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「変距率盤」 と 「距離時計」




これまで明治期を中心とした日本海軍の艦砲射撃については、主として “砲” とそれに関連するハードウェアについて説明してきました。 そしてこれまで、日本海海戦を含め日露戦争期にはまだ旧海軍は 「一斉打方」 を “実施していない (できなかった)” ということも説明しました。 これについては既に十分ご理解いただけたと思います。

今回は 「変距率盤」「距離時計」 についてです。


( 明治41年当時の変距率盤 (左) と距離時計 (右) )



これらの個々のもののお話しについては既に 『砲術の話題あれこれ』 『第1話 多田 vs.遠藤論争』 の中で 『05 変距率盤について』 『06 距離時計について』 として纏めてありますのでそちらをご覧いただくこととして、ここでの説明は省略させていただきます。

ここで強調したいのは、これらが旧海軍に導入されたのは “日露戦争後” であるということです。 つまり英国から旧海軍にもたらされたのは 「距離時計」 が明治40年、「変距率盤」 が明治41年です。 この事実は旧海軍自身が複数の文書をもって記していますので、間違いの無いところです。

その一例を示すと次のとおりです。 これは大正8年に海軍砲術学校が作成したものからです。


( 本サイト所蔵の海軍砲術学校史料より )


そして、両者は明治41年の内令第20号をもって兵器に制式採用 されています。

既に述べましたように 「測距儀」 とこの 「変距率盤」 「距離時計」 の3つをもって “近代射法誕生の3種の神器” とします。

実のところ、「変距率盤」 にしても 「距離時計」 にしても、これらの機能そのものは別に大したものではありません。 しかしながら、これらが射撃指揮の現場にあるかないかによって、極めて大きな違いが生じたことを考えてみてください。

実際、これらが導入された直後にこれらを使うことによって近代射法の基本中の基本である 「時計射撃」 (後の 「変距射法」) の原型が発明され、これによって明治43年の射法教範の起案 (書き直しを重ねて大正2年に 『艦砲射撃教範』 として制定) をみています。 つまり、射撃指揮法上はこれらの存在によって始めて近代射法の考案・実施が可能になったと言えるのです。

再度申し上げますが、これは日露戦争中ではありません、日露戦争後のことです。 そして、これらがなければ射法としての 「一斉打方」 など実施出来ません。 何故出来ないかについては、この後の 「射法」 や 「射撃指揮法」 のところで詳しく説明します。

そこで、例によって 『別宮暖朗本』 について見てみましょう。


(前略) これらの要素のうち重大なものは、変距率 (彼我の距離の時間による変動割合で、時速・ノットで表示される) で、距離時計 (Range Clock) が必要になる。  (p72) (p75)


変距率自体は距離時計 (日露戦争中、愛知時計が国産化した) で求められるが、それをインプットし、予定時間後の苗頭と距離を予想せねばならない。  (p72〜73) (p75)



要するに、この著者は 「距離時計」 が如何なるものかさえも “知らない、判らない、調べていない” ことが明らかでしょう。 それを棚に上げた上で 「砲術計算というソフトが死命を制する (p72) (p75) 云々などと、さも判ったようなことを滔々と書いている。 要するに 『別宮暖朗本』 の著者は何等の確たる根拠にも基づいていないと言うことが、これ一つをとっても明らかです。

なお付け加えるなら、『海軍砲術史』 (同編纂会編) によれば、距離時計を愛知時計電機株式会社で製造を始めたのは大正4年 とされています。 それはそうでしょう、まだ日本に導入されてもいない日露戦争中に作れるわけがありませんから。







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 最終更新 : 01/Jul/2011