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「内筒砲射撃」 について




 「内筒砲射撃」 とは


内筒砲射撃については、日本海海戦前の鎮海湾における猛訓練で有名ですので、皆さんよくご存じと思います。 ところが世の中にはこれについて とんでもない大ウソを書いて堂々と出版 している自称歴史評論家さんまでいますので、 ここで少しキチンと纏めておきたいと思います。

(注) : 内筒砲の 「筒」 の字は、正式には 「月」 偏に 「唐」 と書きますが、例によって通常のフォントにはありませんので全てこの字で代用しています。

ところで、本第2話の一番最初に艦砲射撃における 「照準」 ということをお話ししました。 『艦砲射撃の基本中の基本 − 照準』 です。 まだご覧 いただいていない方、まだご理解いただいていない方がおられましたら、まず先にこちらをお読みさい。

要するに、艦砲射撃にとっては如何にこの照準ということが重要であり、これが正しく出来ていなければ如何に射撃計算が正確であっても命中弾は得られないということです。 そしてその照準は 「射手」 によってなされるということです。

つまり、“ 教育・訓練と経験による熟達であり、射手個人の才能・技能であり、精神力の賜 ” であるのが 「照準」 であると申し上げました。

その照準の第1歩としての極く基礎的なやり方については 「照準発射訓練」 と称する方法により、弾を撃たなくても教えることはできます。 がしかし、照準を担当するのは砲の引金を引く 「射手」 ですから、やはり実際に弾を撃って照準の善し悪しを訓練していくことが最良であることには変わりはありません。

とは言っても、艦の日々の業務・訓練において、次の点からも実弾射撃をそう頻繁に実施するわけにはいきません。


(1) 砲身命数の問題と実弾消費 (特に中大口径砲)

(2) 実弾射撃のためには射撃海面まで出港する必要がある


そこで、実弾を撃たずに射手を始めとする射撃関係員を訓練する簡便な方法の一つとして採用されたのがこの内筒砲射撃です。

下図の例ように、小銃口径の内筒砲 (始めは小銃の銃身を改造して作られたものでした) を砲の中に入れ、砲と内筒砲の砲軸が正しく一致するように据え付けます。




そして、通常の射撃と同じように砲を操作し、標的を照準して内筒砲を発射することになります。

そこで疑問に思われる方もおられるかもしれません。 小銃口径の様な射距離の短いものを使っているのに、どうして砲の通常の照準で当てることができるのか? つまり何故その砲の射手の訓練になるのか、 普通に小銃を撃って訓練するのとどこが違うのか、と。 (まさに、この 『別宮暖朗本』 の著者はこれを全く理解することができていないので、トンチンカンなことを書いているのですが。)

実は話しは簡単なんです。 換算表を作っておけばよいのです。

例えば、400m先の標的を狙うとするなら、この時の内筒砲に必要な仰角はその射表から求められます。 次ぎに本来の砲の射表からその仰角に応じた射距離を求めれば、それが照準器の縦尺 (距離尺) に調定すべき値になります。

そしてその値を照準器に調定して通常の砲の操作で400m先の標的を狙えば、内筒砲の小銃口径弾でピッタリと当てることができるわけです。  ( 当然ながら、射距離に応じた苗頭の換算表が必要なことは申し上げるまでもありません。 特に移動標的を使う場合などは。)

したがって、これによって射手は自分の砲を使って、その砲で通常の射撃をするのと同じように訓練が出来ます。 そして更に、射手の操砲・照準訓練だけではなく、測距、その伝達、(換算)、照準器の調定、照準、発射、というチームとしての一連の訓練も実施できます。




 「内筒砲射撃」 の訓練法


内筒砲射撃は、当然ながら簡単なものから実戦に即したものまで順次段階を追って訓練していきます。 この訓練方法については、先にご紹介した明治37年12月制定の 『連合艦隊艦砲射撃教範』 で詳細に規定されています。




即ち、次の3段階からなります。


(1) 各個射撃 : 1標的に各回1門で射撃しその都度採点

(2) 砲台射撃 : 1標的を砲台毎の数門で同時に射撃し砲台成績として採点

(3) 戦闘射撃 : 可能な限り実戦に近い形で、一回に艦全体で射撃し採点


即ち、始めは 「各個射撃」 として文字通り各砲1門毎の訓練を行います。 これはまず最初に根拠地などでの停泊中での 「近距離射撃」 (標準は100m) で、停止した標的に対して静的射撃を行い、 正確・確実な照準発射の基本を身に着けさせます。 これは6インチ砲なら約800mの射距離に相当するものです。


( 『連合艦隊艦砲射撃教範』 で例示された各個射撃用の自作標的 )


次いで距離を遠くした 「遠距離射撃」 (標準は400m) に移り、まず停止した静的射撃を実施した後、汽艇などによって標的を曳航しての動的射撃を訓練します 。 これは6インチ砲で約3400mの射距離に相当します。

この遠距離射撃になりますと、採点は標的に描かれたマークへの命中点によって何点ということではなく、発射弾数に対する標的への命中弾数となります。

この各個射撃を済ませると次は 「砲台射撃」 です。 つまり1つの標的に対して砲台毎の同砲種数門で一度に射撃を行います。 各個射撃の遠距離射撃と同じ要領で、静的射撃、次いで動的射撃を行います。

この砲台射撃になると、砲台長の射撃指揮を始め、砲台総員によるチームとしての訓練が実施できます。 また、成績は砲台での全発射弾数に対する全命中弾数として採点されます。 当然ながら射撃時間が評価の対象となります。 即ち、規定弾数を何分で打ち終わるか、あるいは逆に規定時間内に何発撃てるか、です。

そして最後が 「戦闘射撃」 で、関係員を戦闘配置に就かせた上で、出来るだけ実戦に近い形で実施し、1標的に対して艦全体で射撃し、全ての砲種を合わせた1艦の総発射弾数に対する総命中弾数で採点します。

この内筒砲射撃の仕上げは、2隻でそれぞれ標的を曳航しながら、互いに相手の曳く標的を狙って同航射撃や反航射撃を行う対抗射撃訓練です。 標準の射距離は600〜800mです。  6インチ砲で約5000〜7000mの射撃に相当します。

この対抗射撃訓練の実施要領については、例えば明治37年の9月の 『内筒砲対抗射撃規則』 (聯隊法令第75号) で詳細に規定されています。


( 元画像 : 防衛研究所図書館史料室の保有保管史料より )


標的の形状・サイズやそれぞれの射撃訓練での実施要領や採点法などについて、もし興味がある方がおられましたらこの史料をご覧下さい。

これらの訓練が一通り終わった後に、実弾射撃訓練を行って艦隊でその成果を競うことになります。 そしてこれ以降は上記の3段階を適宜組合せながら、練度の維持・向上に努めます。

この内筒砲訓練の実施について、日本海海戦前の鎮海湾待機中は、例えば 『三笠戦時日誌』 の明治38年2月以降をご覧いただけばお判りいただけると思いますが、ほとんど毎日、他の予定がなければ午前と午後にわたって実施しております。 下に各月の代表的な日のものをご紹介しておきます。


( 2月の例 : 2月22日 ) ( 3月の例 : 3月15日 )
   
( 4月の例 : 4月16日 ) ( 5月の例 : 5月1日 )

( 元画像 : 防衛研究所図書館史料室の保有保管史料より )


日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃つまでの間、連合艦隊が如何に猛烈な砲術訓練を実施したのか。 そしてその基本・基礎として如何に内筒砲射撃というものを重視したかをご理解いただけるでしょうか?

そして、日本海海戦での砲戦における最大の勝因の一つがこの内筒砲射撃による 「照準発射訓練」 の成果であることを。




 『別宮暖朗本』 の検証


さてそれではこの項の最後として、例によって 『別宮暖朗本』 のウソと誤りをみてみましょう。


前述 (63ページ) (67頁) のように、近代砲術の世界では大中口径砲手の腕や目や神経は、命中率と関係がない。 いくら砲手を訓練したところで事故を防ぐことはできるが、命中率をあげることはできない。 6インチ砲や主砲を命中させることができるのは、砲術長、すなわち安保清種なのである。 (p269) (p278)



これが全くの “大ウソ” であることは既に 「照準」 のところで根拠を示して説明しました。 少しでも砲熕武器や砲術について知っているならば、何を馬鹿なことを、ということですが ・・・・

12インチ砲であろうと6インチ砲であろうと射手が 「照準」 を行うことに変わりはありません。 したがって、これらの砲でも内筒砲射撃による訓練は必須でした。 というより、小中口径砲より砲身命数が少ない 12インチ砲などは、実弾射撃訓練の機会が少なく、かつ砲の操作が難しいだけに、内筒砲射撃による訓練がより重要になることはお判りいただけるでしょう。


これの例外は小口径砲であって、主として水雷艇対策である。 鎮海湾で実弾訓練が行われたのは 「内筒砲」 訓練と呼ばれるもので、小口径砲に小銃をくくりつけ、 洋上を走行するマトを狙ってうつものである。 小銃の実効射程距離は500メートル以下にすぎないが、小口径砲の弾道に似ているといえば似ている。 (p269) (p279)



“水雷艇対策” って一体何時の時代の話しなのか、というツッコミはさておき。 (要するにそんなことさえこの著者は知らないで書いているのか、ということなんですが ・・・・ )

「小口径砲に小銃をくくりつけ」 って、内筒砲は砲内に挿入するものですから “くくりつけ” などと言う表現には絶対になりません。 この著者、もしかしたら内筒砲とは何かを知らずに、これ ↓ のこと と勘違いして言っているのでしょうか? 


( 57ミリ砲砲鞍上部に装着された小銃口径外筒砲 )


しかも 「小口径砲の弾道に似ているといえば似ている」 って、一体何を言いたいのか?  弾道学の基礎ぐらい勉強してからにして欲しいですね。


それでも砲と小銃の弾道は同一でなく、気休めに近いものだっただろう。 ただ日本の小口径砲はすべて照準望遠鏡が設置されており、使い勝手を知ることはできた。 そして6インチ砲の 訓練の中心は弾丸装填の模擬訓練であり、これは一日一回、必ずやり、かつ鎮海湾には、乗員と同数の予備兵も待機しており、その訓練も交代で行われた。
(p269) (p279)



これを要するに、この著者は内筒砲射撃について全く “知らない、判らない、調べていない” ことが明らかです。 「照準」 ということが全く判っていないので、当然と言えば当然なのですが。

「気休めに近いものだったろう」 など、砲術については全くの無知であることを自ら暴露しているに過ぎません。 それでよくもこんな本が出版できるものと。 お恥ずかしい限り、の一言。

そして 「日本の小口径砲はすべて照準望遠鏡が設置されており」 って、この著者は照準望遠鏡が装備されている砲種さえ知らない。

しかも 「乗員と同数の予備兵も待機しており、その訓練も交代で行われた」 など一体何を根拠にしているのやら。 これが大ウソであることは、例えば 『三笠戦時日誌』 を読めば明らかでしょう。 一体どこにそんな 数の兵員が “待機” しており、各艦に乗ってきて交代で訓練したなどと書かれているのでしょうか?

そもそも、そんな余分な兵員がいるなら、何故各艦から旅順攻略の陸戦重砲隊に兵員を派遣しなければならなかったのでしょうか?  あまりにもいい加減で、お話しにもなりません。

要するに、この内筒砲射撃も含めた砲術の訓練についても 『別宮暖朗本』 はウソと誤り、どころかデタラメしか書かれていない、ということです。




 『内筒砲射撃』 の変遷


それではその内筒砲射撃はいつ始まって、日露戦争後はどうなったか、について補足しておきたいと思います。

しかし、実はこれがよく判りません。

旧海軍において内筒砲射撃というものが何時から始まったかと、旧海軍の文書で出てくるのは、今日残されている限りでは、明治19年に始めて艦砲射撃訓練に関する規則として制定された 『常備艦隊艦砲射撃概則』 が 最初のものと考えられます。 その概則で、次のように記されています。


第21条 教練射撃は1ヶ年に1回其の艦の便宜に従ひて之を施行す 而して内筒 (チュブを言う) の装置あるときは其の射撃をも施行すべし ・・・・ (後略)



これを見る限りでは、明治19年以前の早い時期から内筒砲が採用されていたものと推察されますが、当時は実際に現場でどの程度活用されたのかまでは判りません。 そしてその後、この内筒砲の価値が認識され、少なくとも日露戦争においてはこれを使っての猛訓練が行われたことは説明してきたとおりで、ハッキリしています。

それでは日露戦争後はどうなったのか?

日露戦争後においても、射手の 「照準訓練」 というものが重視されたことは変わりがありませんが、内筒砲に替わる新たな方策が求められたことも事実です。

1つに戦艦の主砲のような大口径砲においても、小銃口径の内筒砲を使うのはやはり実戦的ではないということです。 第1次大戦の戦訓として射程距離が伸びてからは特にです。

2つ目は、艦隊根拠地ならともかく、鎮守府等所在港湾で停泊中に訓練をするにも、狭い湾内で一々標的を海に浮かべ、かつ小銃口径とは言いながら実際に多数の弾を艦外に向かって撃つという不便さがあります。

その結果として、大口径砲においては外洋で使う 「外筒砲」 へと替わり、また停泊中は照準訓練を各砲塔毎に単独で実施できるように 「照準演習機」 が採用されました。


( 36糎砲に装備された短八糎外筒砲とその射撃の様子 )


( 大口径砲塔への照準演習機装備図 )


( 36糎砲塔への照準演習器の装備状況 )


これらのものは太平洋戦争まで継続して装備され、使用されましたので、その写真などは皆さんよくご覧になられると思います。 しかしながら、外筒砲や照準演習機がいつから導入されたのかはハッキリとしません。

照準演習機については、日露戦争前の明治34年には既に下の写真のような 「スコット式照準稽古機」 として知られているものがあり、旧海軍にも導入されていました。


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( Percy Scott 著 『 Fifty Years in the Royal Navy 』 より )


大口径砲用もこれと原理的には同じですが、何時から砲塔に直接装備するものが導入されたのかは判りません。

外筒砲については、明治40年の 『艦砲射撃規則』 の改訂で 「 「内筒砲」 とあるを 「内筒砲外筒砲」 に 」 改めることとされていますので、この時点までには艦隊に導入されたものと考えられます。

なお、小銃口径内筒砲が入らない小口径砲用に廣木海軍技師考案の 「小銃口径外筒砲」 (上の写真のもの) が採用されたのは明治39年の内令309号をもって、また昭和期まで大口径砲用として 使われることになる 「短三吋外筒砲」 (後に 「短八糎外筒砲」 と改称) の採用は大正5年の内令兵2号です。

また、小中口径砲では縮射弾を使用した 「縮射弾射撃」 という訓練方式も採用になりました。 この縮射弾の初期のものには下図のようなものがありますが、大正期以降に使われた各種砲用のものの 詳細はよく判りません。




では、内筒砲はいつ頃まで行われたのか、と言うことですが、これも実態はよく判りません。 上記にご紹介したものが導入されるにつれて順次この内筒砲射撃と交代していったと考えられますが、 少なくとも文書上では大正2年改訂の 『艦砲射撃規則』 からはこれについての記載が出てこなくなりました。

したがって、大体この時期に表向きは取り止められたものと考えられますが、内筒砲そのものを破棄したわけではないようですので、小中口径砲では艦によってはその後も訓練に活用されたのかもしれません。

大正5年から方位盤射撃装置が逐次各艦に装備され始め、これによって照準は基本的に方位盤照準が主体となりました。 また第1次大戦の戦訓を受けて砲戦距離が一挙に延伸されたことにより低位置の砲塔・ 砲廓は不利となったため、砲側照準は必然的に副次的・予備的なものとなりました。

このため、平時の訓練においても、砲側照準の機会は次第に少なくなり、かつ基礎的なものは照準演習機や縮射弾射撃で、そして外洋では実弾射撃の前段階としての外筒砲射撃を活用することによって、次第に内筒砲射撃の出番は薄れていきました。

これも一つの時代の流れですね。


(注) : 本項で引用した各史料は、特記するもの以外は、総て当サイトが所有する史料からのものからです。







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 最終更新 : 01/Jul/2011