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2-1.小原台の4年間



私の船乗りへの第一歩は防衛大学校への進学でしたが、高校3年の10月の体育祭で、棒倒し競技において入院1ヶ月、全治4ヶ月の大怪我をしてしまい、この間受験勉強などは全くできず。 それでもダメ元で受験をしましたが、1次試験も2次試験も何とか合格できました。


確か、1次試験は11月下旬頃、2次試験は12月中旬頃だったと記憶しています。 そして最終合格発表は2月中〜下旬頃だったかと。

そう言えば、この年の12月10日に例の「三億円事件」が発生しました。 後から母親に聞いたところでは、当日、私は怪我の治療のため学校を休んで都内の病院に通院していましたので、一応警察が学校と我が家とに立ち寄った見たいですね。


私の高校は元府立高等女学校で、都立になってからも生徒数は男子1:女子3の比率でしたし、そして開校以来初の防衛大学校合格、そして進学! 大怪我のこともあって、担任も学校側も驚いたでしょうね (^_^)


もちろん、現役防大生で私に防大でのことを色々と話してくれ、入試でのアドバイスをしてくれた高校1期先輩のお兄さんも大変に喜んでくれました。




(先輩の制服を借りての偽防大生 少々ダブダブ(^_^))


ところで、覚えておられる方も多いと思いますが、この年、左派学生運動による過激な学園紛争の一つとして「安田講堂事件」が生起したため、史上初めて東京大学の入試が中止になってしまいました。 このあおりで他の全ての大学の入試レベルが例年より1つ上になり、したがって滑り止めと一般大学のゴチャゴチャを嫌ったことなどの理由により防大受験者数も大変に多くなりました。


そして合格者発表者の中から3月30日に実際に防大入校のために着校した者は予想以上に多く、学生舎の人数配分の調整が必要となりました。 このため私は当初は第1大隊の第12中隊、すなわち第1学生舎の2階だったのですが、急遽4階の第14中隊に換えられてしまったほどでした。


3月30日の着校から引き続く入校準備の間に他大学へ移ったりして退校した者も、例年ですと10名単位で出るのですが、この年は当時の世相から僅かに2名で、4月4日の入校式を迎えたのは582名でした。 本来の定員が530名でしたから、それよりも遙かに多かったわけです。



(当時の防衛大学校全景)


こうして4年間の小原台での生活が始まったわけですが、以下、各学年毎の思い出について順にお話ししていくことにします。




 第1学年 帝国陸軍内務班かくありき
 第2学年 晴れて海上要員1年目
 第3学年 楽しい学校生活
 第4学年 勤務学生、勤務学生で過ぎた1年 ← NEW !!



  (参考): 防衛大学校の学生隊について


因みに、防衛大学校は将来の幹部自衛官たる者を教育・訓練するところ、つまり各国で言うところの “士官学校” に相当しますので、当然ながら4年間を学生舎で起居する全寮制です。

このため学生総員で1つの学生隊を編成し、当時はこれを5つの学生舎で第1〜第5大隊を構成し、各学生舎は1階〜4階の各階で中隊を、そして各階は学生舎の中央階段を挟んで西側が第1小隊、東側が第3小隊とし、それぞれの小隊の2学年以上は基本的に陸海空別の同じ要員でした。 例えば、141小隊といえば2学年以上は陸上要員、122小隊といえば海上要員です。

各小・中・大隊及び学生隊には4学年各1名が学生長として、また3学年1名の学生長付が勤務学生として指定されます。 これに加えて、大隊及び学生隊には4学年の幕僚が数名ずつ指定されて勤務します。 これらの学生の勤務期間は前・中・後期の3交代制です。

このようにして、各小・中・大隊配属の幹部自衛官たる指導教官の指導・監督の下、学生隊は学生隊学生長を筆頭とする各学生長以下の4学年による自治組織として運営されます。 当時は、“学校側の官僚、文官教官、指導官、何するものぞ” と学生自らで強力な態勢を築いていました。

なお、各大隊に配属される指導教官は陸・海・空の幹部自衛官で、小隊が2〜1尉、中隊が3佐、大隊が2佐の各1名ずつ配置されるのが標準でした。

各期、学年の定員530名は、1学年の間は陸海空の要員区分無しに学生舎各階の合計20個中隊に均等に配置され、各中隊の1学年のみの第3小隊を構成します。 ただし、学生長は4学年、学生長付は3学年の各1名が指定されます。 そして、2学年に進級時に、陸上300名、海上130名、航空100名に要員区分されます。

各小隊は学生舎各階の片側6つづつの8人部屋で、廊下を挟んで南側が寝室、北側が自習室でした。 そして当時は各部屋とも基本的に各学年2名ずつで構成され、4学年が各部屋の部屋長と副部屋長となり、部屋の運営に当たることになります。

この部屋の編成は年度の前期と後期で変わりますが(部屋替え)、1学年として入校した時の前期中は、その部屋の2学年2名が1学年2名を1:1で生活の面倒を見ることになります。 これを「対番制度」と呼んでいます。 この対番の関係は多くの場合その後も長く続く間柄となります。

この各部屋の構成は時代時代により多少の変遷があり、私達が4学年となった時には各部屋2名の4学年以外の6名は同一学年となりました。

そしてその後、世相を反映、というか世相に迎合して、4名1部屋となり、更には学生舎の増設(5つ→8つ)もあって2名部屋になり、また女子学生も入校してくるようになって、どんどん変わってしまったようです。 現在では学生舎が新しいもの4つに立て替えられ(4個大隊制)、当初は4人部屋でしたが、その後また8人部屋制に戻したとも聞いています。

ただし、学校側の管理がうるさくなったのと、普通学の専門学科に文系が加わり、かつ卒業生に学士号が付与されるようになると、学校全体、特に文官教官側から “自衛官教育など卒業してからでよい、立派な論文を書かせるために学生舎では学生に自由かつ十分に勉強させろ” というの声が強くなり、かつての学生隊の自治態勢は陰を潜め、国立の全寮制 “小原台学園” 的な雰囲気が色濃くなってきたようです。

そして、学生長勤務などは “小五月蠅い指導官達の小間使いになって余計なことをさせられ、学生間で白い目で見られる” という学生自身の所見も出てきて、優秀な学生ほど希望者が少なくなっているとも聞いています。

私達の時代では、学生長勤務はある意味で誇りとするに足る一つのステータス・シンボルだったのですが ・・・・







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最終更新 : 29/Mar/2020