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2-1-3.3学年の楽しい学校生活 |
3学年に進級する時には普通学(一般学科)での専門を選択します。 当時は現在の様な文系はなく全て理工学で、電気、機械、基礎工学T及びU、応物、応化、航空、そして海上要員にはありませんでしたが土木、があり、これらの中から1つ選択するわけですが、電気や機械などは希望者も多く、また定員も少ないので、黙っていても取れるのが基礎工学でした。
なかでも基礎工学Uというのは、機械系をメインにして電気・電子系の科目も含めたもので、いわゆる理系の基礎一般とも言えるものです。 とは言っても、だいたいが私のような勉強嫌いで訓練や部活大好き人間が集まるところ、でもありました。 「海上10班」というのが全校に鳴り響くその代名詞です(^_^)
この基礎工学というのは、将来の幹部自衛官たる者の素養として大変良いものであったと思います。 例えば、艦艇職域に進んだ場合は、エンジンや大砲にしろ機械系や物理系の基礎知識が必要ですし、レーダーやソーナーなど全てにわたりこの基礎工学の中で網羅されていました。
現在では学士号をとらせるためにこの基礎工学の専攻は無くなってしまいましたが、逆に理工系でも自分の選んだ専門科目には詳しいけどそれ以外はほとんどダメという防大卒が出てきています。
ましてや人文系で入試を受けて入校したものは、防大でも文系の科目と専攻ばかりで、元々が数物は苦手な者が多いせいか、卒業後に幹部候補生学校、そして遠洋航海終了後の任務課程に進んだ時に、これらのことがが全く判らず(理解できず)、正規の課程時間外に基礎工学の補講が必要になっているほどです。
この海上要員で基礎工学Uを専攻するのが教務班10班30名で、そして海上要員と航空要員で機械工学を専攻する教務班8班の内の海上要員6名とで訓練班の10班36名を構成しました。 この訓練班10班のもちろん人数的には基礎Uの方が多いわけで、したがってご想像がつくかとは思いますが、この訓練班の通称 “海上10班”というのは、良い意味でも悪い意味でも、防大における歴代のバンカラ集団のようになっていました。
そしてこの海上10班の海上要員が211小隊、222小隊、及び242小隊の 3つに別れていましたが、このため第2大隊学生舎は他の学生舎とはかなり雰囲気的に違っており、いわば海上要員の “巣” のようなところで(^_^;
基礎工学Uを選択したことにより、教務班10班も2学年時とは入れ替わりがありましたので、私は小隊が242小隊から222小隊、つまり第2学生舎の4階から2階へ移ることになりました。 そして3学年と4学年の2年間はこの222小隊で過ごすことになります。
( 教務班10班 基礎工学U専攻 )
5月16日(日)、神戸商船大学(当時)主催の全日本カッター競技大会が西宮沖で行われました。 このため、防大短艇委員会の選抜クルーは事前訓練を兼ねて阪神基地隊に進出し、ここで合宿を行いました。 これに私もマネージャー補佐として後方支援及び各部との調整役のために同行しました。
この合宿中に(前日の15日(土)であったと記憶していますが)、阪基で第11護衛隊3隻による体験航海が行われました。 たまたまその出入港を見る機会がありましたので、その時撮った写真は 『懐かしの艦影 戦後編』 の中でご紹介しておりますのでご参照下さい。
全日本カッター競技大会は、下馬評どおりの圧倒的な強さで優勝し、全日本不倒の5連覇の記録を作りましたので、来年の私達が4学年の時に防大主催で行われる競技大会への期待がいやが上にも高まりました。
( スタート直後のダッシュで既に半艇身以上他より前に出ています )
7月から8月上旬にかけては例年どおりの全校全学年の夏期定期訓練が行われました。 私達海上要員3学年は、昨年の2学年の時と逆で、前半が江田島の幹部候補生学校で海技訓練、後半が乗艦実習でした。
防大で訓練説明や事前準備などをして、7月11日(日)夕刻に3学年海上要員総員で防大を出発、横須賀 → 大船 →(夜行)→ 三原 → 呉と列車を乗り継いで、翌12日(月)午後江田島着でした。
到着した12日は身辺整理をして、訓練は翌13日(火)〜21日(水)で、訓練内容は主として前半が水泳、後半がカッターによる帆走です。
前半の水泳は江田内で遠泳事前訓練を行った後、17日(土)に大原→(津久茂瀬戸)→江田内の7マイルの遠泳、翌18日(日)は午前プールで水泳能力検定を行ったあと休養、そして19日(月)〜21日(水)にカッター8隻に13名又は14名ずつ分乗しての帆走訓練。
帆走訓練は、江田島〜能美島を時計回りに一周するもので、19日(月)の夜は大柿町沖で支援艇に横付け、そして20日(火)の夜は能美島大柿町の鹿川湾内で錨泊でした。
しかしながら、あまり風には恵まれない3日間だったような記憶があります。 ただ、毎日決められたポイントを指定された時刻までに通過するようになっていましたが、そのために橈漕まではしなくても済んだような・・・・
前年度の3学年と異なり、この年の帆走では2日目と3日目に帆走レースをすることになっていました。 しかしながら、そこは防大生が防大生たる所以で。 カッターとその帆走用艤装品類は候補生学校のこの時限りの借り物、各艇の乗艇割りも普段の訓練班などとは無関係でこの帆走限りのもの。 このため、レースだと言われても “それで頑張ったからと言って、それがな〜に” という感覚で、各艇で帆走を楽しめば良いんでしょうと(^_^)
( ノンビリ、ノンビリ (^_^) 誰かな漫画を読んでるのは? )
そして、江田島での生活も昨年に続いて2回目で、校内の勝っても判ってきましたので、ある程度精神的な余裕もでてきます。
第1砲術講堂屋上から 夕暮れ時の風景 |
赤レンガ裏側 | 結索練習に励む予定者課程学生 |
赤レンガ表側 | 平成の修復工事前の当時の大講堂 |
それにしても暑い〜 |
夏期定期訓練の後半のこの年の3学年海上要員の乗艦実習は、舞鶴の第10護衛隊(司令護衛艦ゆうだち、むらさめ、はるさめ)の3隻に総員が分乗してでした。
7月21日(水)の江田島の海技訓練で午前帆走訓練を終え、午後機材等返納及び離校準備、そして夕刻江田島を出発して呉→三原→(夜行)→京都→東舞鶴と列車を乗り継いで22日(木)午前海自岸壁に到着し、それぞれの艦に乗艦しました。 私は隊序列2番艦の「むらさめ」で、引率指導教官2名と同期33名でした。
居住区は第1居住区が割り当てられましたが、ここは4段ベット。 私はその最上段でしたが、目の前をパイプ類が走り寝返りを打つにも邪魔になるほどで、更にその直上は真夏の灼熱した上甲板。
そして蒸気タービン艦で、そのボイラの上が科員食堂です。 当時は艦内冷房などありませんので、居住区でも食堂でも艦内は猛烈な暑さです。 まさに昨年の32護隊での実習が懐かしい(^_^;
停泊中、乗員は食事時は上着を脱いで下着姿で科員食堂で食事、また巡検後はゴザをもって上甲板の涼しいところに陣取り、艦内の温度が多少下がったと思う頃に居住区のベットに戻っていました。
乗艦した日に実習員に対する事前研究会を行い、まず前段として翌23日(金)朝舞鶴を出港して高浜湾で防火・防水、霧中航行などの基礎的な訓練を行った後、翌24日(土)の午前に一旦舞鶴に帰港。 帰港後から28日(水)の朝まで、保健行軍や休養で英気を養うことに。
そして28日午前改めて舞鶴を出港、対潜訓練や NAVCOMEX 303 と呼ばれる旗旒訓練や通信訓練を行いながら、30日関門海峡を通狭し豊後水道を南下。 太平洋に出て、洋上給油、海空訓練、対空・水上射撃、ハイラインなどを行って、31日午後伊良湖岬沖仮泊し、8月1日(日)名古屋入港。
3日(月)午後名古屋を出港して四日市に入港。 5日(火)午前四日市を出港して6日(木)朝横須賀入港し磁気測定、終わって実習員に対する事後研究会等、そして7日(金)朝退艦し帰校しました。
( 当時実習員に配付された行動予定図 )
おそらく隊司令の配慮だと考えられますが、余裕を十分にとり、かつバラエティに富んだ充実した訓練内容でしたし、舞鶴や名古屋、四日市で上陸しての史跡研修や自由時間が取れたのは大変に楽しいものでした。
乗艦実習中に撮影した艦船写真などは 『現代戦講堂』 中の 『懐かしの艦影 戦後編』 に掲載しておりますので、そちらをご覧下さい。 ここでは主としてそれ以外のものをご紹介します。
10護隊は7月23日(金)午前、3隻揃って舞鶴を出港し、個艦毎に防火・防水、霧中航行、溺者救助、応急操舵などの基礎的な訓練を行ったあと、同日午後、高浜湾に仮泊(錨泊)しました。
ここでは「生地訓練」と称して水泳が行われ、私達の「むらさめ」では乗員の手空きと一緒になって舷梯から海に入って適宜水泳を楽しんだのですが ・・・・ 某艦では実習員は作業服に通称「カポック」と呼ぶ救命胴衣を付けて艦の回りを一周させられたと(^_^)
ご存じのとおり、このカポックというのは本来はアオイ科の落葉樹の実からとれる繊維のことで、撥水性に優れかつ軽量であることから、これを救命胴衣に詰めたものは水に浮きやすいものですが、反面大変分厚いものですので、作業服にこれを付けてでは大変に泳ぎ難いものです。 まあ、経験という意味ではこれも楽しかったのではないかとも(^_^;
( こういうものです )
そして24日(土)の午前に高浜湾を出港して一旦元の舞鶴港に戻りました。
舞鶴は、24日の午前から28日午前の出港まで在泊し、この間に私達防大実習員は「天橋立」への保健行軍と休養で過ごしました。 ただし、この時の東舞鶴の街のことは全く記憶に無いのですが・・・・?
26日午前、一旦舞鶴に帰港 | 天橋立にて |
そして28日午前、10護隊は3隻揃って出港し、横須賀までの本格的な訓練航海に入ります。 まずは戦術運動訓練をやりながら潜水艦との会合海面に。
戦術運動訓練1 | 同 左 2 |
そして会合後は一昼夜かけて各種の対潜訓練を。 この日の夕食は各自が持ち場についたままでの「戦闘配食」。 実習員もそれぞれの配置に別れてでしたが、ただ私はどの場所での喫食だったのかの記憶が・・・・?
逆光の中 VDS を曳航する「はるさめ」 | 露頂中の「うずしお」 |
対潜訓練を終了して「うずしお」の安全を確認してから分離。 29日は一日かけて10護隊の戦術研究作業、そして通信訓練や旗旒信号訓練など。
この日の夜半に関門海峡通狭ですが、夜の方が一般船舶は少ないですし、各種の燈火などの目標などが確認しやすいので、予め海図上で計画したコースを維持しやすいですね。
そして豊後水道を南下して太平洋へ。 まずは30日の朝一番は「はまな」と会合しての洋上給油。
( 早朝の UNREP )
そして、豊後水道沖から四国沖にかけての通称「L(リマ)海面」でスリーブ(吹き流し)に対する5インチ及び3インチ砲の対空射撃、つづいて空自との海空訓練でした。
「はるさめ」の5インチ砲射撃 | 「ゆうだち」の5インチ砲射撃 |
「むらさめ」の52、53番砲 | 海空訓練中の「むらさめ」 |
31日(土)は、ハイラインなどの諸訓練を行い、夕刻、一旦伊良湖岬沖に仮泊(錨泊)して、翌8月1日(日)朝名古屋に入港しました。
「サンドレッドが来る。物陰に入れ!」 | 「サンドレッド受け取った!」 |
三島由紀夫原作「潮騒」の舞台 神島 | 伊良湖岬 対景図作成中 |
そして名古屋では1日と2日の2日間10護隊は一般公開を行いましたが、私達実習員は上陸許可だったと思います。
この名古屋在泊中に、私は噂に聞いていた映画 『小さな恋のメロディー』 を見に行きました。 マーク・レスターとトレーシー・ハイドの2人が大変に可愛かったですね。 ただし、白の制服での上陸でしたので、回りの若い観客からは目立ってしまい、ちょっと恥ずかしかったですが(^_^;
公式番宣画像よりお借りしました |
名古屋は3日(火)昼に出港して、午後に四日市に入港。 翌4日(水)は一般公開、私達は観光バスを借り切っての史跡研修であったと思いますが、どこを回ったのか記憶が・・・・
5日(木)朝、四日市を出港して、翌6日(金)朝横須賀入港。 午前中に磁気測定を行い、午後は実習員に対する事後研究会でした。 そして7日(土)朝退艦して帰校。 無事全ての定期訓練を終了し、夏期休暇です。
夏期休暇に入ると、短艇委員会は例年の如く3日間の合宿。 この年も三崎港までの遠槽は行われず、普段の練習コースでの橈漕でした。 3日間の合宿の後は、フリーの休暇。 この年も実家に帰省して、おとなしくノンビリ過ごしたと思います。
そして、夏期休暇が終わって防大に帰校してからは普段どおりの日常に戻り、また11月には開校祭、12月には断郊競技も行われましたが、何故かほとんど記憶に残っていません。
敢えて言えば、短艇委員会、短艇委員会で明け暮れたと思います(^_^)
3学年の海上要員が忙しく、というか楽しくなるのは冬季休暇が終わり、年が明けて帰校してからです。 まず始めに1月の10日〜21日にかけて、3学年海上要員を半分ずつに分けて、走水のポンド(海上訓練場)での海技訓練と第2術科学校での機関実習を前半と後半で交代して行います。
私は前半がポンド、後半が機関実習でした。
冬季海技訓練は、前半組が1月8日(土)の午前に訓練準備をして、10日(月)〜14日(金)の1週間、ポンドの管理・訓練講堂棟の3階に寝泊まりします。 食事や屋内訓練などは2階の講堂でした。
ところが、この時は天候が非常に悪く、ほとんどが雨、そして寒い。 このため肝心なカッターの橈漕訓練や機動艇訓練はほとんどできず、発光・手旗などの屋内訓練と、代替えの座学などになってしまいました。 最後に1日晴れたときは、まだやったことのない機動艇の達着訓練を重点にということに。
予定どおりの訓練を消化できず急遽座学をやらされる指導教官達も不満だったでしょうが、ポンドの寒い管理・訓練講堂棟内に閉じこめられる私達学生の方もつまりません。 わざわざポンドで座学とは ・・・・ ということで、講堂でもじっとしておれず、ついワイワイ、ガヤガヤ。 で、前年末に指導教官に転勤してきたばかりの新任の某Y2尉などはこれを見て “観音崎のカラスどもが!” と。(^_^)
機動艇訓練1 | 同 左 2 |
冬季訓練の後半は、相互に交代して私達は第2術科学校での機関実習。 1月17日(月)〜21日(金)の間、2術校の学生居住区に泊まり込んでです。
実習内容は大きく2つで、1つは小型ディーゼルエンジンの分解・結合、もう一つが実習用ボイラの概要で、配管図の作成などが主でした。
遠洋航海が終わってから艦艇職種となった初任幹部は、1年ずつ異なった士(さむらい)配置での3ローテーションには機関科関係も必ず含まれることになっていましたので、艦艇希望の者達は割と皆真面目に取り組んだと思います。 それにメカの分解・結合は子供の頃の悪さも思い出して、大変に面白いものでした。 調整・結合が終わってからの試運転で、一発で起動した時には感動したものです。
ただ、1週間盛り沢山の内容で、夜も色々作業などがありましたので、自由時間は全くありませんでしたが(^_^;
当時の DB31M 型の分解・調整・結合法テキスト |
おそらく私も含めて防大4年間の中で最も楽しかった思い出になっているのがこの3学年の冬に行われたスキー訓練ではないでしょうか。
毎年1月下旬から2月頃に、3学年全学生が一週間妙高高原池ノ平スキー場の普通の旅館・ホテルに分宿してのスキー訓練。 しかも陸自高田駐屯地から指導教官などの支援を得ますが、いわゆる普通のスキー教室とは違い、ほとんどが “勝手に滑れや” というものでした。
それに、個人でスキーなどを持参した者以外は、高田駐屯地の訓練用のものですので、歩いての雪中行軍には向きますが、ゲレンデを普通に滑るには(^_^)
そして、最終日にはスキー・コースから外れた山の中を歩いて行くクロス・カントリーで、これも大変に面白く、楽しいものでした。
さらに、分宿の宿は基本的に訓練班別ですから、皆気心の知れた同期ばかり。 夜な夜な思い思いの部屋に集まってワイワイ・ガヤガヤ。
あまりの騒がしさに、お目付役で同宿している防大指導官からお小言も頂きましたが、それはそこ防大生ですので、毎晩。 指導官もあきれ顔のあきらめ顔で。 また、大浴場の窓を開け放し、徳利とお猪口を持ち込んで桶に入れて湯船に浮かせての雪見酒も(^_^)
この姿の500余名の集団が一般の鉄道を使って浦賀〜品川〜上野〜(夜行列車)〜妙高高原へ(^_^) |
池の平スキー場 一週間、他の一般スキーヤーはほとんどおりませんでした |
訓練班海上10班の面々 |
この旅館は今ではもう無いようですね | 多少の悪天候は訓練予定に変更なし |
このスキーですから (^_^; | 1列に並んでのクロス・カントリー |
こんな晩も(部屋も) | こんな晩も(部屋も) |
スキー訓練から帰ってくると、いよいよ最上級生の4学年の追い出しにかかります。 次は晴れて俺たちの番だ、と。
しかし、この時期になりますと、来る5月の全日本に備えて短艇委員会の部活も忙しくなり、ほとんどの平日は起床時刻前に起きての早朝練習が続きます。 しかも、次はいよいよ防大主催で、しかも6連覇がかかっていますので、その力の入れようはかなりのものでした。
これもあって、強化練習のために卒業式での観閲式に備えてのパレード訓練には参加できませんので、パレード免除、通称「パレ免」の許可を得ます。 これによって、卒業式典そのものには参加しますが、その後卒業生が陸海空それぞれの幹部候補生の服装に着替えての観閲式には出ませんで、学生舎待機という「見学」の位置となります。
卒業式での在校生による観閲式1 | 同左2 (観閲台の奥に並ぶのが16期卒業生) |
選抜クルー艇と残りのメンバーによる対抗艇の2隻により、平日の朝・夕、そして土曜の午後と日曜日・祭日は橈漕、橈漕で明け暮れる毎日です。
5月の全日本が終わると早々に4学年の16期は引退しており、3学年の17期が活動の実権を握っておりますが(「政権をとる」と言っています)、私は2学年の時に腰を痛めた関係もあってマネジャーをやりました。
が、マネジャーといっても暇なわけではなく、対抗艇のメンバーが不足する時には漕ぎましたし、それ以外の練習中はポンドでオールの曲がりを直したり、オールの櫂座に当たる部分にタール索で巻いてある「きせ巻き」が少しでも傷んでおれば巻き直す、など結構仕事が沢山あります。
それに、この強化練習の期間は、夕食時はポンド近くのお店に頼んでおいた通称「草」と呼ぶキャベツの千切りとコロッケを抱えて上がり、朝食時は売店に頼んでおいた牛乳を運んできて、メンバーが着替えてきた時に食堂入口で配ります。
もちろん、早朝練習では毎朝暗い内に各大隊学生舎を回ってメンバーを一人一人起こさなければなりません(雨の朝は「残念がら雨ですよ〜」と言って(^_^) )。
で、16期生の卒業式、続く学年末試験が終わり、春期休暇も全日本の練習で明け暮れている内に、いよいよ最上級生の4学年になりました。
最終更新 : 05/Apr/2020