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「打方」 について |
「打方」 とは |
「斉射」 (Salvo) とは |
日露戦争期以前の 「打方」 |
『別宮暖朗本』 の検証 |
『別宮暖朗本』 の検証 (続) |
日露戦争期の砲術について、これまででハードウェアの話しの主要なところはほぼ終わりました。 ご来訪の皆さんには、もうこの段階で既に 『別宮暖朗本』 の記述が実に如何にいい加減なデタラメであるかはご理解いただけたと思います。
さていよいよこれから少しずつ肝心なソフトウェア (射撃指揮) の話しに入っていきたいと思います。 (砲熕武器と艦艇の発達史については、機会があればまた別に説明することにします。)
まず最初は 「打方」 についてです。
ここで言います 「打方」 とは、既に 『連装砲の発射法』 で説明しました各砲塔砲や各砲廓砲などにおけるそれぞれでの発射の仕方、極く簡単に言えば “各砲における引金の引き方” の事ではなく、射撃指揮として個艦の主砲全体、あるいは副砲全体などにおける 「射法」 としてのものです。
つまり、 「打方」 とは “発射する砲の管制の仕方” を表す専門用語 です。 (一般的に言うところの 「打ち方」 という表記とは区別していることにご注意ください。)
この 「打方」 には色々な方法、名称のものがありますが、旧海軍において用いられ今日においても通じる基本的なものには、『一斉打方』 『交互打方』 『指命打方』 『独立打方』 の4種類があります。
旧海軍におけるこれらの正式な定義については、本家サイトの 『艦砲射撃用語集』 中 の 『射撃指揮』 の欄でご説明しておりますので、ご参照下さい。 もちろん、この4種類については、説明の必要の無いほど既に皆さんもよく耳にされていることと思います。
念のため、改めてこの旧海軍の定義とそして海上自衛隊における定義とをご紹介しますと、次のとおりです。
一斉打方 | 旧海軍 | 一指揮系統に属する砲 (連装砲) を一斉に発射せしむること |
海 自 | 全砲を一斉に発射すること |
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交互打方 | 旧海軍 | 一指揮系統に属する連装砲を、二連装砲に在りては左右交互に、三連装砲に在りては右中左交互に又は左右砲中砲を交互に発射せしむること |
海 自 | 全砲を二分して各群ごとに交互に発射すること |
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指命打方 | 旧海軍 | 一門又は数門の砲 (砲塔) を指定し、毎回若干門宛発射発令時に発射せしむること |
海 自 | 特定の砲をその都度指命して発射すること |
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独立打方 | 旧海軍 | 一指揮系統に属する砲 (砲塔) を各砲単独に発射せしむること |
海 自 | 各砲独立して発射時期を選定発射すること |
海自の定義はここに抜萃したものが 「全砲」 「各砲」 となっていますが、勿論これが 「一指揮系統に属する」 であることは言わずもがなです。
しかし注意していただきたいのは、この4種類については昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の全面改訂時に併せて始めて正式に定義 され、それが太平洋戦争まで続き、更には戦後の海上自衛隊にも 継承されたもの、と言うことです。
このことを忘れて、明治期の射撃について述べる時に気軽に昭和12年以降の定義でもって 「一斉打方」 などと言ってしまうとおかしな事になります。
まずこの4種類の基本の打方を頭に置いていただいてから、明治期の話しに入ることにします。
まず最初に肝心な用語の話しを一つしておかなければなりません。 それは他でもありません 斉射 (Salvo) という言葉です。 実は旧海軍においては、この 「斉射」 と言う言葉は、 特定の 「打方」 として定義されたものでもなければ、具体的な砲塔・砲の 「発射」 の方法を意味するものでもありません。 つまり 専門用語ではなくて、単なる “一般用語” に過ぎません。
例えば、英語の辞書を引くなり、ネットで検索するなりしてみてください。 大体次のような解説が出てくるでしょう。
“A salvo is the simultaneous discharge of artillery or firearms including the firing of guns either to hit a target or to perform a salute.”
“The term is commonly used to describe the firing of broadsides by warships, especially battleships. ”
そうです、これが 「斉射」 (Salvo) という言葉の意味です。 専門用語でもなければ、特定の 「打方」 を示したものでも、何でもありません。
つまり、前回説明した 「一斉打方」 であろうと 「交互打方」 であろうと、あるいは 「指命打方」 であろうと、発砲の管制の仕方はともかく “2門以上の複数砲を同時又はほとんど同時に発射” するならば、その各回の発射のことを 「斉射」 と言います。
したがって旧海軍においては、この用語についての正式な定義はありません。 別に定義しなくても、普通に上記の意味で使いますので、分かり切ったことだからです。 それにこの 「斉射」 という言葉だけ では “どの砲を、何時、どの様に” 発射するのかの具体的な中身は何も無いからです。
当然のことながら、『別宮暖朗本』 の著者が得意気に言う 斉射法 (Salvo Firing)、 完全な斉射法 等という言葉などは旧海軍にはありません。 この著者の全くの造語 です。 しかも、それがどの様なことを示すのかの何等の定義も、説明もない意味不明な。
あるいは、かつて月刊誌 『軍事研究』 上で、かの遠藤昭氏が皆さんよくご存じプロの技術者である多田智彦氏に向かっての、
雑と読んでみると 「一斉撃ち方」 を示す専門用語の 「SALVO」 が一度も出てこないし、その上、著者 (多田氏のこと) は 「一斉撃ち方」 と 「一舷撃ち方」 の区別も理解していないようなのでこのような素人さんの書いたものに反論しても大人気ないと考えた。 |
(注) : 青字 ( ) 内は管理人が追加
などは全くの笑止以外の何ものでもありません。
もちろん、旧海軍は 「一斉打方」 (昭和12年以前は 「斉発打方」 ) という用語に英語で 「Salvo」 という単語を当てはめたことは全くありません。 旧海軍は英海軍に習って “Simultaneous Firing” です。
もし 「斉射」 (Salvo) が何かの特定な打ち方を意味する “専門用語” であるとするならば、それがどの様な打ち方なのかをそれぞれの海軍で具体的にキチンと定義していなければなりません。
明治の日露戦争期に、どこの海軍の何という文書でそれが定義してあるのでしょうか? それを専門用語だと言うならば、その根拠を明示する必要があります。
ところで、海上自衛隊では昭和33年に始めて 『艦砲射撃教範』 を定めた時に、この 「斉射」 という用語を次のように定義しました。
同一目標に対して同一砲種によって同時に (またはほとんど同時に) 発射することを言う
何故、海上自衛隊が旧海軍でも定義していなかった 「斉射」 という用語を戦後になって改めて定義したのでしょうか?
理由は簡単です。 海自がその創設時に範とした米海軍が 「Salvo」 という言葉を “専門用語” として定義していたから、というだけの話です。 即ち、米海軍では現代でもその公式用語集において次のように定義しています。
ただし、米海軍自身がこの 「Salvo」 という用語を定義したのは、それ程古い話ではありません。 おそらく1930年代、古くても1920年代末頃からと考えられます。
“考えられます” というのは、それより古い時代の米海軍の文書には出てこないからです。 少なくとも1927年の訓練マニュアルでは、上記の一般的な意味での 「Salvo」 として出てくる以外には、キチンとした定義はありません。
念のために再度申し上げますが、これは米海軍と、それに倣った戦後の海自がそれぞれで “その様に公式に定義した” ということです。
『別宮暖朗本』 の著者は、おそらく最近になって一般に出回っているこの戦後の米海軍図書にあった記述をどこかで見て、古今東西の海軍の専門用語として存在したと “勝手に想像した” のかもしれませんが ・・・・ ?
旧海軍において 「打方」 というものがキチンと整理されたのは明治30年代に入ってからのことです。
明治35年の時点において、「打方」 には次の4種類が定義されていました。
逐次射撃 (Fire in Succession)
独立射撃 (Fire at Will, or Independent Firing)
一斉射撃 (Simultaneous Firing)
一舷射撃 (Broadside Firing)
この時期にはまだ 「〇〇打方」 と 「〇〇射撃」 という両方の言い方が使われています。 例えば明治32年の 「砲術教科書」 では 「〇〇打方」 です。 これは後の時代のように 「射法」 というものが確立していなかったことによります。
「逐次射撃」 とは、指示された砲、例えば一舷の砲全部が指示された目標に対して逐次順番に発射していく方法です。 通常は先に撃つ砲の砲煙が邪魔にならないように風下のものから発射します。
この逐次射撃では、順次発砲していく間隔は 「並射撃」 においては約10秒、「急射撃」 においては約5秒が標準とされていました。
「独立射撃」 とは、その名のとおり各砲が他の砲の発射を考慮することなく、その砲の射手が各自の最も良いと判断する瞬間、間隔で発砲する方法です。
この独立射撃では、「並射撃」 が令されている時は射手が疲労を感じない程度で努めて射撃を継続できる発射間隔で、また 「急射撃」 の時は “命中を害しない程度において極度に発射を連続して行う” ものとされていました。
「一斉射撃」 とは、当時は砲塔砲にのみ用いられるもので、連装砲にあっては左右砲同時に発射する方法です。 これはこの後になって 「斉発」 という用語が使われることになったことは先にお話ししたとおりです。
そして、この一斉射撃は、 「連装砲塔の発射法」 でお話ししましたように、特別のことが無い限り安易に行う方法では無いことが規定されていました。 その理由として、特に砲塔動力としての水圧の問題で、これを行うと極端に装填・発射間隔が遅くなることが指摘されています。 それでなくても、12インチ砲塔の装填秒時が最少でも2分と言われていた時代ですから。
「一舷射撃」 とは、旧海軍の定義では次のとおりとされています。
基砲を選定し之に準じて一舷の各砲に所要の射距離と旋回度を付与し之を同時に発射して敵艦に集弾するの方法にして、即ち一舷側各砲の一斉射撃なりとす
例えば、次のようにします。
そして明治35年の段階では、次のようにされています。
此射法は艦速砲火の威力共に大ならざる十数年以前に行われしも方今之を行うことなし
日清戦争における黄海海戦の戦訓を待つまでもなく、各砲の射手による砲側照準の時代ですから、速射砲の長所を活かし短時間に最大の命中弾を得るためには、独立打方にならざるを得なかったことは当然の成り行きでしょう。
では、以上の4種類の 「打方」 が旧海軍独自のものであったのかというと、そうではありません。 1880年 (明治13年) に英海軍が出した砲術書 『Manual of Gunnery for Her Majesty's Fleet』 においても、 これらについて記述されています。
つまりこの時代、旧海軍は造船・造砲などの技術だけではなく、砲術についても英国に範をとり、それに倣っていたことが判ります。
それでは、例によって 『別宮暖朗本』 の記述を見てみましょう。
斉射 (Salvo Firing) は、複数の砲台・砲塔が同一目標に向けて、同じタイミングで射撃することである。 詳細は後述するが、船体動揺 (ローリング、ピッチング) の影響を受けないように、 直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない) の舷側射撃 (Broadside Firing) とは異なる。 司馬遼太郎は両者を混同している。 (p29) (p370) |
斉射 (Salvo Firing) と舷側射撃 (Broadside Firing) は異なる。 舷側射撃とは船体動揺を計算に入れたうえ、片舷側の砲を一斉に発射する方法で、18世紀からあった。 (p62) (p66) |
「一舷射撃」 という用語さえ知らないのか、という突っ込みはともかく ・・・・ 上で説明しましたように、「一舷射撃」 (Broadside Firing) はこの著者が言うものとは全く違うことはお判りでしょう。 しかも、一舷射撃という 「打方」 も、発砲の “状態” においては 「斉射」 であることさえこの著者には理解できていないわけで。
ましてや 「目標を指定しない」 など、何を寝ぼけたことを、です。 海戦において “目標を照準しない” 「打方」 など、あるわけがありません。 敵艦に礼砲でも撃つつもりなのでしょうか、この著者は?
司馬遼太郎氏が混同しているのではなく、この著者が “知らない、判らない、調べていない” だけのことです。 全く以てお粗末の一言。
しかも、「直立のタイミングを教えるだけ」 って、如何にこの著者が艦砲射撃どころか “船” というものさえ全く知らないことがこの一言で明らかです。
小学生でも判ることですが、横動揺 (ローリング) によってこの著者のいう直立、即ち艦が水平になる瞬間というのは、船体の動きが最も激しい時、つまり角速度 (モーメント) が最大の時です。 (もちろん、動揺というのは常に サイン・カーブを描くような単純・一律のものでないことは言うまでもありませんが。)
その様な時に満足な照準発射が出来るわけがありません。 それが出来るのは船体の動きが止まる瞬間であって、つまり動揺周期の両端、即ち甲板の傾きが上がりきった時、またはその反対の下がりきった時です。
だからこそ、明治37年12月の 『連合艦隊艦砲射撃教範』 においても、
目標其移動の終点に近づき移動速度の著しく減じたる時期に発射する如く照準するを要す 通例目標上動して其極度に達し将に下向せんとする時を最も好時期とす
と規定しているのは、当たり前のことなのです。
しかもこの著者、自分に知識があることを示したいのか、改訂版でわざわざ文章に手を入れて付け足し、
船体動揺 (横揺れ (ローリング) と縦揺れ (ピッチング) の二通りがある) を計算に入れた上で (p66) |
( 太字 表示は管理人による)
としていますが、ローリングとピッチングの揺れ方の違いを理解していないことも自ら暴露しています。 この著者、客船であれフェリーであれ、船というものにまともに乗ったことさえ無いことは明らかです。 まさに 蛇足 という言葉のこれ程典型的な例はないでしょう。
通常、戦艦などの巨艦のローリング周期は16秒前後であり、船体が海面に直立するチャンスは8秒に1回生じるわけである。 戦艦に電気機器が導入されていなかった頃は、砲術長がドラをたたいて、引金を引く砲手に発射タイミングを教えた。 (p62) (p67) |
動揺周期の話しはさておくとして ・・・・ 「ドラをたたいて」 って、一体何時の時代のどこの海軍のことを言っているのでしょう? 帆船時代であっても 「ドラ」 などで発砲管制をした海軍はありません。
楽器の中に音程差をつけたドラ (銅鑼) がありますが、これの名称を 「Gong」 といいます。 まさかこの著者、これで 「電鈴」 (ゴング) のことと 「銅鑼」 (ドラ) のことを勘違いしているのではないで しょうね。 いや、この著者のことですから案外そうかも知れませんが。
(電鈴の 「鈴」 は、正しくは 「金」 偏に 「侖」 の字ですが、常用フォントにありませんので代用しています。 以下総て同じ。)
皆さんは 「ブザー (buzzer)」 と 「ゴング (gong)」 の違いはお判りになりますよね? 日清戦争当時も、そして日露戦争期でもまだブザーはなく、ゴングしかありませんでした。
( ヴィッカース社による 「筑波」 の射撃指揮要具の仕様書から )
ですから、この著者が言う
発射のタイミングについていえば、帝国海軍の艦艇には砲手のそばにはブザーがあり、二回ブッブーと鳴ると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃て!」 を意味した。 (p66) (p70) |
は近代射法が確立した大正期以降の話しです。 しかも、そのブザーの信号法は、
です。 たったこんな事さえ調べていないのかと。 情けなくなります。
舷側射撃も近距離となれば、照準にあったところで発射すればよいのだから、19世紀後半になると、むしろ古くさい方法とされた。 (p62) (p67) |
「照準にあったところで」 と言っていますが、では “誰が” “何処で” “どの様” に照準するのでしょうか? 先に引用したとおり、自分で 「直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない)」 (p29) (p370) と言っているにもかかわらず、です。
何らの確たる根拠に基づかず、その時その時で好き勝手に書いているので、自己の矛盾に何も気付いていないことがよく判ります。
しかも、「一舷打方」 が用いられなくなったのは、先にもお話ししましたように 「速射砲」 の導入によって、その発射速度発揮のために 「独立打方」 が主用されるようになったからです。 近距離云々、など何の関係ありません。
「近距離になれば」 って、まさかこの著者、19世紀前半以前は遠距離射撃であった、などというのではないでしょうね ・・・・ ? “とされた” などと言い切っているにも関わらず、何を言いたいのか 全く判らない文章です。
斉射とはグループ (左舷6インチ、12インチ主砲などに区分して) ごとの全砲門を、同一のタイミングで、同一の目標に対し、射撃することである。 (p62) (p67) |
斉射法の特徴とは、サルボ (4門以上の砲を同一タイミングで同一目標に射撃すること) を試射から実行し、距離測定や敵艦速度・方向測定を、その弾着観測とともに、より正確にしていく ところにある。 (p69) (p73) |
「斉射」 が “グループごとの全砲門” でもなく、“4門以上の砲” でもないことは既にお話ししたとおりです。 そしてこの著者には 「斉射」 という言葉と、「打方」 や 「射法」 という用語との違いが全く判っていないことも明らかです。
「斉射」 とは単に砲の発射の “状態” のことを言うのであって、発射の管制の仕方を定義した 「打方」 でもなければ、射弾修正の方法などの 「射法」 のことでもありません。
もちろん旧海軍には 「斉射法」 などという用語もなければ、その様な射法もありません。
日清戦争のときの射撃法は 「独立打ち方」 (Independent Firing) と呼ばれた。 旋回手や俯仰手が指定された目標に対し、自分の砲弾が命中した、またははずしたのかを確かめ、 次弾の狙いをつけた。 距離が3000メートル以内のため、砲手は自分の発射した弾丸を自分の目で追うことができた。 (p64) (p68) |
先に説明したとおり、日清戦争当時には 「独立打方」 しかなかったわけではありませんし、また 「独立打方」 が日清戦争当時でしか用いられなかったわけではありません。
当たり前のことですが、「独立打方」 を 「Independent Firing」 と呼んだかどうかはともかくとして、そのやり方は大砲が帆船に装備された時代からあり、日露戦争期にも、第2次大戦期にもあり、 そしてもちろん現在でもあります。 (現在の対空射撃は、特別のことがない限り総て 「独立打方、独立発射」 です。)
そして、発射した弾が見えるのか見えないのか、ですが、少なくとも5インチ砲以上なら、条件が良ければ後方から “瞬間的に” 見えるチャンスはあります。 特に真後ろ付近から双眼鏡で見ていれば。 これは私自身が自分の目で確認していますので、間違いありません。
ただし、この明治期において、特にまだ黒色火薬が主流だった日清戦争当時、自砲発砲の砲煙と衝撃とで、射距離3000以内、即ち飛行秒時6〜7秒以内では、射手 が飛行中の自砲の弾を “目で追う” ことなど絶対にできません。
しかも、照準を続けている射手の目の焦点は照準点たる目標にあるのであって、飛行中の弾ではありません。 それに発射した弾の弾道は照準線上にはありません。 そんなことは初歩の初歩です。 まさに 「講釈師、見てきたような ・・・・」 ですね。
この 「打方」 に関しては、まだ大物が残っています。
次の記述は日清戦争についてのところでこの著者が引用しているもので、黄海海戦時に観戦武官として清国海軍の 「鎮遠」 に乗艦していた米海軍少佐マクギフィンが雑誌 『Century』 に投稿した記事からの抜萃です。 (実際はどうもお傭い艦長だったようで、 艦長楊用林に代わり同艦を指揮していたと自分で言っています。)
日本のある艦は、統一指揮による舷側射撃 (Broadside Firing by Director) を実行した。 これは、舷側の全門を同一の目標に対し、一つのキーを押すことにより同時に発射することである。 (p53) (p54) |
この 『別宮暖朗本』 の著者は、原文の 「Broadside Firing by Director」 を 「統一指揮による舷側射撃」 と訳していますが、これってどういう意味でしょう? そしてこの 「一つのキー」 とは何のことでしょう?
自分で 「砲術長がドラをたたいて、引金を引く砲手に発射タイミングを教えた」 (p62) (p67) 、そして 「直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない) 」 (p29) (p370) が 「舷側射撃」 だと言っているのに?
こういう他の記述と矛盾すること、自分には理解も説明もできないこと、などは全て華麗にスルーで、さも判っているかのようなふりをして滔々と書いていますね。
当該マクギフィンの記事は、チャンと旧海軍自身が翻訳して公刊戦史である 『二十七八年海戦史』 に収録されています。 この著者はこんな基本的な史料さえ確認もしていなければ、読んでもいないのでしょうか?
当該事項については旧海軍にとっては自分自身のことですから、当然ながら正しい用語でキチンと訳しています。 次のとおりです。
又敵の一艦は一時 「方位盤一舷打方」 を行えり。 是れ目的物に向かって一舷側の全砲を照準し、一条の電路をして各砲台を連絡し、咄嗟電鈴を押して幾多の砲弾を一斉に放つの法なり。
( 海軍軍令部編 『二十七八年海戦史』 別巻 p580−581 )
そうです、「Broadside Firing by Director」 というのは 「方位盤 一舷打方」 と言います。 皆さんはこの 「方位盤一舷打方」 というのはどういうものかお判りになるでしょうか?
実は 「一舷打方」 には 「基準砲一舷打方」 と 「方位盤一舷打方」 の2種類があります。 正しくは、後者は前者の変形 (改良) 方式と言った方が良いかもしれません。
前者は先に定義したいわゆる 「一舷打方」 そのもののことで、基準砲 (基砲) で目標を照準するのに対して、後者は “当時の” 方位盤 (Director) を使い、これで照準を行うものですが、どちらにしても 基本的な射撃のやり方は同じです。
一舷打方に方位盤を使用することは、明治19年に旧海軍が艦砲射撃訓練について定めた最初のものである 『常備艦隊艦砲射撃概則』 中の 「戦闘射撃」 の項でも、次のように規定されています。
第16条 発射法は一般に独立打方を行うべし 但し一舷打方を行う艦に在りては各舷より一回該打方を行うべし 而して 方位盤 及び電気発砲機 (注 : 「電鈴」 のこと) を備えたる艦に於いては必ずこれを用うべし
では、この当時の方位盤とはどの様なものだったのでしょうか。 残念ながら、その外観を示す図や写真などはありません。 しかし、これについては明治23年の 「砲術教科書」 の中で
方位盤は全体金属を以て造り其の重なる部を弧盤、望遠鏡及び其の台とす 弧盤は三脚を有する半円形の框盤 (フレーム) にして ・・・・ (後略)
としてその構造と操作法、これを用いた射撃法について詳細に記しています。 この方位盤については、先にご紹介した1880年の英海軍砲術書 『Manual of Gunnery for Her Majesty's Fleet』 の中でも 説明されています。 (というより、どうも明治23年の 「砲術教科書」 のこの部分はこの英海軍のものをネタ本にしているようです。)
これらによってどのようなものであるのかは充分想像はつきますし、当時の砲術を知るにはこれで充分です。 ただし、これを使用した射撃の方法などは長くなりますので、機会があればまた別に説明することにしたいと思います。
それにしても、このマクギフィンの投稿記事は、彼自身がその冒頭で、
日清両艦隊の戦闘始末を叙せんとするに臨み、敢えて兵家専門的の著述を期せず。 ・・・・(中略)・・・・ 事情右の如くなりしかば、予は本編を艸するに間々伝聞に由らざるを得ず。
( 海軍軍令部編 『二十七八年海戦史』 別巻 p561−562 )
と書いているにも関わらず、この 『別宮暖朗本』 の著者は (この冒頭を無視して) まるでこれが黄海海戦の全貌であり真実かのように取り扱っています。 4頁にもわたって、この雑誌投稿記事の抜萃訳 (全訳ではありません一部のみです) を延々と。 しかも、その内容に対する何等の検証・分析評価もなく。
例えば、そのマクギフィンが言う
日本側の公表には偽りがある、日本人は損害を隠すために、船体には鉄板を張り、上部にはキャンパス布を張り、その上にペンキを塗った。 そして賢くも外人の目から損害を隠したのだ。 (p55) (p57) |
このような文をそのまま引用して、だからどうだと言いたいのでしょう。 旧海軍艦艇の被害などは現在では公開されている史料に基づけばいくらでも検証できるにも関わらず、それさえせずに。
『別宮暖朗本』 の著者が引用を明らかにしているのはこの様な記事や小説ばかりで、その他には根拠とするに足る史料名などは全く出てきません。 その上で、滔々とこれが史実だ、事実だと主張する。 お粗末と言えば、余りにもお粗末。 これでどこが 『坂の上の雲では分からない 云々』 などと言えるのか。
なお、『二十七八年海戦史 別巻』 をお持ちでない方は、国立公文書館 「近代ディジタル・ライブラリー」 の次のURLで公開されていますのでご覧ください。 マクギフィンの投稿記事の邦訳文はこれの一番最後に掲載されています。 この 『別宮暖朗本』 では省略されてしまっていることも含めて。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773856
これを要するに、艦砲の 「打方」 と言うたった一つのことについてでさえ、これまた 『別宮暖朗本』 の著者が全く “知らない、判らない、調べていない” を棚に上げてのウソと誤り、というより総てデタラメに過ぎないことが明らかでしょう。
最終更新 : 02/Jul/2011