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第9話 海兵団 と 海兵団練習部



  はじめに
  海兵団と海兵団練習部とは
  海兵団と海兵団練習部の沿革
  (参考) : 軍艦 「三笠」 と呉海兵団


 

 はじめに


旧海軍の海兵団は、予備学生や下士官兵なら必ず一度はその門をくぐったことのあるところであり、その教育のメッカとして広く知られているところです。

このため、海兵団というのは新兵教育の機関であり、世間では現在の海上自衛隊の教育隊と同じようなものと思っておられる人も多く、海自OBでさえもそのように書いている人も散見されます。

しかし残念ながら、このことは本来の 「海兵団」 とは異なるものであり、海自の教育隊と同じような役割を果たしてきたのは、同じ海兵団長の下にある 「海兵団練習部」 というところです。

今回はこれについて少々ご説明をしたいと思います。


 

 海兵団と海兵団練習部とは


そもそも 「海兵団」 とは何なのか?


これは 大正9年軍令海2号の 「海兵団令」 によって定められており、昭和20年3月現在の時点の同令では次のように規定されています。


第一条 海兵団は其の所在地の警備を管する鎮守府、警備府又は海南警備府に属し、補欠員 (海軍航空隊、海軍練習航空隊、防備隊、海軍潜水艦基地隊及び海軍通信隊に収容せられたる者を除く) を統轄す。


第四条 海兵団 (鎮海及び高雄要港にあるものを除く) は艦船部隊其の他各部より補欠員として入団する海軍下士官及び兵 (第2項に定むるものを除く) を収容し、必要に応じ之を艦船部隊其の他各部定員の補欠に充つ。 ・・・・ (後略)


第5条 海兵団に左の職員を置く。
    団長、副長、副官、内務長、軍医長、主計長、分隊長、団付 ・・・・ (後略)



そして 「海兵団職員服務規程」 の中で、次のように定められています。


第二条 団長は、定員中の兵曹水兵を以て衛兵を組織し、団内及び軍港境域内、並びに付近海軍官衙、倉庫等を守衛せしむべし。 但し、現に海軍守衛ある官衙、倉庫等は此の限りに在らず。


第五条 団長は、補欠員を分隊に編入し、之を適切に教育訓練し、其の進歩発達を図るべし。


第六条 団長は、補欠員を定員の業務に使役し、また予備艦其の他各部に於いて臨時の業務あるときは、其の長の請求に応じ其の使役に充つることを得。
本条に依り補欠員を使役に充つるには鎮守府司令長官の認可を経るを要す。


第八条 団長は、補欠員を各科別官職階に区分し、其の補充交代の順序を予定し置くべし。



これに対して、「海兵団練習部」 というのは、この 「海兵団令」 と横並びに 大正9年勅令188号の 「海兵団令練習部令」 によって定められており、昭和20年3月現在の時点の同令で次のように規定されています。


第一条 海兵団練習部は各海兵団に之を置く。
練習部 (第4項に掲ぐる練習部を除く) は海軍大臣の定むる所に依り、海軍一等兵及び二等兵、初任海軍准士官、軍楽術特修兵たるべき海軍下士官及び兵、並びに海軍予備員候補者の教育を掌る。 ・・・・ (中略) ・・・・
前3項の外、練習部は海軍大臣の定むる所に依り海軍准士官以下に対し各種の講習を実施す。


第三条 海兵団に練習部の教育を掌らしむる為、左の職員を置く。
    教頭、教官
前項職員の他、横須賀海兵団及び武山海兵団には研究部長及び研究部員を置く。



昭和20年3月現在での 「海兵団令」 「海兵団職員服務規程」 「海兵団練習部令」 「海兵団練習部規則」 の全文などは、『海軍法規類集』 コーナーで公開しましたので、ご参照ください。


つまり、最初に申し上げたように、この海兵団練習部というのが現在の海自の教育隊に相当 (航空職域などの要員を除く) するところなのであって、本来の海兵団そのものとは異なるものなのです。


 

 海兵団と海兵団練習部の沿革


  海兵団


海兵団は、明治22年4月に 「横須賀屯営条例」 (丙75号) を廃止して 「海兵団条例」 (勅令46号) を定めて各鎮守府に海兵団がを置くこととされ、これに基づき翌5月に横須賀海兵団が置かれ、更に同年10月に 「海兵団規則」 (達422号) を定めたことに始まります。

この時の海兵団は、「艦船乗員の補充及び陸上守禦に当たる現役下士卒の教育訓練、そして新兵の徴募と予備役・後備役の召集を行うところ」 とされました。

そして、大正2年4月の 「海兵団条例」 の改正により、海兵団の任務に 陸上の防火が追加 されました。


この 「海兵団条例」 による所掌事項を継承しつつ、大正9年7月1日をもって 「海兵団条例」 を廃止し、替わって 「海兵団令」 (軍令海5号) が施行されたのです。

そして、昭和5年には 「海兵団令」 の改正によって、海兵団の任務に 航空機によらない軍港の空中防御が追加 され、これに伴い海兵団の職員として砲術長が置かれることになりました。

昭和12年以降は、陸上部隊の増設、急増する徴集兵、そして半島及び台湾の特別志願兵などに対応するため次第に海兵団の数も増え、更には昭和16年11月には 「海軍警備隊令」 (軍令海23号) が制定され、鎮守府所在地の4海兵団、昭和20年4月以降はその他の海兵団も団長が海軍警備隊司令 (又は司令官) を兼務することとなりました。

この海軍警備隊の設置によって、それまで海兵団が担ってきた衛兵や陸上防御などの実務関係はこの海軍警備隊の担当となり、海兵団は補欠員の統括及び予備役・後備役に関するところとなりました。 これに伴って、海兵団の職員から砲術長もなくなりました。


旧海軍では元々海兵隊廃止後は陸戦隊は主として艦艇乗員を以て編成していましたが、海兵団が設置されてからは必要に応じてその統轄する補欠員などを主体として陸戦隊や陸戦重砲隊を編成して派出することになってきました。

そして支那事変以降その役割が急増し、そして太平洋戦争開戦以降は特別陸戦隊や警備隊、防備隊、特設根拠地隊などが次々と編成され、大陸や南方戦線へ送り出されていくことになります。

これら、海兵団の増設や海軍警備隊などの詳細については長くなりますので、別の機会とすることとし、本稿では省略いたします。

ご参考のために、『海軍法規類集』 コーナーにて 「海軍警備隊令」 「海軍警備隊職員服務規程」 及び海兵団と海軍警備隊 のそれぞれの 「定員表」 を追加公開しました。

なお、明治22年10月制定の 「海兵団規則」 は、明治34年5月に 「海兵団職員勤務令」 (達67号) に、そして昭和5年6月に 「海兵団職員勤務規程」 (達59号) となっています。


因みに、明治22年に海兵団ができるまでの経緯は次のとおりです。

明治3年に横浜に 「陸海軍屯営」 が置かれましたが、陸海軍が一緒では上手くいかなかったようで2ヶ月余りで廃止となり、翌4年7月には 「海軍水兵部」 が置かれて 「要港を守衛し、水戦の事を掌る」 (兵部省職員令) とされました。

この 「海軍水兵部」 は2ヶ月後の同年9月に 「水兵本部」 と改称され、水勇、水夫及び楽手を管轄 することとされ、更に翌10月には 「海軍条例」 の制定に伴い、「水兵本部」 は 海軍海兵隊及び砲兵隊を管轄 することとなりました。

この時の 「水兵本部」 は、「尉官隊伍の編成、下士官以下の懲罰及び乗退艦の指揮、一等卒以下の黜陟ちゅっちょく、階級の上げ下げ) を掌る」 (水兵本部事務章程) とされ、後の海兵団とは少々趣旨が異なるものでした。

この 「水兵本部」 も9年8月には廃止され、11年2月には以後水兵本部の所掌事項は各鎮守府が行うこととなります。

水兵本部が廃止された9年の12月には、東海鎮守府に 「横須賀水兵屯集所」 が置かれ、翌10年9月にはこれを 「東海水兵本営」、次いで15年3月には 「水兵屯営」 と改称され、「常備艦乗員の予備員たる下士以下を屯集する所」 (水兵屯営条例) となりました。 これが後の海兵団に繋がる始めとも言えるものです。

そして、明治17年12月には 「横須賀屯営」 と改められ、翌18年12月に定められた 「横須賀屯営条例」 (丙75号) によって 「補充下士卒を屯在せしめ、これを訓練し、かつ横須賀付近の番兵を派出し、また若火夫を教育する所」 となりました。

この 「横須賀屯営」 が、上述のように明治22年には 「海兵団条例」 (勅令46号) の制定により各鎮守府に海兵団が置かれることになったのです。



  海兵団練習部


明治6年12月に、浦賀に新兵たる海軍四等水兵の教育にあたる 「練習所」 が置かれたことを始まりとします。

これを8年5月に 「屯集所」 と改称、9年8月に 「浦賀水兵屯集所」、同年9月には 「東海水兵分営」、更に15年には 「水兵練習所」 となり、練習艦 「富士山艦」 及び 「肇敏艦」 において海軍四等兵の新兵たる 「若水兵」 の教育を行いました。

この水兵練習所は、18年12月に 「浦賀屯営」 と改称され、後の海兵団に繋がる補充員を所掌すると共に、この若水兵の教育に当たることとなりましたが、その後、厨夫 (調理員)、看病夫 (衛生員)、木工・鍛冶 (工作員) などの教育も付加されました。

そして、上述のように大正9年6月の 「海兵団練習部令」 、そして同年7月の 「海兵団練習部規則」 の制定により、これらの教育の統廃合が行われたのです。


因みに、「海兵団練習部令」 及び 「同規則」 制定までの、下士官兵の教育についての組織及び規則の主要な変遷を列挙すると以下のとおりです。

水兵員

明治 8年 5月 : 提督府中屯集所規則
明治15年 3月 : 練習艦富士山艦肇敏艦内務規則
明治17年12月 : 若水兵教育概則
明治18年12月 : 浦賀屯営条例
明治20年 1月 : 若水兵教育規則
明治23年 2月 : 五等水兵教育規則
明治29年 4月 : 五等卒教育規則
明治32年 7月 : 五等卒教育規則及五等卒教育要旨
明治43年 1月 : 海軍五等卒教育規則

機関員

明治17年12月 : 若火夫教育概則
明治20年 1月 : 若火夫教育規則
明治23年 1月 : 五等火夫教育規則

その他

明治19年 7月 : 若鍛冶若木工教育概則
  同      : 海軍信号練習兵概則
明治22年 2月 : 海軍軍楽練習所官制
明治22年 9月 : 五等木工五等鍛冶教育規則
明治22年10月 : 信号練習生規則
明治22年11月 : 五等厨夫教育規則
明治23年 1月 : 五等看病夫教育規則
明治23年 3月 : 海軍軍楽練習生規則
明治24年 2月 : 木工練習生鍛冶練習生規則
明治24年 3月 : 五等信号兵教育規則
明治29年 5月 : 信号練習生規則
明治33年12月 : 三等筆記教育規則
明治39年 6月 : 海軍四等木工練習生規則
明治43年 1月 : 海軍木工練習規則
明治43年 5月 : 普通科・高等科信号術練習規則
  同      : 喇叭術練習規則
  同      : 海軍軍楽練習規則



 

 (参考) : 軍艦 「三笠」 と呉海兵団


  軍艦 「三笠」 抗命事件


本事件の発端は、英国で建造中の軍艦 「三笠」 の後発回航員がバーローに到着した時、彼等が艦内居住を命ぜられたことに始まります。

当時 「三笠」 の建造は予定より遅れに遅れており、このため船体工事も十分に進んでおらず、艦内はまだ風雨を凌ぐことさえ満足にいかない劣悪な居住環境の状況でした。

これは、外航客船に乗って途中の各地に寄港しながら旅行してきた彼等にとっては、ある意味耐え難いものであったことは容易に想像できるでしょう。

そしてこの様な状況であったところに、それまで現金支給であった食費が現物支給に変わったため、彼らは一挙に不満を募らせたのです。


居住問題については、後発回航員到着後に 「三笠」 の隣に繋留されていた商船 「アラスカ号」 を借り受けてここに移ることで改善がなされましたが、問題は後者でした。

要するに、海外に出ることさえ非常に珍しかった明治のこの時代に、彼等下士官兵が公務とはいえ一般の旅行客のような楽しさを味わって英国まで来た上に、現地造船所滞在中は一日おきに業務後の上陸が許可されるという、日本における通常の勤務では考えられない状況でした。

したがって、この外出時に飲食・遊興のための現金を必要とした、ということが彼らの本音でした。 まことに他愛もないといえば、そのとおりのことだったのです。


そこで、バーロー到着から3週間後の夜半、一等兵曹3名にそそのかされた下士卒 (水兵、機関兵などの総称)の190名が結束して建造中の 「三笠」 の下甲板区画に立て籠もって出入り口を内側から閉鎖し、処遇改善などを求めて抗議をしたのです。

この時当直将校であった清河純一中尉 (日本海海戦時の連合艦隊参謀、最終階級中将) が直ちに説得に当たりましたが聞き入れないため、艦長・副長に報告、その上で彼等の代表者5名との話し合いの場が持たれることになりました。

その結果、食費などの処遇については彼等の誤解であること、そしてこのままでは軍法会議にかけられることになることを懇々と説明してようやく納得させ、4日目にして解散したのです。

そして理由が理由であったことと、「三笠」 を就役させて日本に無事回航することが最優先事項であったことから、艦長早ア大佐の計らいにより本件軍紀違反のことは不問に付すこととなりました。

また騒動に加わった下士官兵も、元どおり真面目に勤務に励んだため、その後特に問題となることはなかったのです。


  事件の発覚と軍法会議


ところが、「三笠」 の日本到着後に本件は海軍省の知るところとなり、司法局による調査が行われることになったのです。

その結果、上官の命に従わなかったこと、特に番兵が持ち場を離れたことなどは 「海軍刑法」 及び 「海軍懲罰令」 の規定に該当する重大な軍紀違反であり、かつ艦長が不問に付したことは不適当とされ、騒動に加わった下士官兵190名は軍法会議にかけられることとなりました。

そして、この事件該当者のほとんどが呉鎮守府管轄の者であるため、軍法会議は呉に設置されることになったのです。

審理期間中被告人となった者全員は海軍監獄に収監されることとなったのですが、人数が人数であり、かつ秘密保持のためもあって、急遽呉海兵団の新築の兵舎一棟がそのための仮分監とされたのです。


軍法会議は明治35年11月27日に結審し、翌日宣告となりました。

審判は被告人となった190名のうち2名 (脱走して逃亡中) を除く他は、水兵達をそそのかして抗命教唆と認定された1等兵曹山本権蔵が軽禁固1年8ヶ月となったのを始め、残り全員が抗命及び抗命教唆による軽禁固の有罪となりました。

その状況は表のとおりです。 (階級は何れも軍法会議時のもの。)


階級別 判決別
一等兵曹   3名    軽禁固 1年8ヶ月   1名
三等兵曹  35名    同    1年6ヶ月   2名
一等卒 135名    同    1年2ヶ月  14名
二等卒  15名    同    1年   1名
   同       10ヶ月  63名
   同        3ヶ月  97名
   同        2ヶ月10日  10名
188名 188名


この表で注意していただきたいのは、事件を教唆した一等兵曹3名以外は、英国での事件当時全てまだ兵卒であり、その兵卒回航員185名の総員であるということです。

しかしながら、事件の原因が原因であり、かつ元々が優秀な者が回航員に選抜されていたため、彼等の服役状況は極めて良好と判断されて、早期に仮出獄措置となっています。

例えば、軽禁固10ヶ月となった63名は、11名が横須賀、37名が呉、11名が佐世保、そして4名が舞鶴の海軍監獄に分かれて収監されましたが、いずれも刑期の3/4に当たる255〜6日で仮出獄となり、所管鎮守府の海兵団に戻されていることが知られています。

そして彼等の多くは、その直後に後勃発した日露戦争において新たな配置で自ら勇敢に戦い、海軍軍人としての本分を尽くしたとされています。


  軍法会議の影響


当時、本件は大人数による抗命事件という軍紀上の重大事であっただけに、海軍部内においては迅速かつ秘密裡に処置が進められました。

そしてそこで不幸中の幸いであったことは、上記のように、建造中の軍艦 「三笠」 の仮母港を呉として呉鎮守府所管の回航員を英国に送ったのですが、就役までの間に母港が舞鶴に変更になったことです。 このため日本到着後は可能な限りこの呉出身の乗員を舞鶴鎮守府所管の者と交代させなければなりませんでした。

したがって、軍法会議のために190名もの乗員が一挙に 「三笠」 を降ろされて収監されたにもかかわらず、これは乗員交替の名目の中で行うことができたのです。

もちろん、これによって一時的に 「三笠」 の練度は大幅に低下したことは事実ですが、本件が海軍部内に広がることなく、したがって現在でも知る人ぞ知るの事件で終わっている一因であるとも言えます。


一方で、もっとも貧乏籤を引いたのが初代 「三笠」 艦長の栄誉を担った早ア源吾海軍大佐であったかもしれません。

早ア大佐に対しては、回航委員長/初代艦長として英国における本件の処置よろしからずとの判断がなされ、処罰は受けなかったものの、事件に関わった下士官兵の軍法会議が一段落した明治36年1月12日艦長を免ぜられて待命となり、同年6月には少将昇任と同時に予備役編入となってしまったのです。

とはいっても、大佐昇任後7年で少将昇任ですし、予備役になった翌月には浦賀船渠の社長就任ですから、寛大な措置であったことは間違いありません。

また副長の西山實親海軍中佐は、艦長を補佐し、通常の内務運営を取り仕切る立場であったため、横須賀鎮守府兵事官という閑職に左遷されました。

ただし、西山中佐の場合もその処分は実質としては形式的な謹慎といえるものであり、2年後には 「八重山」 艦長という指揮官職に補職され、その翌年には大佐に進級しているのです。


結局のところ、確かに本件は軍紀違反に該当する事案であったとはいえ、今から見ればその元々の実態は海外に派遣された当時の若者達の他愛もない仕業であったわけで、とても 「軍艦三笠反乱事件」 のようなものでは無く、ましてや第2次大戦後になって左系の人達が書き立てる 「海軍部内における反軍反戦運動」 などとはほど遠いものであったのです。


  呉海兵団


上記のとおり、この軍艦 「三笠」 での抗命事件に関与した下士官兵が軍法会議終了まで収容されたのが、呉海兵団でした。


( 明治後期の呉海兵団の衛門と団本部 )

海軍はこの呉海兵団の第三兵舎を 「海軍監獄仮分監」 として彼らを収容したのですが、ここは当時新築されたばかりでした。


(明治35年当時の呉海兵団配置図 赤丸が海軍監獄仮分監が置かれた第三兵舎)

(第三兵舎2階平面図  2つの大部屋で構成)


当然ながら、兵舎は起居・食事だけであり、厨房での食事受け取り、入浴、洗濯、運動などは他の補欠員などと同じであり、日課も海兵団のそれに従ったものとなります。

つまり、収監とはいっても、上陸 (外出) が無いことと、日中の作業・行動に制限・制約がある以外は、海兵団での通常の生活とほぼ変わりないのです。

そして、軍法会議による判決後に海軍監獄に送られましたが早期に仮出獄扱いとなっており、そのまま海兵団に戻された後、他の補欠員と同じ扱いで艦艇・部隊へ補職されていったと考えられます。 元々が優秀な人材が選抜されて回航員になったわけですから。

「三笠」 の日本回航後は順次舞鶴鎮守府所管の下士官兵と交代することになっていましたので、補欠員としての呉海兵団においては、その海兵団本来の目的に合致していたのです。







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 最終更新 : 13/Sep/2020