として操舵に要する機関の一部を現時の 如く下層司令塔より 「ホイルハウス」 に導く可し 「ホイルハウス」 は戦時取除く様設計するも可なり
前檣は装甲檣とは全く独立にし小形のものを設くるも可なり 右は昨年10月小官八雲在職中提出したる意見と其主義に於て同一なるも 今回の海戦に於て益々其必要を認めたるに付微細の点に修正を加え更に提出せるものとす
二十七、装甲鈑の背後に於ける充実せる石炭庫は防御上極めて有効なるを実証したり 防御甲板上の炭庫には中甲板の 裏面迄毎に隅なく石炭を充実し置くは戦に臨むの準備として特に注意すべき要件の一なりとす
二十八、弾片防御用として釣床 「マントレット」 等の有効なるは既に普く了知せらるる処なりと雖も今回の海戦に於て 其効果実に驚く可きものあるを実証したり
殊に艦橋、小口径砲の背後、砲塔砲廓の指揮塔空隙の側背等に使用したる釣床の如きは孰れも多少の破片弾片を食止め明かに人員砲具等を防護し得たる実跡を留め前檣中部の周囲に併縛したる釣床及び司令塔の周囲を巻きたる索具の如きは亦多数の破片弾片を食止め大に其散乱を防阻したるを証せり 「マントレット」 は釣床に比すれば少しく劣る処ありと雖も依然有効なりし
二十九、12尹砲塔の自働照準装置は全くに精巧に失し往々歪みを生じ易きの慮あり直接式に改良を要す
尚砲塔砲に照準器改装手を必要とするは一般の認むる処にして其位置と照準器に相応の設備を要す
三十、今回の海戦に 「ボロジノ」 型戦艦が砲弾に対して比較的脆かりしに反し 「クニヤージスワロフ」 が幾多の 魚雷攻撃を被りしに拘わらず (魚雷の幾発が命中したりしやは固より不明なれども殆ど運動の自由を失いたるものに対し孰れも近距離より 発射したるを以て割合に多数の命中ありしを推し得べし) 沈没容易ならざりしは此同型艦の特色たる水線下裏面の特製甲鈑が預って 少なからざる効果ありしに由るに非ざるか兎に角戦利艦 「アリヨール」 に就きて充分装甲法を講究し新艦防御上の参考に資すること 目下の急務なり
三十一、12尹砲発射に際し砲塔の換装室及其弾薬庫に在りし者は其激動の強弱により射弾の徹甲弾なると鍛鋼弾なるとを容易に区別し得たりしと言う 思うに両者其弾壁の硬軟により筒 (「月」 偏に 「唐」) 面に摩擦さうるの度に強弱あるが為に非ざるか筒内作用の参考に資するに足るやを思い暫く茲に付記す
以上が安保清種の 『日本海海戦に於ける実験事項並びに将来の改良に就いての希望』 の全文です。 まさにこれが連合艦隊旗艦 「三笠」 砲術長による日露海戦における砲戦・艦砲射撃の総括であり、当時の関心事がどこにあったかを示すものです。
そして砲術について言うならば、これを要するに 「三笠」 においてさえ一斉打方は実施していませんし、ましてやまだその必要性も着想も無かった ということです。
(注) : 本項で使用した画像は、総て防衛省防衛研究所が保有保管する史料からのものです。
最終更新 : 03/Jul/2011