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連繋機雷(一号機雷)について (4)



 津軽海峡防備


日露戦争において、この連繋機雷の用法の応用例として出てくるのが、バルチック艦隊北上に備えた津軽海峡防備です。

『別宮暖朗本』 でもこれについて 「津軽海峡封鎖作戦」 と題して、2頁にわたって色々書かれていますが、この2頁まるまる全部が誤りです。


黄海海戦が終了すると、海軍省は本格的にバルチック艦隊対策を検討し始めた。 1904年 (明治37年) 9月、海軍省は極秘裏に 津軽海峡封鎖作戦の策案を小田喜代蔵に命令した。 (中略) 封鎖せよという命令の本旨は防禦水雷敷設にある。 小田は封鎖の方法について昼夜を 問わず熟考した。 (p266) (p275)

(注) : (明治37年) は管理人付記

最も困難な点は、津軽海峡の水路部の水深が200メートル以上在り、小田自身の考案になる二号機雷 (183ページ (190頁) 参照) が敷設出来なかった ことである。 (p266) (p275)



さらに状況次第では連合艦隊は津軽海峡を通過して、高速で太平洋方面に出る必要が生じるかもしれない。 また、できるだけ沿岸水運を遮断したくない。  つまり永久敷設となり、かつ敷設に時間がかかる機雷原という方法はとれない。 (p266) (p275)



津軽海峡防禦の作戦を立案するのは 「海軍省」 でなくて 「海軍軍令部」 なんですが?  そして、その要求に応じて必要な人、物、金の算段をする のが 「海軍省」 です。

それはともかく、小田がこれを命ぜられて従事したなど、一体どこのどの史料にあるんでしょう?

当時、連合艦隊の艦隊附属敷設隊司令であった小田に命令するなら、“当然” 同時に聯合艦隊司令長官にその旨通知がなければなりません。 少なくとも命令と通知の2通の文書が必要ですが、さてどの文書でしょう?  どのにその記録があるのでしょう?

そもそも津軽海峡防備には、軍令部は 「二号機雷」 の使用など始めから頭にありません。 水深はもちろんのこと、潮流が早すぎてとても使い物にならない ことは自明の理ですし、そもそも 「管制水雷」 ではありませんから。

“遮断したくない” ために、「二号機雷」 などの 「電気機械水雷」 以前から 「管制水雷」 があるのですから、そんなものは始めから選択肢に入る訳がありません。

軍令部が考えたのは、明治36年に兵器採用された 「管制水雷」 の一種である沈底式浮揚機雷の 「牧村水雷」 です。  ( 牧村水雷については、公開中の 『帝国海軍水雷術史』 をご覧下さい。)

そして、この牧村水雷が強潮流の津軽海峡敷設に適するかどうかの実地調査を行うこととし、明治37年8月、本機雷の考案者である 牧村孝三郎海軍中佐 にこれを命じました。 当時、牧村中佐は呉水雷団長心得として大連方面の作戦に従事中でしたので、直ちに召還され、この調査に当たります。


  

( 左 : 呉鎮長官宛牧村中佐召還通牒電     右 : 牧村中佐津軽海峡出張通牒電 )



そしてこの牧村中佐自身の手になる実験により、すぐにこの 「牧村水雷」 は津軽海峡での使用には適さないことが判明します。

しかし、当時はまだ他に有効な方法が見つからなかったことから、明治37年10月、大湊水雷団長宮岡直記海軍大佐を委員長とする 「津軽海峡水雷防禦調査委員」 が編成され、引き続きの調査と、併せて 「牧村水雷」 の改良が検討されることになります。 もちろん、牧村中佐もその委員の一人です。

厳冬期には一時中断されたものの、春になって再開され、度重なる実験が行われましたが、結局は明治38年11月に最終的にこの種水雷では適さずとの結論を 得て調査は終了することになります。


( 牧村水雷に関する津軽海峡水雷防禦調査終結断案 )


したがって、


小田の出した結論は、太平洋に面する汐首岬−大間崎に浮標機雷を敷設し、竜飛岬沖には電気水雷を敷設することだった。 (p266) (p276)



など、何の根拠もない話しです。

そして、「牧村水雷」 が津軽海峡に適さないことが明らかになってくるにつれ、連合艦隊において実用化された連繋機雷を津軽海峡で用いることについて、 軍令部でもその考えが出始めました。

丁度その頃の 明治38年4月17日、タイミング良く、連合艦隊参謀長から軍令部長に対して、連繋機雷を多数繋げて用いるという次の発案がなされます。


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( 4月17日発信の軍令部長宛上進電報 )



もちろん小田の名前は出てきません。 もしこれが小田の発案であるなら、その旨記述されているはずです。

これを受けた軍令部長は直ちに海軍大臣に対して連繋機雷の津軽海峡での有効性を調査することを商議し、そして海軍大臣も直ちに実施することに同意しました。

そして、早くも翌日の 4月18日 その調査を命じられたのが、軍令部参謀であった 森越太郎海軍中佐 です。


( 森中佐に対する津軽海峡方面出張海軍大臣命令書 )



森中佐は、大湊水雷団長宮岡大佐及び特務艦 「韓崎」 などの全面協力・支援を得て調査、実験を行った結果、翌5月にはこの 「連繋機雷」 が有望と認められることを軍令部に報告します。


( 森中佐の調査結果第1報の一部 )



これを受けた軍令部は、バルチック艦隊の津軽海峡通過の懸念が出てきたことにより、直ちに準備できるだけの艦船、器材をもってこの連繋機雷による 暫定的な津軽海峡防備の計画を立てることになります。 幸いにして、その発動の機会はなかったわけですが。


      


1904年12月、海軍省は津軽海峡防衛隊を発足させ、函館に水雷艇を配属した。 さらに津軽海峡の海流や風向きを徹底的に研究するため、 造兵大監種子田右八郎が防衛隊所属となった。 種子田は浮標機雷の線状敷設のため、海峡に対し、どういった角度で、どういった量が適当か 調べ上げた。 (p267) (p276)



明治37年12月の 「津軽海峡防衛隊」 って何でしょう?  そんなものどこを捜したら出てくるのでしょうか?

それに、種子田は当時横須賀海軍工廠の造兵部長であり、前出の 「津軽海峡水雷防禦調査委員」 の一人ではありますが、彼自身は津軽海峡での調査そのものに直接は従事しておりません。 これは残された調査関係書類や報告書などで明らかです。

この調査を実際に推し進めたのは、海軍大臣によって命ぜられた森参謀と大湊水雷団長宮岡大佐であり、これに従事した特務艦 「韓崎」 などの艦船です。

そして宮岡大佐は、明治38年5月19日 に新設された 「津軽海峡防禦司令部」 の司令官を兼務することになり、実際の津軽海峡の防禦任務だけでなく、この連繋機雷や牧村水雷の実験等もすべて担当することになります。


汐首岬−大間崎線を6ブロックに分け、おのおの6線の浮標連繋機雷を、敵艦進入阻止の命令あり次第、竜飛岬沖に待機している6隻の仮装巡洋艦が前進し、 敷設することにした。 また掃海をあざむくため、大量のダミー水雷を浮流させ、さらに副次的手段として海岸砲と組合せ、管制機雷をより浅い竜飛岬沖に 張り巡らせる計画が最終案とされた。 (p267) (p276〜277)



「6ブロックに分け」 とはどういう意味でしょう?  そして、それにおのおの6線の連繋水雷?

全く違います。 この著者は本当に 「津軽海峡防禦計画」 を見たこと、調べたことがあるんでしょうか?






連繋機雷の敷設方法は、汐首岬〜大間崎間に敷設するのではありません。 その時の海流状況により、長さ約 6マイルで幅 400ヤード間隔に 6線の連繋機雷が、ロシア艦隊が汐首〜大間崎を結ぶ最狭部を通過する予定時刻に、“そこに到達するように” するものです。 浮遊機雷である以上、 そんなことは当然のことで、ちょっと考えれば子供でもすぐ判ることですが ・・・・

しかも、ブロックではなくて、6隻の敷設船が 400ヤード間隔の横並びで同時に、長さ 6マイルの連繋機雷 x 6線を一斉に敷設します。

そして長さ約 6マイルでは足りない敷設線と陸地との間に、それ以外の敷設艦船を以て擬水雷を大量に撒きます。

しかも、なぜ敷設艦船が連繋機雷を敷設する東口の付近でなくて、わざわざ遠い西口の竜飛岬沖で待機をする必要があると言うのでしょう?  しかも流れの強い海峡の中で?  この著者、本当に海というものを全く知らないのですね。

松倉川尻 (現在の松倉川河口から函館空港にかけて付近) に “錨泊待機”、必要により函館に入港し、これらから出港するんです。

ましてや 「竜飛岬沖」 には管制機雷など敷設しません。 津軽海峡で管制機雷が敷設されたのは函館のみで、これは函館港の防禦のためです。


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もっとも日本海海戦の時機には、“竜飛岬とは反対側” の 「白神岬沖」 に丁度先の牧村水雷がその実験のために2群連敷設されていましたが ・・・・ ( 牧村水雷の実験は、白神岬の陸上に実験用の仮設衛所を設け、ここで敷設水雷の電纜を接続して管制していました。)



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「連繋機雷 (一号機雷)」 ということについて、4回に分けてご説明してきました。 それにしてもこの “たった一つのこと” でさえ 『別宮暖朗本』 は如何に多くのウソと誤りが羅列されていることか。

そして最後に、


小田喜代蔵が発見した攻撃法であるが、その主題の一貫性に驚かさせる。 すなわち機雷を攻撃的に使用すること、および管制 (コントロール) することである。  コントロールする手段は常にロープであるが、戦艦パブロフスクを撃沈し、津軽海峡を封鎖し、戦艦ナワーリンを撃沈した小田の創意工夫は不朽だろう。  (p323) (p335)



史実・事実とは全く異なることを延々書き連ねた結論がこれですか。 驚かされるのはこの著者ではなくて、こんな “大ウソ” “デタラメ” を読まされる読者の方ですね。




(注) : 本項で引用した各史料は防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。




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 最終更新 : 27/Aug/2011