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(付) 『別宮暖朗本』 機雷関係指摘個所一覧



以下に列挙した引用文は、前回の 『第2話 連繋機雷 (一号機雷) の話し』 の全5回とこの 『第3話 日露戦争期の機雷の話し』 の全8回の中で機雷について 『別宮暖朗本』の記述を指摘した個所であり、その全てが何等の根拠にも基づかない、誤り、ウソ、であることをご説明しました。



防禦水雷とは攻撃水雷 (魚雷や爆雷) に対する言葉  (p179) (p186)


日露戦争のころの防禦水雷は大きく3種類に分けることができる。 @ 視発水雷、A 電気水雷、B 機械水雷である。 (p179) (p186)


@ 視発水雷とは字のごとく、哨兵が見た上で爆発させるものである。 たとえば海峡などに爆発物を設置し、衛所(見張り場)で敵艦が侵入してきたならば、その真下の水雷を爆発させるわけである。  (p179) (p187)


(視発) 水雷には二通りあり、海底水雷と浮標 (ふひょう) 水雷がある。 だいたいのことろ電線をつなげ、それで発火させるのが普通である。 (p179) (p187)

(注) : 青色文字は管理人が付加

また安全を期して、衛所を二ヶ所以上設け、目撃が合致した場合のみ爆破させることもできる。  (p179−180) (p187)


海峡突入に当たり敵艦が手前で砲撃をおこない衛所や砲台を事前に破壊することが予想される。 その場合、敵の砲撃位置をあらかじめ予想し、視発水雷を設置することは極めて有効であり、これを大前進水雷と呼んだ。  (p180)(p187)


電気水雷は電線を海底にはわせる必要があり、発見されやすい欠陥がある。 (p180) (p187〜188)


薩英戦争では薩摩藩が錦江湾に、日清戦争では清国が旅順湾口に、電気水雷を敷設した。 (p180) (p188)


米西戦争でスペインがマニラ湾に (電気水雷を) 敷設したが、爆発しなかった。 (100ページ参照) (107頁参照)  (p180) (p188)

(注) : 水色文字は管理人が付加

B 機械水雷の略が機雷である。 ただ日露戦争当時の機雷は、水深100メートルを超えては、なかなか敷設できなかった。 このため大型艦は、水深の浅い場所を通航すること自体を避けるようになった。 (p180) (p188)


外国では防禦水雷 (Mine) を大きく管制型と接触型 (コンタクト・マイン又は発明者からハーツ・タイプ) に分類する。 日本でいう電気水雷と視発水雷が管制型であり、機械水雷が接触型である。 (p180) (p188)


機雷は非常に危険な武器である。 まず敵味方を区別しない。 次に機雷は海流などにより移動することが起きる。 そして、ワイヤーから切断されれば海上を浮流する。 (p181) (188)


日露戦争後3年たっても渤海湾や黄海における民間船舶の触雷事故はあとをたたなかった。 (p182) (p189)


小田喜代蔵は防禦水雷を攻撃的に使用できないかと考えた。 (中略) 小田は、電気水雷は防禦目的にしか利用できないとして早くから棄て、研究対象を機械水雷一本に絞った。 (p182) (p190)


 (機械水雷は) 海底に重しをおき、そこからワイヤーを上に伸ばし、機雷本体につなげてある。 水面下に敷設するのが普通であるため、事前に水深をチェックし、ワイヤー長を調節しておく。 (p182−183) (p190)

(注) : ( ) は管理人の付記

敷設にあたっては、エレベーターで上甲板まで上げ、そこで一定時間後に作働するよう遅延スイッチを押し、レールで海中に投下する。 小田は、海中投下後ワイヤーが自動的に伸びるよう 「小田式自動繋維器」 をまず発明した。 (p183) (p190)


その後1896年、二号機雷を発明した。 これは、発火装置を除いて現在使用されている機雷と同じものである。 (p183) (p190)


小田は機雷敷設船蛟竜丸も自ら設計した。 (p183) (p191)


日露戦争が勃発すると、港内に潜み、たまにしか出てこない旅順艦隊の戦艦をなんとか一隻でも撃沈することはできないか、と小田は考えた。 現在からみれば、当然のように聞こえるかもしれないが、当時としては破天荒な考えだった。 (p183) (p191)


問題点がいくつもある。 点で敷設すれば間隔が空きすぎ、衝突するかどうかは神任せになってしまう。 つまり、敵の予想される航路に点ではなく線で敷設せねばならない。 (p184)(p191)


また、戦艦などの水雷防禦のため二重底の艦底を持つ船には、2発以上同時にあてる必要がある。 (p184) (p191)


小田は解答を出した。 2つ以上の機雷を互いにロープでつなげばよい。 (p184) (p191)


さらに、水深の問題がある。 小田はできれば戦艦を狙いたかった。 それがためには戦艦の深い船底に合わせてワイヤー長と満潮時の水深、位置を綿密に計算せねばならない。 (p184) (p191)


4月、ロシア艦は満潮時の午前9時前後3時間しか出撃できず、 (後略)  (p184) (p191)


4月12日深更、小田をのせ た 『蛟龍丸』 は、船尾や舷側に機雷を提げた8隻の駆逐艦・水雷艇と団平船 (だんぺいせん) (石炭積み込みに用いる小舟) を連れ従えて、旅順港外に向かった。 (p184) (p192)


小田の面白いところは、駆逐艦や水雷艇の司令官に具体的敷設方法を任せたことである。 (p184) (p192)


約2時間をかけ、平均100メートル間隔、4.3キロに延びる機雷線をつくり終えた。 (p185) (p192)


ペトロパブロフスクは、沈船の少ない安全航路を選び、ルチン岩方面に突出した瞬間、艦首をロープにあて、そのまま2個の機雷を引き込んだ。 機雷は艦の両側で炸裂した。 ペトロパブロフスクは1分半で轟沈した。 マカロフは艦と運命をともにした。 (p185) (p192−193)


( 『別宮暖朗本』 より (p185) (p193)



ペロトパブロフスク撃沈は、機雷戦術に新局面を開くものだった。 とにかく、機雷を攻撃的に使用するという発想はそれまでの世界の海軍界にはなかった。 (中略) そして、小田の発明になる線状敷設も残った。 (p187) (p194)


ロシア海軍にも小田に匹敵する水雷の鬼がいた。 機雷敷設艦アムール艦長のイワノフ中佐である。 イワノフも小田と同様に、攻撃的に機雷を使用できないかと、密かに考えていた。 イワノフの回答は 「機雷原」 だった。すなわち、面をもって圧倒的な量の機雷を敷設する。 (p187) (p194)


小田は機雷の攻撃的な使用として、さらに別の方法を編み出している。 連繋水雷である。 小田はこの方法を日露戦争前に発案しており、一号機雷という特殊な浮標機雷をそのために発明していた。 (p188) (p195)


(小田喜代蔵海軍中佐は) 一号機雷という特殊な浮標機雷をそのために発明していた。 一号機雷は全重量123キロ、炸薬量45キロ、 深度索長6メートルである。 浮標機雷とは 「浮き」 の下に小型機雷を吊したものである。 (p188) (p195)

(注) : ( ) は管理人の付記

専門的な機雷敷設艦がなくとも、三人がかり程度の人力で甲板から海中に投下できる利点があった。 (p188) (p195)


小田は、ヒョロヒョロ魚雷による駆逐隊の戦果不振を一号機雷でもって打開することを提議した。 方法は、「二隻の駆逐艦が、700〜900メートル幅でロープを引き、敵艦の前方から突進する。 ロープの中央には2個の一号機雷をつなげる。 そして、その2個の中央を敵艦の艦首に激突させる。 駆逐艦はその瞬間にロープを放す。 敵艦は惰性で前に進み、機雷は敵艦の両舷側で炸裂する」 というものである。 (p188〜189) (p195)


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( p188 ) (p196)



小田は旅順陥落後、駆逐艦乗組員を交代で集め、この連繋機雷攻撃法の訓練を実施した。 そして日本海海戦では具体的戦果を挙げるに至った。 (p189) (p196)


日露戦争以降平時になると、駆逐艦艦尾にレールを設置したり、浮標機雷を大型化させたりなど、改悪が相次いだ。 (p189) (p196)


戦時では、水兵の生命の犠牲を覚悟した非常手段・非常訓練ができるが、平時で命をかけた訓練はやりにくい。 (p189) (p196)


そして、魚雷の航走距離が伸び、速度もあがると、連繋機雷は駆逐隊の武器としては徐々に必要性が薄れ、1927年制式武器から除外された。 (p189) (p196)


それまで、日本の駆逐艦は、一号機雷を、2〜4個常備していたのである。 (p189) (p196)


黄海海戦が終了すると、海軍省は本格的にバルチック艦隊対策を検討し始めた。 1904年 (明治37年) 9月、海軍省は極秘裏に 津軽海峡封鎖作戦の策案を小田喜代蔵に命令した。 (中略) 封鎖せよという命令の本旨は防禦水雷敷設にある。 小田は封鎖の方法について昼夜を 問わず熟考した。 (p266) (p275)

(注) : (明治37年) は管理人付記

最も困難な点は、津軽海峡の水路部の水深が200メートル以上在り、小田自身の考案になる二号機雷 (183ページ (190頁) 参照) が敷設出来なかった ことである。 (p266) (p275)


さらに状況次第では連合艦隊は津軽海峡を通過して、高速で太平洋方面に出る必要が生じるかもしれない。 また、できるだけ沿岸水運を遮断したくない。  つまり永久敷設となり、かつ敷設に時間がかかる機雷原という方法はとれない。 (p266) (p275)


小田の出した結論は、太平洋に面する汐首岬−大間崎に浮標機雷を敷設し、竜飛岬沖には電気水雷を敷設することだった。 (p266) (p276)


小田は機械水雷を2種類考案した。 一号機雷と二号機雷であり、一号機雷が通称 「浮標機雷」 と呼ばれるものである。 (p266) (p276)


ただ敵艦に浮標機雷一つを触雷させたとしても、小型であり、撃沈することはむずかしい。 このため小田は、浮標機雷をロープで連繋させることにした。 これならばロープに当たった艦はそのまま進むしかないので、2個以上命中させること (が) できる。 これは去年、ペトロパブロフスクを撃沈したのと同じ方法である。(185ページ (192頁) 参照)  (p267) (p276)

(注) : ( ) は脱字につき管理人が補足

1904年12月、海軍省は津軽海峡防衛隊を発足させ、函館に水雷艇を配属した。 さらに津軽海峡の海流や風向きを徹底的に研究するため、 造兵大監種子田右八郎が防衛隊所属となった。 種子田は浮標機雷の線状敷設のため、海峡に対し、どういった角度で、どういった量が適当か 調べ上げた。 (p267) (p276)


汐首岬−大間崎線を6ブロックに分け、おのおの6線の浮標連繋機雷を、敵艦進入阻止の命令あり次第、竜飛岬沖に待機している6隻の仮装巡洋艦が前進し、 敷設することにした。 また掃海をあざむくため、大量のダミー水雷を浮流させ、さらに副次的手段として海岸砲と組合せ、管制機雷をより浅い竜飛岬沖に 張り巡らせる計画が最終案とされた。 (p267) (p276〜277)


機雷をロープでつないでも、海に落とせばグニャグニャになってしまいコントロール不可能である。 そのうえ予定戦場に機雷を落とすと味方被害の可能性がある。 こういった発想にもとづくものは、初めから武器にならない。 (p289) (p300)


機雷をまくという海軍戦術は、どこの国の海軍にもない。 機雷とは径0.74メートル、400キロに達する大きなものであって、それを浮流させたならば簡単に発見されてしまう。 それゆえ海底の重しからワイヤーを伸ばして沈置する。 そしてコントロールできるものが魚雷なのであって、機雷まきが戦術になるのであれば、魚雷はいらない。 (p289) (p300)


10時5分、浅間を旗艦とする水雷艇からなる奇襲隊を竹敷要港に戻した。 バルチック艦隊の先頭が巡洋艦ゼムチューグであるため、 戦艦スワロフへの連繋水雷による奇襲ができなくなったためである。 (p292) (p303)


午前0時ごろ、連繋機雷をもつ奇襲隊として指定された、鈴木貫太郎率いる第四駆逐隊がナワーリンの前方に現れた。 (p322) (p334)


鈴木貫太郎はナワーリン撃沈を次のように描写している。

 「 (前略) ・・・・ そして敵と平行して反対の方向に走りながら射つのである。 これは敵の砲撃を避けるのに一番いい方法である。 そうすると見事水雷が当たった。 どうも 水雷の発した距離を見ると朝霧が六百メートル、三番の白雲はたかだか三百メートルくらいだったから、水雷爆発の衝動を感じた。 ・・・・(後略)」 ( 『鈴木貫太郎自伝』 )

 二つの駆逐艦でロープを張り、機雷二個をつなげ、そのまま前方に突撃する連繋機雷攻撃法が見事に成功した例だろう。(188ページ (194〜195頁) 参照)  (p322〜323) (p334〜335)


小田喜代蔵が発見した攻撃法であるが、その主題の一貫性に驚かさせる。 すなわち機雷を攻撃的に使用すること、および管制 (コントロール) することである。 コントロールする手段は常にロープであるが、戦艦パブロフスクを撃沈し、津軽海峡を封鎖し、戦艦ナワーリンを撃沈した小田の創意工夫は不朽だろう。 (p323)(p335)


この攻撃のあとの午前2時、鈴木はさらにシソイにも連繋水雷攻撃をかけた。 この攻撃も成功したが、沈没せず、シソイは自力で航行をつづけた。 (p323) (p326)










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 最終更新 : 06/Jan/2012