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2-4-8.ナポリ |
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昭和49年9月6日(金) 朝9時 ギリシャのピレウスを出港して、次はイタリアのナポリに向かいます。
エーゲ海から地中海に入り、途中の7日(土)夕刻、マルタの北東遥か洋上(135マイル)で、第1次大戦における日本海軍第二特務艦隊の英霊に対して洋上慰霊祭を行い、北上して同7日深夜にメッシナ海峡を通峡しました。
マルタに眠る第二特務艦隊の英霊を祭るお墓については、私のブログの次のところでご紹介しておりますので、まだ訪問されたことのない方々はこれを是非ご参照ください。
「マルタあれこれ(21)日本海軍第二特務艦隊の合祀墓」 : http://navgunschl.sblo.jp/article/33575069.html
そして、8日(日) 午後14時にナポリ港港外に仮泊しました。 港外とは言っても、港の防波堤のすぐ外側なんですが。
そして実習幹部に対しては早速午後15〜16時に在イタリア一等書記官によるイタリア事情の講話が「かとり」実習員講堂で行われました。
9月9日(月) 午前7時半仮泊地を抜錨し、礼装に着替えて登舷礼により陸上と礼砲を交換しつつ、午前9時にナポリ港の市営桟橋に艫付け入港しました。 これは岸壁の制約からですが、海上自衛隊としては珍しく艫付けとなったものでした。
ナポリでは、入港日の9日(月)に入港諸行事のあと早速借上げバスに分乗してのイタリア空軍士官学校と第9航空団の研修。
2日目の10日(火)は借上げバスに分乗しての一日ローマ方面研修。
3日目の11日(水)は、午前借上げバスに便乗してのポンペイ史跡研修、午後はイタリア空軍士官学校生徒を招いての艦上レセプション。
4日目の12日(木)は珍しく実習幹部は一日自由上陸日。 私は前日の艦上レセプションで知り合った空軍士官学校生徒の私有車でベスビオ火山やナポリ市内見学でした。
最終日の5日目13日(金)の午前は、元々は計画に無かったNATO南欧軍司令部研修と米第6艦隊のブリーフィングがありました。
ナポリに入港した日の9日(月)、借上げバス4台に分乗してイタリア空軍士官学校とイタリア空軍第9航空団(9th Air Wing)の研修でした。
イタリア空軍士官学校は、ナポリの西南西約10kmの海岸に近い ポッツオーリ Pozzuoli という丘の上にあります。 建物は当時の我が防衛大学校と比べても近代的で立派なものでしたが、まあ所詮中身は士官学校ですので ・・・・
因みに、イタリア空軍士官学校は1923年創設と言う古い伝統のあるところですが、創設当初は北東約33kmのカゼルタ Caserta のカゼルタ宮殿に置かれていましたが、1945年から1962年までは南東約3kmにある ニシダ Nishida という島に移転し、その後は今に至る現在地に置かれています。
続iいてイタリア空軍第9航空団の研修ですが、当該航空団はナポリの北西約28km、宮殿のあるガゼルタ市街の西約20kmの平原の中にあるグラッツァニーゼ航空基地と言うイタリア空軍の中堅飛行場に置かれており、当時は F-104 が並んでいました。 まあ普通の空軍の航空基地ですので、それほど目新しいものも興味のあるものもありませんで “ふ〜ん、こんなものだよね” 程度の感想しかありませんでした。
ただ、庁舎などの施設も見学しましたが、その中のカマボコ兵舎では中半分が鉄格子で仕切られており、若い兵士達が向こう側からこちらに向かってふざけ合っていました。 案内の空軍士官に “ここは何?” と聞きましたら留置場だということでした。 普通、こんな所を外国の海軍士官に見せるかな〜、と (^_^)
因みに、イタリア空軍の第9航空団(9th Air Wing)は第2次大戦後は戦闘機を主体とするところでしたが、当該航空基地には現在では戦闘機の部隊はなく、ヘリコプターや輸送機を主体とするところとなっているようです。 なお、第9航空団では2004年まで最後の F-104S の飛行隊が置かれていたとされています。
ナポリ寄港最終日の13日(金)の午前中は元々の計画に無かったNATO南欧軍司令部の研修で、ここでNATO南欧方面軍と米第6艦隊についてのブリーフィングも行われましたが、この研修とブリーフィングは私にとっては大変興味深いものがありました。
当時の司令部はナポリの西約10lm,、前述の空軍士官学校の手前のバニョーリ Bagnoli というところにあり、借上げバス4台に分乗して出掛けましたが、司令部とはいえなかなか整った立派な基地施設でした。
因みに、NATO南欧軍司令部は、現在ではナポリの北西約20lmのラーゴというところの大変大きな専用基地に置かれており、NATOの組織改編によりこの南部欧州連合軍(AFSOUTH)を母体としたNATO南欧統連合軍となり、その司令部としてナポリ統連合軍司令部(Allied Joint Force Command, Naples)となっています。
なお、ご存じのとおり、この南部欧州連合軍司令官、そしてその後継たるナポリ統連合軍司令官は、歴代米海軍の在欧州海軍部隊司令官が就いています。
このNATO南欧軍司令部研修での時、帰りのバスの出発時間まで基地の売店に寄ることができましたので、そこで見つけたカメオの大きなブローチを3つ買いました。 安くて(ドルが使えました)なかなか見栄えも良く、私的には気に入っていたのですが ・・・・ 帰国後に実家に置いている間に召し上げられたりで全て無くなってしまいまして、結局今の家内には渡りませんでした (^_^;
入港翌日の10日(火)は借上げバス4台に分乗して一日ローマ方面研修ですが、高速道路を使ってもナポリ〜ローマ間は所要時間片道約2時間かかりますので、朝8時に艦を出て、帰りのローマを出発したのは夕方16時頃で艦に戻ったのは午後18時頃ですから、ローマでは実質6時間ほどということに。 ただし、公式記録では艦に戻ったのは夜23時ということになっていますが、それではちょっと辻褄が ・・・・ まあ、公式文書と言うのはあくまでも“表向き”のものですので (^_^;
しかも例によって添乗や現地でのガイドさんはおりませんで、著名ないくつかのところでバスを降りて短時間の自由見学、あとはバスの中から素通りしただけですので、まあ私達の歴史知識レベルでは単に “実際に行って見てきた” ということに近いかと。
したがって、ローマ国立博物館(アルテンプス宮殿)はおろか、サンタンジェロ城(サンジョヴァンニ要塞)も、アウグストス廟も、パンテオン神殿なども、見るどころか行ってもおりません。
どこをどういう順序で回ったのかなどの具体的なことはハッキリ覚えておりませんので、思いつくまま判り易いところからご紹介を。
まずバチカン市国です。 まあここは真っ先に訪れても当然と言えば当然かと。 しかしながら、円形のサン・ピエトロ広場でバスを降ろされ、後は自由に見て回れ、バチカン美術館の近くのリソルジメント広場に停めたバスに時間までに戻って来いと。
当時は、寺院や美術館などの館内は原則全て撮影禁止となっておりまして、大変綺麗で荘厳な絵画や美術品などを見て回りましたが写真は全くありません。
そしてバスに戻って、次の見学場所へ。
トレビの泉に向かう途中で(多分)バスの中からナヴォーナ広場、中央にオベリスクの付いた四大河噴水と広場両側にそれぞれ噴水があります。 広場の両サイドはオープンタイプのレストランや喫茶がズラリ。 こんなところで一休みしてみたいですよねえ。
トレビの泉。 まあ、ここに行かずには何しにローマまで行ったのか、と言うところでしょう。 近くでバスを降ろされてあとは徒歩で自由見学しろと。
バスの待ち合わせ場所へ行く途中に、オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」で一段と有名になったスペイン階段が。 写真はこれも何かの光が写り込んでしまって少々見ずらいですが。 この階段は、現在では飲食はもちろん階段途中で座ることも禁止となっていますが、当時はまだOKでした。 こんなところで、オープン・カフェでゆっくり腰掛けてヘップバーンのようにジェラートでも食べれたら、ですね (^_^;
バスの待合場所は更にちょっと歩いたポポロ広場です。 当時ここは駐車場の如くなっており、沢山の車が止まっていました。
ご存じのとおり、ポポロ広場の脇にはポポロ門があり、昔はローマへの入口となっていた有名なところですが、もちろん当時はその様なことは知りませんでした (^_^; ガイドさんさえいれば、ですねえ。
そしてまたバスに乗って、これも有名なコロシアム円形闘技場に向かいますが、走ったまま途中途中で運転手さんが“ここはなに”と教えてくれるだけです。
因みに、ここは17世紀に建てられたとされる華麗な内装の邸宅で、現在では博物館になっているようですね。 バスでただ前を通り過ぎただけですが (^_^;
ここは第1次大戦時に戦死した無名戦士が祭られている大理石の壮大な建物です。 建物前にあるのがエマヌエーレ2世の騎馬像 ここもバスで前を通り過ぎただけです。
コロシアムでバスを降りて暫し自由見学。 コロシアムはまだ修復・復元の最中で、見学できる場所はあまり多くはありませんでしたし、何しろ時間が ・・・・
コロシアム見学の後は、コロシアムへ向かう途中に素通りしたヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の裏側の位置になるサンティ・ルカ・エマルティナ聖堂へ行き、バスの運転手さんがやはりここは見なければ、と言うことで、古代ローマの中心であったフォロ・ロマーノ(まだまだ全体は発掘の途中)を見るために短時間だけバスを降りました。
そして直ぐに戻って、南側にある高台上からバスの中でフォロ・ロマーノを眺めました。
現在では一帯の遺跡の発掘やそれに伴う道路などの状況が変わってきていますので、ルートなどの具体的なことは判りません。
これてローマでの見学は全てで、後はまた約2時間バスに揺られてナポリに戻ります。 したがって、公式記録の午後23時に艦に戻ったというのでは、夜の21時頃にローマを出たことになり ・・・・ 当時はライトアップなどの夜間照明はありませんで夜見れるところはまずありませんでしたし、それに引率幹部も入れて約200名もの団体の夕食はどうしたのかとなりますが ?
因みに、この日のローマの午後の外気温度は40度Cでしたが、湿度が低いのでそれほど暑くは感じませんでした。 それにバスの中はエアコンが効いていますので。
ナポリ寄港3日目の11日(水)の午前中ははまたまた借上げバス4台に分乗してポンペイの史跡研修です。 もちろんここもガイドさんはおりませんので、現地で降ろされて時間まで自由に見学を、ということでした。
寄港4日目の12日(木)は、実習幹部は珍しく1日自由上陸となりました。 そこで、前日11日午前のポンペイ研修から帰った午後のイタリア空軍士官学校の生徒を招いての艦上レセプションで知り合った生徒達から誘われて上記の様にぺスビオ火山の見学に行くことに。
朝、彼等が私有車(生徒でも保有が許されているんですねえ)で迎えに来てくれましたので、まずはベスビオ火山を目指します。
七合目くらいの駐車場まで行って、そこから山頂まで歩き、火口の回りをぐるりと一周しましたが、当時は未だ登山道も周回道も十分に整備されてはおりませんでしたので、私達の白い制服は土埃でそれこそすぐに全身灰色に。
その山頂散歩の間に歩きながら拾った火山岩の石ころで、ブログでもご紹介したものです。
まあ遠洋航海とはいえ、何でこんなものまで拾ってくるかな 〜、ではありますが (^_^; しかしながら、この時の練習艦隊の他の実習幹部や乗員達にしてもそうでしたが、これまで日本人でナポリやポンペイを観光で訪れた方々も、このベスビオ火山の山頂まで行ったことのある人はそうそうはいないのでは、と。 その意味では、今でもガラクタでありお宝、です。
ベスビオ火山を降りてきたところで昼食にしようと言うことになり、皆で揃ってレストランへ。
メニューは彼等にお任せでしたが、大きなボールに山盛りのスパゲッティー(カルボナーラかペペロンチーノだったかと)を皆でとりわけて。 これは流石に本場イタリアだけあって大変美味しくいただきました。
で、彼等が 「ではメインは何にする?」 と。 てっきりここまでで十分と思っていましたし、既にお腹一杯になっていましたが、彼等が言うには 「これは前菜だよ」 と (^_^)
いや〜、彼等の胃袋には参りましたが、それぞれでお肉などで量のあまり多くないものをオーダーして何とかたいらげました。
昼食後はまた彼等の車に乗ってアチコチ回り、夕食も一緒に摂り(もちろん昼食と夕食は私達の奢りで)、夜遅くなってから艦まで送ってもらいましたが、ともかくず〜っとワイワイガヤガヤの楽しい一日でした。 長い遠洋航海の中でも大変に良い思い出となった1ページです。
ナポリ寄港は今回の遠洋航海の寄港地滞在で最も長い5日間で、9月14日(土)朝9時に出港しましたが、市営桟橋でしたので在留邦人を含む多くの方々の見送りでした。
そして、次はいよいよ欧州最後の寄港地となるスペインのバルセロナに向かいます。
最終更新 : 04/Jun/2023