Home へ  

   

2-1-2.晴れの海上要員1年目



 ノビノビとした雰囲気の海上要員小隊


1学年の学年末試験に合格し、かつ海上要員に選考されましたので、2学年に進級して陸・陸中隊だった第14中隊から2学年以上が海上要員で構成される小隊へと変更になりました。 第2大隊第4中隊第2小隊(242小隊)です。


春休みの前に全ての荷物をもって指定された部屋に移ります。 そして新入生(18期生)を迎える準備をして、各部屋、各2学年は受け持ちの対番を迎えます。 しかしながら、短艇委員会ですから5月の全日本に備えての練習がありますから春休みはありませんので、ともかく夕〜消灯までの暇を見つけバタバタと新学期の準備です。


そして何と言っても、242小隊は海上要員小隊ですので、第2学生舎4階の中央階段から東側の2学年以上は全て海上要員ばかり。 1学年での1年間のあの陸・陸中隊での “帝国陸軍内務班かくありき” の様な雰囲気とはガラリと変わり、実にノビノビとした楽しいものであると感じました。


そこで、143小隊から2学年海上要員となって242小隊に移ってきた同期が数名おりましたので、彼等と一緒になって242小隊の他の同期や隣の陸上要員小隊である241小隊の2学年同期達と話し合い、24中隊の新入生で編成される243小隊の日々の生活指導は、私達が前年度143小隊1学年として受けた “しごき” “いじめ” 同然の躾け指導の様なことは絶対にやらないことに決めました。 もちろん、3・4学年の上級生達からも異論はありませんでした。


私達2学年が1学年を消灯後の屋上に上げたのは1年間で余程のことがあった数回だけだったと記憶しています。 そして勿論その時でも、あの罵声を浴びせながらの100回を越える腕立て伏せをやらせることはしませんでした。



 
前期部屋メンバー (前列:私と対番の宮本学生) 後期部屋メンバー

(実に懐かしい顔ぶれが揃っていますね 〜 (^_^) )



 夏期定期訓練


防大では毎年7月上旬〜8月上旬の約1ヶ月間、夏期定期訓練が実施されますが、昭和45年の2学年海上要員は、前半が乗艦実習、後半が江田島の幹部候補生学校での海技訓練でした。


  (1) 乗艦実習

前半の乗艦実習は、毎年使用していた第1練習隊(あさひ、はつひ)が修理など使えず、PFだけでは2学年海上要員112名(当時)を収容できませんので、約20名ずつを舞鶴の第31護衛隊(いすず、もがみ)と大湊の第32護衛隊(きたかみ、おおい)で行うことになりました。


“暖房艦”で、しかも揺れることでしられる1練隊ではなく、DEとはいえ冷暖房完備で居住性にも優れているこれらに乗れるということで、希望者が殺到したことは言うまでもありません。


幸いにして、私は32護隊の「きたかみ」になりましたし、しかも乗艦実習は同隊の北海道巡航に合わせるということでしたので、嬉しく、かつ非常に楽しみでした。


実習員21名と引率の指導教官1名の32護隊実習組は、7月9日朝防大発、京急浦賀〜品川〜上野へ、上野から夜行列車で野辺地まで。 10日朝に野辺地で大湊線に乗り換えて大湊へ。 そしてブイ係留中のそれぞれの艦に乗りました。 「きたかみ」での実習員10名には、後部下甲板の第5居住区1つがまるまる割り当てられました。


10日の乗艦後は事前研究会・隊司令訓示や大湊総監部研修などを行ったのち、11日午前大湊を出港し21日午前大湊帰港、事後研究会や所感文の作成などを行い、22日朝退艦して江田島に向かいました。


この防大生の乗艦実習は32護隊の夏期北海道巡航を兼ねていましたので、11日午前大湊出港 →12日午前小樽入港 →13日午後小樽出港 →14日午前北見枝幸入港 (錨泊)→16日午前北見枝幸出港 → 同16日午後稚内入港 →17日午前稚内出港 → 同17日午後留萌入港 →19日午前留萌出港 → 同19日午後瀬棚入港(錨泊)→20日午後瀬棚出港 →21日午後大湊入港という多彩なものでした。 実に楽しく充実した10日間でした。





この航海中、宗谷海峡は行きの東航時は夜間でしたが、帰りの西航時は昼間で、監視中のソ連海軍哨戒艇の接近を受けて一時緊張する場面もありました。 私の初めて生で見る対象国艦艇でした。


また、稚内では自由研究時間に近くに停泊中の巡視船「ほろない」の見学に一人で出かけたましたが、出てきた当直員に「船内の見学を」と申し出たところ「誰もおりませんから、自由にどうぞ」とのこと。 そこで、私は こういうことには遠慮しない性格ですので、しばし船内を勝手にウロウロ (^_^)  


乗艦実習中に撮影した艦船写真は『現代戦講堂』中の 『懐かしの艦影 戦後編』 に掲載しておりますので、そちらをご覧下さい。 ここではそれ以外のものをご紹介します。


32護隊は11日(金)大湊を出港して12日(日)の午前小樽に入港、翌13日(月)の午後まで在泊しましたが、私達実習員は12日の午後は自由研究ということになりましたので、同僚と一緒に札幌見学に出かけました。 とは言っても、往復で半日ですから札幌滞在時間は僅かしか無く、有名なめぼしいところを幾つか回っただけです。


 
クラーク胸像前で 言うまでもない有名な札幌の時計台

13日(月)に小樽を出港して夜間に宗谷海峡を東航、14日(火)午前中に北見枝幸沖に到着しましたが、ここの港は浅いのとDE程度でも横付けできる岸壁がありませんので、港外に錨泊でした。 右下の写真の第1種(灰色)の幹部は甲板士官の吉沢3尉(当時)(防大12期、幹校19期)で、私達実習員の面倒を大変親切に良く見てくれました。


 
北見枝幸の港と市街 忙中閑 立直者以外は釣りも(^_^)

北見枝幸在泊中の15日(水)の午後は、クッチャロ湖まで保健行軍。 現地では私達以外は一般の人達は誰もおりませんでした。 近くに一軒家がポツンとあり、「五十嵐権右衛門」(長い名前)という表札が出ておりまして、表に出ておられたおばあさんとあれこれ話しをしている中で、「お宅の土地はどれくらいの広さがありますか?」 と尋ねましたら 「さ〜、見えるところ全部ウチのものかね〜」 とのことでした(^_^) クッチャロ湖ではエビ(スジエビ?)が捕れるので、これを干して出荷していると。

なお、おそらく当時まだ走っていた2両編成の興浜北線(北見枝幸−浜頓別)で往復したと思いますが、この鉄道も昭和60年に廃止されてしまい、今では線路も残っていないようですね。


 
荒漠とした景色が広がっています 貸しボートがありましたが ・・・・

記憶が定かではありませんが、消去法から次の2枚は留萌在泊中の18日午後の水路見学時かと・・・・?


 
湊神社 ? 黄金岬海岸 ?

  (2) 移動(大湊→江田島)

7月22日の朝、乗艦実習艦の「きたかみ」を退艦して、次は夏期定期訓練後半の海技訓練が行われる江田島への移動です。 今度は大湊への鉄道での往路と異なり、なんと航空機。


大湊基地業務隊の大型バスで八戸航空基地へ。 ここから岩国まで第61航空隊の YS-11 で。 定期便の利用ではなく、私達防大実習員のためのフライトだったと記憶しています。


天候に恵まれ、ルート上の地上も良く見えましたし、全く揺れませんでした。 それに、1学年の時に空自の入間基地見学があり、この時にボロボロの DC-3 の貨物室に押し込められて短時間の体験フライトがありましたが、それに比べれば実に快適でしたね (^_^)



 
八戸航空基地のエプロンにて 雪の残る鳥海山

金沢の直上を通るルートでしたので、中学3年間を過ごした懐かしいところです。 現在では金沢大学は校外に移転して、金沢城趾は綺麗に整備されてきていることはご存じのとおりです。 また母校の金大付属中学校は市内の金大附属高校がある陸自金沢駐屯地隣の野田町に移転し、元の跡地は現在では「金沢21世紀美術館」となっています。 隣接する兼六園は当時まだ入園無料で、ホームルームなどでの私達の遊び場でした(^_^)


 
金沢大学の校舎が置かれていた金沢城趾 母校 金大付属中学校

岩国航空基地に着陸すると、江田島への移動前に少しの休憩時間がありました。 で、早速格納庫やエプロンなどをウロウロ。


 
新鋭の PS-1 2号機 映画撮影で使用された T-6 改造の旧海軍機が

岩国から江田島への移動は魚雷艇で。 海上自衛隊も防大生の海上要員にはいろいろ気を遣ってくれるものと思いました。


 
良い天気ですので快適な高速航行 初めて見た江田島

  (3) 海技訓練

夏期定期訓練の後半、7月23日(木)〜31日(金)は、江田島の幹部候補生学校で3学年と交代して海技訓練です。 赤レンガ裏のコンクリート製建物(旧海軍兵学校第3生徒館)3階が防大生の居住区に割り当てられていました。


3グループに別れて乗艦実習を行った2学年海上要員は、22日(水)の午後、江田島に集結し、この日は身辺整理や海技訓練予定の説明。 翌23日から、カッターの橈漕、発光・手旗、水泳(江田内で遠泳訓練と5マイルの遠泳)、などでした。


まあ、訓練そのものは何れも防大でやってきているものですから特にどうのと言うことはありません。 要は、江田島という土地と卒業後に候補生として入校することになる幹部候補生学校の雰囲気を味わうことに意義があります。 しかも、瀬戸の夕凪・朝凪で知られるこの時期の江田島の猛烈な暑さの中で(^_^)


夜22時の巡検後でも、とても寝られるような状況ではありませんので、巡検後から22時45分まで納涼が許可されており、屋上に上がって(もちろん明かりなどありません)涼んでからベットに上がることに。 少しはヒンヤリするコンクリートの床に寝っ転がる者も。 


初めて江田島に行く2学年に対して、夏期定期訓練の前には消灯後に寝室で3・4学年の上級生達が夜な夜な江田島での体験談を話してくれました。 それこそ、あること無いこと色々な話しを聞かせてくれましたが、その一つに「オッパイ」というのがありました。

曰く、「 いいか、江田島には「オッパイ」という自動販売機があってな、10円玉を入れてゴム製の女性の乳首型のものに吸い付くと、冷たくて甘いカルピス風味のものが出てくるんじゃ。 これがたまらなく美味しくてな〜 」っと。

ふ〜ん、流石は男所帯の江田島、そんなものがあるんだ〜、っと思っていましたが ・・・・ 実はこれ、かつて中国地方を中心として売られていた「オーパイ」というビン入りの清涼飲料で、普通の自動販売機の中にジュースなどと一緒に並んでいるものの一つのことでした(^_^)


朝6時の起床から夜22時までスケジュールがビッシリ組まれていますが、昼食後や夕食・入浴後には多少の余裕時間もありましたので、これを利用して校内散策などもしました。


 
候補生学校玄関表札前で 防大生居住区から見た赤レンガ裏

 
防大生居住区から見た風景 中グランド裏の候補生食堂

 
旧第3生徒館 3階左側が防大生居住区 教育参考館脇の「蛟龍」

 
大講堂前 元八方園神社のあったところで

 
夕暮れの第1砲術講堂上から見た陸奥砲塔 FCS Mk-37 と 38口径5インチ砲塔

8月1日(土)午後に江田島を離れ、呉 〜 三原 〜(夜行列車)〜 大船 〜 横須賀と乗り継ぎ、8月2日(日)朝横須賀駅から支援車両にて帰校しました。 これにて夏期定期訓練は終了し、校外訓練から全学生が帰校して揃ったところで夏期休暇に入ります。


この時の呉〜三原間はまだ蒸気機関車で、トンネルに入る度に冷房のない客車の開けはなった窓から濛々たる煙が(^_^) そんな時代でした。



 夏期休暇とその後


夏期休暇に入ると、短艇委員会は例年の如く3日間の合宿。 ただし、もうこの年以降、昨年までのような三崎港までの遠槽は行われなくなってしまいましたが。


3日間の合宿の後は、フリーの休暇。 この年は実家に帰省して、おとなしくノンビリ過ごしたと思います。


そして、夏期休暇が終わって防大に帰校してからは普段どおりの日常に戻り、また11月には開校祭、12月には断郊競技も行われましたが、何故かほとんど記憶に残っていません。


学生舎は海上要員小隊でしかも2学年、3・4年の上級生達も穏和で気心の知れた人ばかりでしたので、楽しい日常であったと思います。 前年の1学年の時のように、何か行事があった時には学生舎生活での束縛から解放された気分になったので楽しめた、というわけではありませんでしたので、逆に特段記憶に残らなかったのかも知れません。


敢えて言えば、短艇委員会、短艇委員会で明け暮れたと思います(^_^)



( この年のある日の短艇委員会総員の記念写真 )


( 思い出の “黒部” )


ただ、私はこの2学年になった頃に腰を痛めてしまい、長い時間漕ぐことができなくなってしまいました。 全日本に出ることなどとても無理な話になり、そこで退部して他の部活に移ることも考えたのですが、先輩達から慰留され、5月の全日本終了後に4学年(15期)が引退してから翌年5月までマネージャー補佐、そしてその年の全日本後に16期が引退してから4学年の全日本までマネージャーを努めることとなり、そのまま残ることにしました。


とはいっても、全く漕げなくなったのではありませんので、全日本の前などになると、選抜艇の練習のために残りのメンバーで構成する「対抗艇」のクルーとして2000m1本程度はかなり漕ぎました。


この時痛めた腰は、防大の医務室や自衛隊病院、防大卒業以後も部外の大学病院などにかなり通ってリハビリなども受けたのですが、結局ハッキリした原因も分からず痛みも治らないまま長いこと続きました。

しかしながら、30代半ばを過ぎた時にある知り合いの柔道の師範で整体をやっている人に見てもらい、2回くらいバキバキとやってもらったところ、見事にほとんど感じない位まで治ってしまいました。 長いこと苦しんだあれは一体何だったのかと思うくらいに(^_^;







「砲術への想い」リストへ 前頁へ 頁トップへ 次頁へ

最終更新 : 29/Mar/2020