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小田喜代蔵と機雷 (後編)



 小田の真の功績について


それでは小田は 「自働繋維器」 を考案しただけなのか?

いえ、実は小田の大きな功績は、日露戦争における連合艦隊の 「艦隊附属敷設隊」 ( 後に 「艦隊附属防備隊」 と改称された ) の指揮官 (隊司令) としての任務完遂にあります。 この著者は全く無視して、触れていませんが。

艦隊附属敷設隊というのは、開戦時からずっと根拠地にあって、敷設水雷・機雷のみならず海底電纜も含む、いわゆる “敷設” に関する一切合切の総ての業務を担当しました。

当然、港湾防備用の水雷敷設を含む各根拠地の防備施設の設置及び運用もその主要任務ですし、これには陸上の衛所や防備砲台などの建設も含みます。

特に、敷設水雷・機雷の調整・整備と艦艇への供給、現地での改良・改造と実験などは、極めて多忙な業務です。 もちろんそれを取り扱う人の問題もあります。

この艦隊附属敷設隊で準備して各艦艇へ供給した敷設機雷は、明治37年中だけでその総数約1600個に登り、これに明治37年末〜38年にかけての数百個 (詳細な数は不明) の連繋機雷が加わります。

これ以外に、敷設隊自らが敷設作業を実施した根拠地等防備用の各種敷設水雷があります。 これだけでも大変な業務です。

そして、小田自身はその敷設に関する専門技能・知識を買われたこそ艦隊附属敷設隊司令に抜擢され、それに関する幕僚として東郷の元で働いたのです。

( 旗艦艦長や後方支援部隊などの指揮官は、正式名称はありませんが、その専門分野について艦隊司令部の特別幕僚として機能し、司令長官を補佐します。 このやり方は現在の海自でも変わりません。)

また、小田自身は、東郷の命により 「ペトロパブロフスク」 を撃沈することになる明治37年4月12日の旅順口沖への第1回目と、同4月29日のウラジオストック港外への第1回目の、両方の機雷敷設作戦に従事しています。

両方とも専門職の部下を引き連れて、旅順口沖では仮設砲艦 「蛟龍丸」 に “同艦の” 敷設指揮官として、またウラジオストック沖では敷設に関する指導・補佐役として 「日光丸」 (直接の指揮官は 「日光丸」 艦長) に、乗艦したものです。

つまり小田喜代蔵は、“敷設” ということに関し、連合艦隊の作戦を支える縁の下の力持ちとして、実に見事にこれをやってのけたのです。 これは大きく評価されてよいと思います。


ここまでお話しすると皆さんにもお判りいただけるように、実はこの小田喜代蔵は、この著者が言うような機雷そのものの専門家ではなくて、その機雷の 敷設に関する専門家 なのです。 『別宮暖朗本』 の記述とは全く違う人物であることがお判りいただけた思います。

したがって、


小田喜代蔵は防禦水雷を攻撃的に使用できないかと考えた。 (中略) 小田は、電気水雷は防禦目的にしか利用できないとして早くから棄て、研究対象を機械水雷一本に絞った。 (p182) (p190)



ではありません。 これでは全く当を得ておりません。

彼は 機雷そのものは一つも考案していません。 そして前回お話ししたように、彼が考案した自働繋維器は、当初から攻勢的使用を念頭に置いたものではありません。

防御用、攻勢用ということには関係なく、小田喜代蔵は “敷設の専門家” なのです。

発明してもいないものを発明したと言われ、やってもいないことをやったと褒めちぎられ、揚げ句に自分の本来の功績は何等語られていない、では小田喜代蔵もさぞあの世で苦笑いしていることでしょう。




 機雷原について


その機雷敷設による機雷原の構成についてです。


ペロトパブロフスク撃沈は、機雷戦術に新局面を開くものだった。 とにかく、機雷を攻撃的に使用するという発想はそれまでの世界の海軍界にはなかった。 (中略) そして、小田の発明になる線状敷設も残った。 (p187) (p194)

ロシア海軍にも小田に匹敵する水雷の鬼がいた。 機雷敷設艦アムール艦長のイワノフ中佐である。 イワノフも小田と同様に、攻撃的に機雷を使用できないかと、密かに考えていた。 イワノフの回答は 「機雷原」 だった。すなわち、面をもって圧倒的な量の機雷を敷設する。 (p187) (p194)



この著者、一体何を言いたいのやら。

一般的な意味での 「機雷」 で言うならば、その攻撃的に使用する発想も実際の使用例も起源時に遡れるほどあります。 そんなことはちょっと戦史を紐解けば明らかかと。

またこの 「機雷」 を 「繋維機雷」 のことだとするなら、当然そのように記述しなければ、意味が違ってしまいますし、またその 「繋維機雷」 が大規模かつ攻勢的に使用可能になったのが何時、どうしてなのかを書かなければ、機雷戦について語る上ではおかしなことになることは前回ご説明したとおりです。

ましてや “密かに考えていた” など笑止ものです。

そもそも 「繋維機雷」 というものはどのように敷設するのか?

「敷設水雷」 のような管制式のものであるならば、その管制用の電纜を取付、これを陸上の衛所まで伸ばさなければなりませんから、一つ一つの敷設が大変手間暇のかかるものになります。

しかし、繋維機雷では、先にご説明したその構造・構成をご覧いただけば、敷設艦船から計画に従って連続して次々に投入していけば良いことはお判りいただけると思います。 自働繋維器が出来てからは、特にそうです。

したがって、1個だけの機雷を敷設するならともかく、1隻で複数個を連続して敷設するなら “線状” になるのは当たり前 のことです。

そして “面” を要求するならそれは複数の敷設線をもって する以外には敷設の方法がないことは、これも言わずもがなです。

もちろん “面” と言っても、敷設海面が (多分この筆者の頭にある) 広い “四角” や “楕円” になるわけではありません。 そんなことをしても効果は上がらず、機雷が無駄になるだけです。

“厚い帯状” でなければなりません。 要するに待ち受け幅が広くなるように、です。 当然のことです。 そしてもちろんこの著者はそんなことには触れていませんが。

また、線状にする以上、機雷の効果を考えれば、その敷設間隔が適切でなければならないことも当たり前です。

別に何もこの著者がさも判ったような振りをして “小田の結論は” とか “イワノフの回答は“ などは言う必要も全くないことで、誰でも考える、そしてそうならざるを得ない “常識” です。

これ ↓ は旧海軍が旅順港沖に敷設した全繋維機雷と擬似機雷の敷設実績ですが、これが小田の考えた “線状敷設” の実績だとでも?


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( 防衛研究所保有保管史料より )



この 『別宮暖朗本』 の著者が機雷そのものについてはもちろん、機雷戦、機雷敷設というものの実態を全く知らない、全く判らないで書いていることが明らかです。

そして小田喜代蔵という人物についてさえ、まともに調べていないことも。







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 最終更新 : 06/Jan/2012