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第10話 海軍兵学校の八方園



  八方園の始まり
  八方園のその後
  八方園神社と方位盤


 

 八方園の始まり


明治21年に海軍兵学校が築地から移転する時に、これに先立って明治19年6月に適地調査、というより既に江田島に内定の上での用地の測量を行っております。

この用地測量時の当時の江田島の予定地の姿が有名な絵として残されております。


( 因みに、左下の川沿いにある比較的大きな建物が当時の村役場です。)

この絵の中心部分の拡大したものが下図ですが、小高い丘のところがその後に八方園となったところで、当時ここには 「御鷹神社」 が祭られており、ここに続く参道が下の平地から丘に上るところまで直線的に設けられておりました。




この 「御鷹神社」 と言いますのは、古鷹山由来の伝説に基づいて山頂付近に祭られていたものですが、往来する船舶が航海安全祈願のために参拝するのは大変だということで、ここへ移転したものとされています。 ただし、元々の山頂付近に建立されたとする神社の正確な場所や時期、そしてここへの移転時期などは不詳です。

そして適地調査・用地測量の後、早くも明治19年11月には海軍兵学校の建設工事が開始されましたが、建設予定地は元々干潟であったところが農耕地となっており、土壌的には軟弱ですのでそのままでは兵学校の敷地としては使えません。

このため、海岸線に護岸を築き、農耕地であったところを古鷹山の裾野を削った土砂を盛って硬く整地しなければなりませんので、まずこれから手を付ける必要がありました。

これによって、明治21年4月には取り敢えずの敷地と、物理、水雷、運用の3講堂と重砲台、それに官舎などが完成しております。

この土地改良の工事もあって、赤レンガ、即ち生徒館はまだ出来ておりませんので、購入した古い汽船の 「東京丸」 を神戸で改修の上回航して護岸近くに係留し、これを生徒の生活・学習などのための生徒学習船として使うこととして、明治21年8月に正式に江田島に移転しております。

この兵学校移転時の状況は下の写真の通りであったとされています。


( 因みに、有名な 「キサキ鼻」 というのは中央奥の江田内に突き出している小さな岬のことです。)

なぜ生徒館完成を待って移転しなかったのかなどについては、本ブログの 『兵学校の江田島移転と 「東京丸」』 の中で、「世界の艦船」 の平成31年9月号の拙稿 『呉鎮130周年 呉基地と江田島教育の歩み』 の補遺として述べておりますので、これをご参照ください。

http://navgunschl.sblo.jp/article/186349593.html


これをご覧いただいてお判りのように、移転工事において背後に続く峰は掘削されましたが、何故かこの御鷹神社の跡地はそのまま小山として残されました。

そして、丘の上に置かれた 「御鷹神社」 は撤去されて、現在も続く 「江田島八幡宮」 (当時はまだ 「江田島八幡神社」 と呼ばれていました) に預けられ、元の境内であったところは兵学校の庭園となったとされています。 ただし、庭とは言っても実際には単なる更地の平地であったようですが。

なお余談ですが、江田島八幡神社に預けられた御鷹神社は、その後近くの中郷区に移転しましたが例大祭の夜に出火して焼失、再び江田島八幡神社に合祀されました。 そしてやっと平成10年になって改めてこの八幡神社境内に 「古鷹神社」 として再建され、現在に至っています。

上の写真の拡大図ですが、小山の斜面の参道跡はそのまま残され、その途中にあった松の大木もそのままのようです。




この明治21年移転当時の状況 (生徒館は予定地) を19年の測量図と重ね合わせたものが残されており、当該部分を示すと下のとおりです。




元の地形図には 「御鷹神社」 も描かれており、特にここで注意していただきたいのは、当時からここを 「八方園」 と記していることです。 ただしこの 「八方園」 というのが、神社撤去後の庭園としてつけられた名称なのか、それとも神社の境内をそう呼んでいたのかなどは不詳です。



 

 八方園のその後


そして明治26年に生徒館が完成した後の明治35年の兵学校配置図でも、この小山上の平地と斜面の参道跡はそのままです。




この斜面の参道跡が無くなったのは、大正6年に大講堂が建てられた時です。 大講堂建設のために明治45年から工事が始まり、これに伴ってこの参道跡の部分が削られ、八方園に至る道は現在も残る小山に沿ってぐるりと回る形となっております。




大正8年に大講堂が建設された時の八方園斜面の参道跡との位置関係が判る図面です。 少々写りが悪いのですが、大正2年の計画図で、大講堂建設のために八方園斜面の元参道側がガッポリと削られましたが、参道跡は現在の太平洋池のある付近よりもう少し生徒館寄りの南側に伸びていたようです。




 

 八方園神社と方位盤


江田島の八方園というと、「八方園神社」 と 「方位盤」 が有名です。 しかしながら、この2つが出来たのは海軍兵学校が江田島に移転してずっと後の昭和に入ってからです。


「八方園神社」 は、昭和3年になって昭和天皇の御大典記念事業として、たまたま伊勢神宮における遷宮祭で不用となった檜材をもって建立されたもので、場所は元の御鷹神社の跡とされています。

ご神体は天照大神を祭るものではありますが、宗教的な意味合いは全くなく、生徒の自主的な参拝によって天皇陛下と国家に対する “忠義と孝行” を誓うところであったとされています。


( 往時の八方園神社 )

( 雪の八方園神社 )

しかしながら、終戦直後の連邦軍進駐前に自らの手で取り壊してしまいました。 そして昭和42年になって、この神社跡に 「海軍兵学校の碑」 が建てられております。

下の写真は昭和45年の防大夏期定期訓練においての記念写真ですが、建ってから3年のまだ新しい時のものです。




そして、この 「八方園神社」 と並び知られているのが 「方位盤」 です。 兵学校生徒が、神社参拝の後、この方位盤によって各自それぞれの故郷の方向を向いて思いをはせたものとされています。 ただし、この 「方位盤」 が設置されたのは、実に昭和16年のことです。


( 八方園に置かれた往時の方位盤 )

またその脇には、各自が帰省の折に持ち帰った故郷の石を集めた場所が設けられておりました。


( 八方園の一角に設けられた故郷の石の集積場 )

これらのものが終戦後どの様な状態であったのかは不明ですが、現在の方位盤とその周囲に置かれている小石などは戦後新たに設置されたもので、残念ながら当時のものとは別のものです。



( 平成12年当時の第1術科学校副官撮影のもの )


その他、この八方園には昭和16年に 「方位盤」 と共に 「皇居遥拝所」 が設けられたとされていますが、これはどの位置にどの様なものがあったのかは不詳です。



以上、江田島の八方園について思いつくままに綴りましたが、ご来訪の皆さんの何某かの参考になれば幸いです。







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 最終更新 :20/Jun/2021