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「機雷」 一般 (中編)



 浮流機雷とハーグ条約


日露戦争当時の繋維機雷一般についての続きです。


 日露戦争後3年たっても渤海湾や黄海における民間船舶の触雷事故はあとをたたなかった。 (p182) (p189)



何を言いたいのか不明です。 単に、繋維索が切れて浮流機雷になると危険なもの、と判ったふりをしたいだけにしか見えません。

前回お話ししましたように、旧海軍はこの日露戦争直前に “大規模” な 「繋維機雷」 の取扱・敷設が可能な状況となり、そして実際にその実戦使用に踏み切りました。 そのために繋維索が切断して 浮流機雷 となるものも増えました。 当然のことです。

ロシア側はほとんど史料がありませんので、実態についてはよく判りませんが、戦中及び戦後に極めて多数の浮流機雷が発生した事実からも、同じように大規模な使用を行ったとは間違いありません。 また、始めから 浮遊機雷 としてワザと流したものも相当あるものと考えられます。

そして更に当然のこととして、両国海軍ともに当時の繋維機雷にはその繋維索が切れて浮流機雷となったときの安全措置は講じられていませんでした。

だからこそ、そのことが原因となって、日露戦争後の明治40年 (1907年) にハーグで開かれた国際平和会議第8回総会において 『 自動触発水雷ノ敷設ニ関スル条約 』 というものが出来たのです。 その第1条は次のとおりです。


第一条 左ノ件ハ之ヲ禁ズ
一 投入者ノ監制ヲ離レテヨリ一時間ノ最大限内ニ於テ無効トナルガ如ク製作セラレアラザル無繋維触発水雷ヲ敷設スルコト
二 繋維ヲ離レタルトキ無効トナラザル繋維触発自働水雷ヲ敷設スルコト
三 不命中ノ時無効トナラザル魚形水雷ヲ使用スルコト


浮流機雷となった自軍敷設の繋維機雷による味方艦艇の不用意な触雷被害を防止するためと、この条約の規定を受けたことにより、日露戦争後に旧海軍では早速この機能を有する 「四号機雷」 を開発し、同時に大量に保有する 「二号機雷」 を改造してこの機能を付加した 「三号機雷」 としたのです。

このことを言わなければ、何の意味もありません。

( 因みに、先にご説明した浮遊機雷の一種たる 「連繋機雷」 は、友軍に対する被害防止のために、明治37年の考案当初からこの機能を持っていることはご承知のとおりです。)




 繋維機雷の敷設法


 (機械水雷は) 海底に重しをおき、そこからワイヤーを上に伸ばし、機雷本体につなげてある。 水面下に敷設するのが普通であるため、事前に水深をチェックし、ワイヤー長を調節しておく。 (p182−183) (p190)

(注) : ( ) は管理人の付記

敷設にあたっては、エレベーターで上甲板まで上げ、そこで一定時間後に作働するよう遅延スイッチを押し、レールで海中に投下する。 小田は、海中投下後ワイヤーが自動的に伸びるよう 「小田式自動繋維器」 をまず発明した。 (p183) (p190)



水面下に敷設しない繋維機雷などあるのか? とか、「重し」 「遅延スイッチ」 「エレベーター」 ? などというツッコミはさておき、

皆さんは、上記のこの著者の説明で小田喜代蔵が考案したこの 「自働繋維器」 がどの様なものなのか、お判りになりますか?

事前に水深に合わせて調整したワイヤーを自動的に伸ばすだけ?  その様なことは 「繋維機雷」 なら当たり前のことです。 おそらくこの著者自身もその実態を知らないのでしょう。

では 「自働繋維器」 の何が “自働” なのか?

この自動繋維器が考案されるまでは、確かにこの著者の言うように事前に敷設地点 (箇所) を決めて、その水深に合わせて繋維索の長さを、機雷一つ一つごとに正確に調整しておく必要がありました。 A点に敷設する1番機雷は何 m、B点の2番機雷は何 m ・・・・ という具合にです。

( ここで言う 「水深」 とは、単に海図に示されたものではなく、その場所の海流や潮汐などを考慮して、機雷缶が正確に計画深度になるような繋維索の長さを決定するための水深という意味です。)

このため、敷設時には計画した位置一つ一つに、その水深に事前設定した機雷を正確に敷設しなければならないなど、大変な手間暇を要しました。 先の例では、1番機雷は正確にA点に、2番機雷は正確にB点に、という具合にです。

当たり前のことですが、水深や海底地形、海流、潮汐などが正確に分からない海面には使用できません。 いえ、使用できない、と言うよりは、敷設しても機雷缶の深度が不明・不正確となるので有効性が期待できず無駄になる、と言う意味です。

したがって、当然ながら繋維機雷を敷設するのは、それらが詳しく判っている自分の港湾などの防御用にしか使えなかったわけで、水深や海底地形などの不明な敵前海面などに “有効に” 敷設することは不可能でした。 だからこそ、当初は 「防禦水雷」 という呼称の範疇に分類されていたのです。

そこで、繋維索の全長以内の水深のところであるならば、事前にその敷設地点の正確な水深や海底地形が判らなくても (=無関係に)、敷設する機雷の総てについて、その機雷缶が予め設定した深度 (例えば水面下4 mならその4 m) に一律になるように、その時その時、その地点その地点での水深に応じて、投入後の繋維器自体で個々の “繋維索の長さを自動的に設定” する装置が考案されました。 これが 「自動繋維器」 です。

当然の流れと言えば当然です。 既知の自分の港湾などに敷設するのでさえ手間暇がかかって、面倒くさいのですから。

したがって、考案の当初から攻撃用を念頭に置いてのもの、というわけではではありません。

小田喜代蔵海軍大尉 (当時) が 「自働繋維器」 を考案し、これが兵器採用されたのは明治31年 のことですから、これはその時機を考えてみただけでも明らかです。 繋維器はできても、機雷そのものにまだ大規模使用に耐えるものがありませんでしたし、その要求も大きく無かったのですから。

そのための機雷、即ち前回お話しした 「二号機雷」 が出来たのは明治36年 になってからのことです。 それも、日露開戦が目の前に迫ったために急遽、です。






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 最終更新 : 06/Jan/2012