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2-4-3.パナマ運河とラ・グアイア |
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昭和49年7月12日(金)朝9時 メキシコのマンザニヨを出港して、いよいよパナマ運河に向かいました。 とは言っても、マンザニヨからパナマ運河入口までまだ6日間の航海があります。
しかも、世界一周の遠洋練習航海とはいっても、横須賀を出港して1ヶ月以上過ぎてもまだ太平洋の中ですから (^_^) そして実習幹部は相変わらず訓練と当直実習に明け暮れる日々で。
太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河を通狭する船舶の数は西航でも東航でも大変に数が多いので順番待ちとなります。 このため、太平洋側から大西洋側へ東航する船舶はバルボア沖に仮泊してこの順番を待つのが一般的です。
(注) : 「通狭」 ではなくて 「通峡」 では?、と思われる方があるかもしれませんが、この2つは意味が異なり、「通峡」 は 「通狭」 より広義の意味で使われます。 例えば “津軽海峡を通峡して” などのようにで、本稿のパナマ運河のように非常に狭い場所を通ることを示すためにここでは 「通狭」 としております。 もちろん “パナマ運河通峡” と言っても間違いではありません。
この 「バルボア」 と言っているところですが、本来のバルボアと言いますのはパナマ運河の手前にある 「アメリカ橋」 というのを潜った奥にあり、ここは東航の場合はパナマ運河最初のミラフロレス閘門の手前になりますが、既に大変に狭く運河の中と言えるところですので、ここでは通狭の順番待ちはできませんから、パナマの沖合にある3つの島嶼の沖の海面で仮泊、待機することになります。
したがって、通常 「バルボア仮泊」 とは言っていますが、一般的な方々の感覚からすると大きな都市であるパナマ市の沖と言った方が良いかもしれませんね。 そして、「アメリカ橋」 を潜るところからパナマ通狭が始まると言えます。
7月18日(木)朝8時半、このバルボア沖に仮泊し、翌朝パナマ運河に入る予定でした。 そしてこれによりバルボア沖仮泊中の18日午前中に予定通り在パナマ大使の講和が 「かとり」 の実習員講堂で行われました。
ところが、その後急遽その日の夕刻から通狭開始に変更となり、7月18日(木)の午後5時 仮泊地を抜錨、同 午後6時 アメリカ橋下を通過し、午後7時 最初の閘門のミラフロレス・ロック (Miraflores Lock) に入りました。
この日の日没は 1845 となっていましたので、閘門に入った時は既に薄暗くなっており、閘門施設周辺には煌々たる灯りが点いていました。
そしてミラフロレス閘門を出て少し行ったところの ペドロ・ミゲル (Pedlo Miguel) 閘門を通ると、ゲイラード・カット (Gaillard Cut) というパナマ運河掘削時の難工事であった有名な場所などがある狭い水道を通って行きます。
最近になってミラフロレスの横に新たに近代的な大型船舶用の閘門 ココリ・ロック (Cocoli Lock) というのが作られて、ミラフロレスとペドロ・ミゲルの2つの閘門がこの1つで済むようになりましたので便利になりましたね。
因みに、このミラフロレス閘門では54フィート (16.5メートル)、ペドロ・ミゲル閘門で31フィート (9.5メートル) の2段階で計85フィート (26メートル) 水面の高さを上げ、これでパナマ運河を抜けるガツン閘門まで進みます。 新しいココリ閘門ではここの1回でこの85フィートを上げることになります。
アメリカ橋を潜る前から艦は航海保安の配置に就きましたが、パナマ運河通狭というのは海自艦艇乗員でもそうそうその機会があるわけではありませんので、艦橋上を始め露天甲板上は私達実習幹部はもちろん乗員の手空総員が上がっての大撮影大会です。
しかしながら、既に夕闇迫る時刻での通狭開始で、それほど長く写真を撮れる時間はありませんでしたので、多くの者からは “予定通りの昼間に通ってくれれば良いのに” との声が。
とはいっても、夜間通狭はこれはこれで得難い機会ですので、私などからすると大変に興味深いものがありました。 特に、閘門周辺以外では運河沿いの道があるところは点々と灯りがありましたが、それ以外では両岸からその奥は真っ暗なジャングルで、その暗がりの中からいろいろな鳥獣の鳴き声が聞こえてくるのは何とも言えないものがありました。
ただし、艦橋の中はとても実習幹部などに構っていられるどころの状況ではなく邪魔になるだけですので、その他の場所で長時間立ったままただ見学していては飽きてきます。
そして、マンザニヨで大腸菌のために飲用どころか雑用水としてさえも搭載が制限されていましたので、運河に入ってからはこの水を雑用水としてタンクに取り込み入浴や洗濯が可能となりましたので、これを利用しない手はありません。
狭い運河を抜けて多少は広いガツン湖に入り、ガツン閘門 (Gatun Gate) を抜けたのが翌19日(金)午前1時のことで、リモン湾を通ってカリブ海へ出ました。
ちなみに、このガツン閘門で今度は85フィート (26メートル) 水面を下げます。 今では当時のこの旧閘門の横に大型船舶用の近代的な新しい閘門が出来ていますね。
パナマ運河を抜けてカリブ海に入ってから2日半の航程のところにあるベネズエラのプンタ・カルドンで給油をしてから首都カラカスの外港であるラ・グアイラ (La Guaira) に向かいます。
このプンタ・カルドン (Punta Cardon) もその地名を聞いて、 “ああ、あそこか” と直ぐピンとくる一般の方々はまずおられないのではないでしょうか?
プンタ・カルドンは、奥にベネズエラ第2の都市のマラカイボ (Maracaibo) がある大きなベネズエラ湾の東側にあります。
そしてこのあたり一帯は草木もほとんど無い荒涼たる土地にシェル石油の巨大な精油施設がありますが、ここの桟橋に両艦は横付けして給油を行うのです。
プンタ・カルドンには7月21日(日)午前10時に入港し、計画では翌22日(月)の朝から午前中一杯かけて給油の予定でしたが、21日の入港後から直ぐに給油が可能となり、かつ極めてスムーズに経過してその日の午後には両艦とも完了しましたので、作業全てが終わった午後5時に出港して一旦プンタ・カルドン沖に投錨、翌22日朝まで仮泊となりました。
私達実習幹部の総員は、この21日午後の給油作業中に精油施設を研修しましたが、何と言うか産油国だけあって流石は極めて大規模なものと関心した次第です。
7月22日(月)朝7時に仮泊地のプンタ・カルドン沖を出港し、翌23日(火)朝6時にラ・グアイラ (La Guaira) 港沖に一旦仮泊して大使館員などと連絡・調整を行ったのち、7時半に抜錨して登舷礼、礼砲交換を行いつつ8時半にラ・グアイラ港に入港しました。
マイケティア(Maiquetia)国際空港は、現在では シモン・ボリバール(Simon Bolivar)国際空港と改称されています。
このラ・グアイラは首都カラカス (Caracas) の外港として作られた人口港ですが、当時はまだ2本の防波堤で囲まれ、港口も港内も狭く、また現在のような横付け岸壁と西防波堤間の巨大なコンテナ・ヤードや北防波堤内側の岸壁施設などはありませんでした。
ラ・グライラでは、入港した翌日7月24日(水)の午前中は借上バスによる実習幹部総員のカラカス市内研修が行われました。
ラ・グアイラからカラカスへは高速道路で片道45分ほどかかりますので、市内研修とはいってもほどんどがバスの中からであり、数か所でバスから降りて見学しましたが ・・・・
カラカス市内は標高約1000メートルの盆地の中にあり、平地では石油による経済発展もあってビルが立ち並んできており、更なる近代都市への建設が進められていましたが、一歩裏通りに入ると昔ながらのゴチャゴチャした家並みですし、かつ周辺農村部からの人口流入によりスラム街が拡大していると言われていました。
そして、周りの丘陵の斜面にはカラフルな家々が立ち並んでいますが、貧富の差が激しいベネズエラにあっては、この斜面の上に行くほど貧民が多く、多くはランチョ(仮小屋)と言われるものでした。 こういう風景は中南米特有の風景ですね。
時間の関係もあってバスを降りて見学するほどのところは少なく、記憶に残っているのは今では大きな普通の公園の一部となっている 「軍人広場」 、そして 「カラカス国立霊廟」 と 「国会議事堂」 くらいです。
因みに、その後カラカス市街はビルや建物が立ち並ぶ近代的な大都市にはなりましたが、2000年代に入ってからの政治・経済・インフラの混乱と、それに伴っての治安が悪化しており、2021年に渡航禁止から1段階引き下げられたものの、それでも現在でもカラカスは日本外務省の危険レベル2の不要不急の渡航を止めるように旅行者に求めています。
ラ・グアイア(La Guaila)は上に書きましたように、ベネズエラの首都カラカスの外港で、内陸部の農産物などを積み出すための人口港です。 そして当時は港のコンテナ・ヤードなどはまだ整備されておらず、しかもすぐそばまで丘陵が迫る小さな港であったわけです。
当時からここは “世界で一番美しい港の一つ” と言われていたようで、私達もそれを楽しみにしてました。 しかしながら、その期待が大き過ぎたのか、ごく普通の中南米の港町のような ・・・・ (^_^)
このラ・グアイアに寄港した翌日の24日(水)はベネズエラ海軍の創設記念日であるため、練艦隊の2隻も昼間は満艦飾、夜は電燈艦飾を行いこれを祝いました。 街も記念日で練艦隊相手のお土産屋以外の商店はお休みだったような ・・・・
ラ・グアイラ寄港もまた実質2日間しかなく、実習幹部も寄港地諸行事、カラカス市内研修、艦上と大使公邸でのレセプション (実習幹部半数ずつ) などが続き、その間に半日だけの自由上陸はあったように記憶しています。
そして、7月25日(木)朝9時には慌ただしく出港し、次は欧州最初の英国 ポーツマスに向けて大西洋を横断です。
岸壁では軍楽隊が。
最終更新 : 23/Apr/2023