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英海軍 Thring 大尉の来日



  論    点


  遠藤氏 :

海戦から100年後の今日に至って、海戦直前にイギリス海軍から最新の砲戦技術が日本海軍に伝授されており、伝授の成果として海戦当日の日本海軍の命中率が向上していたことが明らかになった。
(・・・中略・・・)
スリング大尉が日本側にイギリス海軍の研究成果を伝え新兵器の「変距率盤」の説明をしたのが、(日本) 到着翌日の (明治38年) 4月15日。 そして、日本側が対策会議を開いたのが翌日16日。 この日、東郷長官は現行の日本式の射撃法 (独立打方) を廃し、イギリス式の射撃法 (一斉打方) に変更することを決意した。 長官の決意は4月17日に連合艦隊全員に布告 (連隊機密278号) された。

( 学研48 『日本軍艦発達史』 p114 )


スリリング中尉 (ママ) の持参した変距率盤はマルタ海軍工廠の記録から同工廠で製作したことが明らかになった。
(・・・中略・・・)
同中尉は特設運送艦の艦長に任ぜられて極東に急派されたのであって、そのために最年少で艦長に任ぜられた栄誉を手にすることができた。(ママ)
(・・・中略・・・)
何故、東郷は敵艦来航の直前にSALVOの採用を命じたのか。 その原因はイギリス海軍士官の来日に求めるべきである。

( 『軍事研究』 H18.1 p190〜191 )



  多田氏 :

この訓示 (連隊機密276号) はイギリス海軍から日本に派遣されたスリング海軍大尉による 「変距率盤」 の説明が日本海軍に対して行われ た(4月15日) 後に急遽発令されたとしているが (遠藤昭・『日本軍艦発達史』)、そのようなことは考えられない。
(・・・中略・・・)
イギリス海軍でも研究・開発中で試行錯誤の段階であり評価も定まっていない初期の射撃指揮装置 (ビッカース・レンジ・クロックやドュマリック計算尺など) を日本に持参するなどということは考えられない。 それに日本海軍が今まで訓練に訓練を重ねてきた方法を海戦間近になって素性のしれないイギリス海軍大尉の一言だけで艦上確認実験も行わずに変更するなどということはありえない。

( 『軍事研究』 H17.11 p118)


点 (イギリス海軍士官の来日) と点 (東郷長官の方針転換) を結んで線にしたいという遠藤氏の気持ちは理解できるが、今まで述べたような筆者の指摘や疑問に対する裏付けのある説明なしに 「何故、東郷は敵艦来航の直前にSALVOの採用を命じたのか。その原因はイギリス海軍士官の来日に求めるべきである」 と一方的に結論付けるのは無理があるのではないか。

( 『軍事研究』 H18.2 p191〜192 )




  解    説


英海軍スリング大尉の来日ということそのものは砲術のご説明上はどうでもよいことなのですが、その中に含まれる 「変距率盤」 や東郷長官の布告 「連隊機密第276号」 などは、このあとの当時の日本海軍の砲術に関する解説に関連してきますので、ここで採り上げておくことにします。

そしてこのスリング大尉 ( W. H. C. S. Thring ) の来日というのは、遠藤氏の最初の主張である雑誌 『戦前船舶』 号外 (H16.10) 中での大発見とされる大黒柱的事項です。 

その主張というのは、彼が持参した 「変距率盤」 と英海軍の最新の砲術 「SALVO」 なるものの説明によって、東郷長官が日本海軍の砲術を大転換を決意し、その結果日本海海戦で大勝利を収めた、と言うのですから、もし本当ならばこれはもう私達でもビックリの大変なことです。

では、遠藤氏の主張は十分な根拠に基づく事実なんでしょうか?

実際は、多田氏が言っているように遠藤氏が単にある点と点を勝手に結んだだけの想像の産物で、その主張には何らの確たる根拠もありません。 これは遠藤氏自らが次のように言っています


スリング大尉の日本での足取りは明らかでないが、推定はできる。
(・・・中略・・・)
この時期の東郷長官や加藤参謀長の足取りを日本側資料で調べたが、資料そのものが発見できなかった。
(・・・中略・・・)
イギリス海軍で保存していたT少将の経歴書を精査したところT大尉の来日は4月14日であることが解った。 そこで、15日面談、16日日本側会議、東郷長官決断、17日布告の推測が成立した。

(雑誌 『戦前船舶』 号外 H16.10 p6〜8)



要するに遠藤氏の主張の論拠はたったこれだけしかなく、これに基づいて大発見と唱えているわけです。 こんなことが “戦後百年経って初めて遠藤氏の手によって明らかとなった真相” と言えるものなのでしょうか?

「変距率盤」 や伝授されたとされる砲術についてはこの後の項で説明しますので、この英海軍士官と東郷長官との面談ということだけに絞って、多田氏が疑問や異論を出されていること以外に、私が気になる点を指摘させていただくと、次のとおりです。


本当に東郷長官と面談したのか?  14日来日で翌日面談と言っていますが、場所はどこでしょう。 当時の交通事情を考えるとある程度限定されるでしょうし、また双方の同席者は誰でしょう。 何故このような 重要な面談や会議についての日本側の公式記録や戦後の後日談が全く無い のでしょう。

もし仮に本当に東郷長官と面談したとすると、スリング大尉はどういう資格や肩書きだったのでしょうか? 我々の世界では常識的に、何の資格も肩書きもない一外国海軍大尉に連合艦隊司令長官が私的な面談するなどは考えられません。 もし 英国海軍の使者としての何らかの公式な資格や肩書きがあったのなら、その記録が何も無いはずは ありません。 「極秘明治三十七八年海戦史」 にも記述があるとは聞いたことがありませんが。

本当に 「変距率盤」 が譲渡され、最新砲術が伝授されたのならば、機器の取扱説明や砲術の解説 (データを含む) などが 連合艦隊司令長官に “口頭だけで” 伝えられたなどは全く考えられない ことです。 ではその説明用の “公式文書” はどうなったのでしょうか。 それも長官用1冊だけではなく、少なくとも参謀や各艦砲術長クラスに配布する数が必要ですが。 

もし日露戦争中に最新兵器や最新の砲術が英国から導入されたとしたら、なぜその様な重要な事項について日露戦争以降の砲術関係、例えば 横砲校での講義資料などの中でそれに関係する記述が一切無い のでしょうか? 同盟を結んでいる英国海軍から戦時中に便宜を受けたことが、戦後の日本海軍部内でさえも隠さなければならないような事情が何かあるのでしょうか。

もし遠藤氏の主張が事実だとすると、戦後に少なくとも 日本海軍から英海軍に対して何らかの正式な謝辞・謝礼があって然るべき ですが、なぜそれについての記録や記述などが無いのでしょうか? 日本海海戦の最大の勝因であるはずなのに。


研究家を名乗る以上は、多田氏の指摘事項と併せてこれらのことに対しても確実な根拠が示されない限り、“真相が明らかになった” などとは少なくとも活字にして出版すべきではないこと、と私なら思いますが ・・・・・







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 最終更新 : 03/Jul/2011