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「ペトロパブロフスク」 撃沈 (後編)



 「ペトロパブロフスク」 撃沈の真相


いよいよこの繋維機雷について 『別宮暖朗本』 で最もトンデモなところです。


問題点がいくつもある。 点で敷設すれば間隔が空きすぎ、衝突するかどうかは神任せになってしまう。 つまり、敵の予想される航路に点ではなく線で敷設せねばならない。 (p184)(p191)


また、戦艦などの水雷防禦のため二重底の艦底を持つ船には、2発以上同時にあてる必要がある。 (p184) (p191)


小田は解答を出した。 2つ以上の機雷を互いにロープでつなげばよい。 (p184) (p191)

(注) : 黒字 強調 は管理人による。

ペトロパブロフスクは、沈船の少ない安全航路を選び、ルチン岩方面に突出した瞬間、艦首をロープにあて、そのまま2個の機雷を引き込んだ。 機雷は艦の両側で炸裂した。 ペトロパブロフスクは1分半で轟沈した。 マカロフは艦と運命をともにした。 (p185) (p192−193)


( 『別宮暖朗本』 より (p185) (p193)

(注):黒字 強調 は管理人による。


皆さんはこのイラストの上段をみて、これで下段のようになると思いますか?

実に笑えますね。 このイラストの様なことには 絶対に、100% なるわけがありません。

ちょっと考えてみて下さい。 100m間隔で敷設したと言っている それぞれの機雷の下には、繋維索に繋がった約200キロの繋維器が海底にある のです。


指摘 (1) :
この連繋は2個ずつなのでしょうか、それとも各隊で敷設した機雷全部なのでしょうか?
もし2個なら、1つおきに100mの間隔が空きますので、露戦艦はこの間をすり抜ける可能性もありますし、当たったとしても1個です。 そのような低い命中率を期待したもの?
もし全部繋がっているなら、その全ての機雷の繋維器を引きずりながら?
繋維器を引きずる衝撃により機雷は自爆してしまうでしょう。 幸か不幸か 「二号機雷」 は触角式ではありませんので。

指摘 (2) :
両脇の機雷は繋維器に引きずられて、繋維索かあるいは他のどこかが切れる (壊れる) 時点まで、機雷は露戦艦の艦首と海底の繋維器の間のどこかです。
もしこのまま繋維索も連繋索も切れなければ、そのままズルズル行きますから、機雷は艦底のより深いままで、かつ横にかなり離れた位置で。
そして何かの拍子に自爆します。 もちろん艦底直下でもなければ、舷側でもありません。

指摘 (3) :
仮にこの上段の図のように敷設が可能であったとしても、露戦艦が連繋索を引っかけた時に、何処が一番強度的に弱いのでしょう?
そうです。 連繋索かその連繋索を機雷缶に繋ぐ金物以外にはあり得ません。 もしそうでなければ、次に壊れるのは機雷缶本体とその金物との接続部または、機雷缶と繋維索を繋ぐ部分です。
そして、その切断時の衝撃によって機雷が自爆する可能性が高いですし、さもなければ機雷缶の外板が壊れて水が入ります。

指摘 (4) :
そもそも、このイラスト上段のように連繋索が真横に張れるとお思いでしょうか? 連繋索には何を使ったのでしょう。 マニラ索? ワイヤー? 太さは?
マニラ索なら敷設直後は浮きますが、時間が経って水分を吸うに連れて海中に垂れ下がります。 ワイヤーなら最初からその自重でもちろんです。 何れにしても、海中で索を真横一線になどは張れません。
横に引っ張って固定するものが無い限り、両側は繋維索によって海中に漂っている機雷缶ですから。
もしこの様なことが可能とするなら、何故今日に至るまで、旧海軍・海自のみならず、繋維機雷の敷設について世界中のどこの海軍もやっていないのでしょうか?



ちょっとでも考えたら、こんな 「繋維機雷」 を連繋索で繋ぐなどは、現実にはあり得ないことが判ります。 お恥ずかしい限りの “素人” の空想・妄想ですね。 何が何でも小田喜代蔵の手柄話にでっち上げたい、というための。

そして当然ながら史実も、この時以降、旅順港沖だけで1400個もの機雷を敷設しますが、この時も含めて、旧海軍では繋維機雷を連繋索で繋いだ、またその為に機雷缶を改造した、などということはありません。

そして、ロシア側の記録によっても、「ペトロパブロフスク」 に当たった機雷は “艦首に1個ないし数個” とは言っていますが、“連繋された” などは言っておりません。 そして、機雷の爆発は1回のみです。

もちろん、この著者の言う100mも離れて連繋されたものなら、2個又はそれ以上が艦首1箇所に当たるわけがありません。 そして、ロシア海軍公刊戦史にあるように、艦首部への触雷以降の爆発の連鎖については、ロシア海軍の専門家の手によって明らかにされています。

また、その直後に触雷した 「ポビエダ」 も当たったのは1発のみです。

更には残余のロシア艦艇は周辺海域の警戒を行いました (付近の浮流物を潜水艇の潜望鏡と錯覚して射撃までしました) が、“連繋された機雷” などは見つかっておりません。

これを要するに、少しでもキチンと調べる気があるならば、二号機雷をそのまま敷設したことは明々白々のことです。



ところで、この著者が何によってこんな空想・妄想したのかを考えると、おそらく当時の 各国の新聞記事が元になったものでしょう。

これら新聞記事が何に基づいたものかは不明ですが、この記事の件は連合艦隊でも入手しまして、逆にロシア側の “連繋機雷” の発想・使用が疑われる一つになりました。

これは、第二艦隊参謀の山路一善海軍中佐が提出した意見書の一部です。


yamaji_opini_01_s.jpg


普通なら、こんな何の根拠にもならないものをもって、こんな “これが真実だ” などのトンデモ文を書くのか、と思いますが ・・・・


そしてこの 「ペトロパブロフスク」 の撃沈とマカロフの戦死ですが、

左側の図は日本側の記録による 「ペトロパフロフスク」 の触雷・沈没位置です。 これと、右側の旧海軍側の機雷敷設位置とを比較してみてください。


petro_mine_sink_02_s.jpg   ryojun_minelay_chart_01a_s.jpg


そう、「ペトロパブロフスク」 を撃沈したのは、小田が指揮した 「蛟龍丸」 の敷設したものではなく、第四駆逐隊が敷設したものです。

ロシア側の記録はこれよりも少し西側ですが、機雷敷設位置からすると日本側の方が正しいと考えられます。 何れにしても、これより更に東側の 「蛟龍丸」 の敷設線ではあり得ません。

「ペトロパブロフスク」 が被雷したのは、ロシア側の浮流機雷であった可能性も否定はできませんが (実際、この作戦時にも日本側は多数の浮流機雷を発見、処分しています)、ロシア側の記録はこれには言及していませんので何とも言えないところです。

したがって、小田が敷設した機雷でもなく、かつ小田は敷設部隊の指揮官でもありませんから、 『別宮暖朗本』 中のタイトルにある “世界で初めて機雷で戦艦を撃沈した男” は、第四駆逐隊司令の長井群吉海軍中佐 とするべきでしょう。

少なくとも “100%” この著者の言う小田喜代蔵ではありません。 もちろん、「二号機雷」 を発明しただの、本作戦を考えただの、そして本作戦を指揮しただのも含めて。



以上、8回にわたって敷設水雷及び機械水雷についてお話ししてきましたが、この著者が得意げに蕩蕩と書いているものが、何等の確たる史料に基づかない、総てウソと誤りであることを検証しました。

そして、これまでの指摘と合わせて、結局、


小田喜代蔵が発見した攻撃法であるが、その主題の一貫性に驚かさせる。 すなわち機雷を攻撃的に使用すること、および管制 (コントロール) することである。 コントロールする手段は常にロープであるが、戦艦パブロフスクを撃沈し、津軽海峡を封鎖し、戦艦ナワーリンを撃沈した小田の創意工夫は不朽だろう。 (p323) (p335)



と、この 『別宮暖朗本』 の著者が得意げに書くその総てが、全くのデタラメ であることがお判りいただけたと思います。

前回の 『第2話 連繋機雷 (一号機雷) の話し』 と今回の 『第3話 日露戦争期の機雷の話し』 の2話にわたてお話しした中で、『別宮暖朗本』 の記述でその誤り、ウソを指摘した個所を次頁に纏めてみました。 たったこの機雷という一項目についてだけを採り上げてもこれだけの量がある本だというということを実感して下さい。


(第3話 終わり)



(注) : 本頁で使用した画像データは、特記するものの外防衛研究所保有保管史料より。





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 最終更新 : 06/Jan/2012