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2-4-5.ツーロン |
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昭和49年8月12日(木)朝9時 欧州訪問最初の英国ポーツマスを出港し、港外で英艦隊の出撃と一緒になりその見送りを受けたあと、ジブラルタル海峡を目指して南下します。 次は地中海に入って、その最初のフランスのツーロンです。 とはいってもこのツーロンまでに7日間の航海です。
8月15日(日)にジブラルタル海峡を通って地中海に入りましたが、この時は視界不良でジブラルタルは見えなかったと思います。
そして翌16日(月)に「かとり」と「あおくも」で相互に交代して曳き船・曳かれ船の訓練を行いましたが、ご存じのとおり、この訓練は曳き船となった艦では曳き船終了後にその曳索の太いワイヤーを収容するのが大作業で、もちろんこれは実習幹部総員の出番となります (^_^)
ポーツマスからツーロンまでの一週間の間は、練艦隊としてはこの曳き船・曳かれ船以外では大きな訓練はありませんでした。
8月18日(水)午後1時 にツーロン港外に仮泊しました。 ところが、この “ツーロン港外” と言っておりますが、公式記録では「Hyeres Road の指定錨地」とされているものの、ここが何処であったのかは記憶がありませんし、他の記録などを見てもわかりません。
Hyeres という名称及び翌日この仮泊地を抜錨してツーロンに入港するまでに礼砲交換などがあり微速航行したとはいえ2時間半を要しておりますので、おそらくはツーロンよりかなり東のイエールに突き出た半島で囲まれる湾のところであったのではと思います。
この仮泊時の夜、「かとり」 の実習員講堂において在仏日本大使館の書記官と駐在武官によるフランス事情の講話がありました。
8月19日(月)午前6時半 仮泊地を抜錨し、私達はポーツマスでの冬服からまたまた夏の礼装として登舷礼により陸上と礼砲を交換しつつ、午前9時ツーロン軍港に入港しました。
しかしながらこのツーロンですが、現在でも軍事秘密になっているようで、Google Earth の衛星写真でもモザイクがかかっており、Google Map でも港の外形しか表示されません。 また、古い米軍地図などにもありません。
更には「かとり」と「あおくも」のアルバムにはツーロン軍港内が判るようなものは全くありませんし、私の撮った写真にも残っておりません。 おそらく軍港内の様子が判る写真の撮影は禁止であったと思います。 加えて、軍港内の施設研修なども一切ありませんでした。
因みに、現在のところ入手可能なツーロン軍港の写真は、少し古いものですがこれが精一杯のものかと。 私達が寄港した当時はこれと同じ様な状態でした。 練艦隊が横付けしたのは左下の艦隊桟橋地区のどこか、メインゲートは画面右上より更に右に外れたところです。 かつての日本海軍の横須賀や呉などではとても比較にならない規模ですね。
そして、実習幹部総員はツーロンに寄港した日の19日(月)の午後に 「フランス海軍教育センター」 の研修が行われたとされておりますが、どこにあった施設でどの様なところであったのかは全く記憶がありませんし、また私が撮った写真も建物が写った1枚のみです (^_^; おそらくツーロン港外で島が陸続きとなっているような形の サン・マンドリエ・シュル・メール というところの東側の高台にあったかと。
とは言っても、この時は要するに「教育センター」とは海自の術科学校のようなところで、「ふ〜ん、こんなところか」 程度で特に興味を惹くようなものも話しもなく、記憶に残るようなものではなかったかと。
ツーロンに入港したその日の午後にフランス海軍の教育センターの研修があった後、艦に戻ったその夜にまたまた夏服から冬制服に着替えて (パリは英国並みに寒いので) 22時に艦を出て、国鉄ツーロン駅へ行き、ここから首都パリへ夜行列車で。
この夜行列車、確か6人寝台のコンパートメントだったと記憶しておりますが、それこそ気心の知れた同期の実習幹部仲間ばかりですのでもうワイワイ、ガヤガヤで寝るどころではありません。
途中夜半に時間調整でどこかの駅にしばらく止まりましたが、隣に別の夜行列車が止まっており、たまたま私達の横にはご年配の女性ばかりのグループがおられ、窓越しに冗談を言い合ってもうワイワイ、キャーキャー。 さぞ周りはうるさかったでしょうね (^_^)
20日(火)早朝パリのオステルリッツ駅に着いて、その日の研修で使用する貸切りバスに分乗してまずは海軍省へ行き、地下食堂で朝食です。
朝食ですから、パンや玉子、ベーコン、ハム、ウィンナーやサラダなどの軽いものとジュースなどの飲み物が数種類をセルフで。 そこでブドウ・ジュースと思ってグラスに入れて飲んだら、これが赤ワインでした。 流石はフランス海軍。 で、皆で遠慮なく2・3杯はガブガブとやりまして、朝からほろ酔い気分に (^_^)
この海軍省の建物は有名なコンコルド広場の一画にあり、現在では博物館になっているようですね。 まさに一等地の歴史的建物にあったわけです。
海軍省での朝食の後は貸切りバスに分乗して市内見学ですが、例によって添乗のガイドさんはおらず、運転手さんがスケジュール表に従って順に回ってくれるだけ。 引率の「かとり」幹部も別にフランス語が堪能でもパリ市内に詳しいわけでもありませんから、ただ見学場所での乗り降りのチェックだけのお目付け役です。
で、経路や回った順などは覚えておりませんので、思い出すままに。
コンコルド広場からセーヌ川を渡った直ぐのところにある廃兵院。 元々は大きな軍病院だったようですが、この一部が博物館になっており、また奥には地下にナポレオン1世の棺も安置されている礼拝堂があります。
エッフェル塔へ続くシャン・ド・マルス公園で。 もちろん、とてもエッフェル塔まで行って登ってみるような時間はありませんで。
このバックには仏陸軍の学校がありました。 現在ではこのカメラ位置には新しい近代的な大きな美術館が出来ていて、軍学校はその陰になっていますね。
有名なエトワール凱旋門。 ここで練艦隊司令官、各艦長等と合流して献花が行われ、私達実習幹部も総員が参列しました。
モンマルトルの丘では有名なテルトル広場 (通称 “画家の広場” )をしばし散歩。 近くにはサクレ・クール寺院が聳え立っておりますのでこれは良く判りましたが、この当時既に近くにモンマルトル博物館が出来ておりましたが全く知りませんでした。 (当時はまだダリ美術館はありませんでした。)
付近にはその他にも見どころは沢山あったはずですが、ただ広場をブラブラするだけで。 この当時でも添乗ガイドさんを雇うくらいはできたはずと思うのですが ・・・・
で、モンマルトルの丘でバスに戻って発車してから直ぐにバスの運転手さんが 「これが有名な酒場だよ」 と教えてくれました。 「Lapin Agile」 という店名のバンドの生演奏を聞きながら一杯やれるところとして知られており、現在でもこの建物の形そのままにリニューアルされて続いているようですね。 こういうところでパリの夕べを過ごせたらなあ〜、と。
著名なルーブル美術館は前まで行きましたが、臨時休館で中には入れなかったような記憶もありますし、その一方でミロのビーナスの徹底的に磨かれた大理石の質感には圧倒された気も ・・・・ ?
いずれにしても、ホンの僅かな時間しか立ち寄りませんで、いわば “ともかく行くだけは行った” ということです。 なお、当時はまだ有名なガラスのピラミッド型の施設はありませんでした。
ノートルダム寺院もホンの僅かな時間だけ立ち寄りました。 荘厳な礼拝堂と見事なステンドグラスは記憶にあります。 ここは例の火災でいまだ修復中の様ですが、一日も早い完工を願うばかりです。
あとは、バスに乗ったまま通っただけですが、ガイドさんが乗っていませんから車中での説明はありませんので ・・・・
このパリ研修中に、遅い昼食だったか夕食でだったのかは忘れましたが、レストランを借り切って総員で食事をしました。
時間が時間だったからなのか、注文してあったメニューがそうだったのかは知りませんが、冷めたものばかりで “レストランで食べるフランス料理とはこんなものか” と思わされるような内容でした。 そこで、ここがやはり私達です、引率幹部に “有名なエスカルゴが食べたい〜” と。
実習幹部総員になったのか私達のテーブルだけだったのかは覚えておりませんが、一人数個ずつを。 結局、この時に食べたものの中で暖かいものはこれだけでした。 そしてこの追加注文の料金分も含めて後で練艦隊司令部から私達に請求されるようなことありませんでしたが (^_^)
このパリでの夜、公式記録では18時から20時まで在仏日本大使公邸で大使によるイギリス事情の講話があったことになっていますが、これについては全く覚えておりません。 フランス事情については、既に入港前の仮泊中に大使館の一等書記官と駐在武官から話を聞いておりますので改めて再度大使からというのも、しかも公邸で ・・・・ ?
おそらく公邸での歓迎レセプションではなかったかと。 この時か次のイスタンブールでの時の歓迎レセプションでキャビアがテーブルに出ており、パンに乗せて (という名目で) ガッツリと食べた記憶がありますので。
そして一日のパリ市内研修(見学)を終えて、朝着いた所と同じ今度は帰りの夜行列車の始発駅となるオステルリッツ駅まで貸切バスで。 ここでパリ市内研修の総員が集まってツーロン行の夜行列車の発車時刻を待ちます。
ところで、もう時効でしょうからお話ししても良いかと。
パリに着いて海軍省で朝食のあと市内研修(見学)のため割り当てられた貸切バスに乗りましたが、最初の見学地で下車したときに、数名の者が 「俺達ここでトンズラするから、あとは乗車確認の時に代返しておいてね。帰りの夜行列車に間に合うように駅で合流するから」 と。
この後、見学地で降りて再度乗車する度に引率役の「かとり」幹部にはその都度 「全員揃いました!」 と。 たぶん当の「かとり」幹部もうすうす気付いていたとは思いますが、彼も知らん顔で一日。
ところが、このトンズラした数名、帰りの夜行列車の出発時間近くになってもなかなか帰ってきません。 改札口前のホールで待機している私達へ「かとり」幹部の 「揃ったか?」 と言う問いに 「数名がまだ近くまで買い物に行っていますので、揃いましたら報告します」 と。
で、彼等はギリギリになって駅に駆け込んできたのですが、曰く 「制服に着替える場所がなかなか見つからなくて」 と。 艦を出るときからそのつもりで予め準備し、朝トンズラしてから私服に着替えて一日遊び歩いていたようです。
M君、君達のことだよ! こっちはもしかしたら列車の発車時刻に間に合わないのではとハラハラさせられたんだから。 でも、さぞかし楽しかっただろうね (^_^)
皆一日バスに揺られて少々疲れたこともあってか、帰りの夜行列車の中では特に騒ぐことも無く一晩大人しく(多分(^_^; )ツーロン駅まで。 そして昼前に艦に戻りました。
パリ研修から戻った8月21日(水)と翌22日(木)は実習幹部は研修などは特に無かったと思いますが、どちらかで半日の自由上陸がありました。
当時はまだ基地内の巡回バスなどはありませんでしたので歩いて出たわけですが、メインゲート(と言っても普通に歩いて出れるのはこの一ヵ所のみ)まで桟橋から広大な工廠施設沿いに歩いて30分以上かかります。
で、メインゲートを出てから、私は折角ツーロンに来たのですから街に出ればフランス海軍も含む海軍関係の書籍が沢山ある本屋さんがあるだろうと、皆と分かれて本屋さん巡りに。
しばらくあちこち歩き回って、さる大きな建物の中にある本屋さんに結構揃っていましたので、分厚いハードカバーのものをあれこれ4〜5冊買いましたが、ドル紙幣しか持っていませんでしたので、店員さん達が集まってあれこれドルとフランの換算をしてくれましたが、これが結構時間がかかりました。
本が一抱えありましたので一旦艦に戻って置いて来ようとメインゲートの方に歩き出してしばらく行ったところで、店員さんの若い大変に可愛いお嬢さんが追いかけて来て、もう一度支払いに間違いないかを確認してくれと紙にドルとフランでの計算を書いて説明してくれました。
間違いはありませんでしたので 「OK ありがとう」 と言って分かれましたが、わざわざ店の外までかなり追いかけて来てくれたのですから、彼女の仕事の終わる時間とその後の予定の有無を尋ねて一緒の夕食にでも誘うべきだったかなと。 これはちょっと大失態 (^_^;
ともかく本を抱えてまた小一時間近くかけて艦まで戻ったものの ・・・・ またあの道を歩いて往復することになるのかとちょっと面倒になり、もう一度街に出ることは止めました。
結局、ツーロン寄港中に自由上陸で街に出たのはこの本を買っただけで終りました。
ツーロン寄港は4日間で、8月23日(金)朝9時 に出港しましたが、岸壁や在泊中の仏海軍艦艇などからの見送りもほとんど無く、静かに次のトルコのイスタンブールに向かいました。
最終更新 : 07/May/2023