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距離時計について |
距離時計については、元々の遠藤氏の論文には全く触れられていませんが、多田氏の論文の方には出てきます。 したがって多田氏と遠藤氏の論争には直接関係はありませんが、前項でご説明した 「変距率盤」 とともに旧海軍の近代砲術発展にとっては欠かすことの出来ないものの一つですので、ここで採り上げます。
多田氏 :
測距儀では測距時点でしか得られない、つまり連続的には把握できない目標距離データをもとにして連続的な目標距離データを機械装置で求めようとしたのである。 イギリス海軍省は、20世紀初頭の1904年 (明治37年) に測距儀による目標の観測とは独立して目標距離を連続的に推定・表示する機械的な装置の実験を開始した。 この機械装置の初期的なものは大兵器会社であるヴィッカース (Vickers) 社によって開発されたレンジ・クロック (Range Clock = 距離時計) 又は単にクロックと呼ばれる装置であった。 ( 『軍事研究』 H17.11 p106〜p107 ) |
多田氏が平成17年11月号の 『軍事研究』 で 「105型ヴィッカース・レンジ・クロック」 として紹介しているのが下のものです。 英国では単に “Clock” と言ったのかどうかは知りませんが、少なくとも旧海軍では距離時計のことを “クロック” とは呼んだことはありません。
この距離時計が何をする道具かというと、この距離時計の “針” を測距儀などで得られた距離のところに合わせた後、前項 「変距率盤について」 でご説明した変距率盤によって得られた変距 (率) で、正に時計の針のように動かすものです。 すると、設定した変距 (率) が正しければ、頻繁に測距儀で距離を測らなくても、時間の経過に合わせてその時その時の目標 (敵艦) までの距離を表示してくれることになります。
まあ、簡単に言えばこれだけのもので、どうと言うものではありません。 しかしながら、この距離時計がその後の艦砲射撃における近代的射法、特に旧海軍の公算射法発展の切っ掛けとなったことを考えれば、まさに極めて重要な発明の一つです。
そして何故この距離時計が考案されたかを考えると、先の項目でご説明した当時の 「測距儀」 が艦砲射撃実施の上では如何に役に立たなかったかと言うことがお判りいただけるでしょう。 即ち、測距儀によって誤差の少ない正確な距離が時々刻々と測れるのであるならば、この様なものは不要だからです。
距離時計の様なものを使わずに、その時その時の測距離で射撃を実施しようとするのが旧海軍で言うところの 「測距射法」 ですが、これが何とか使えるようになるのが昭和も太平洋戦争前になってからで、更には本当に実用的になるのは太平洋戦争後、測距儀に換わって射撃用レーダーが使えるようになってからのことです。
ですから、多田氏も言っているように
「三角測量方式測距儀が大活躍した日本海海戦」 (小倉磐夫 『カメラと戦争』) と考えるのは (『軍事研究』 H17.11 p105 ) |
如何にキチンと調べていない、いい加減なことであるかが、この距離時計のことからもお判りいただけると思います。
では、この距離時計が旧海軍に最初に導入されたのは何時かというと、旧海軍の史料では先の項目の変距率盤よりも1年早い明治40年とされています。 と言うことは、上記の多田氏紹介の105型ヴィッカース・レンジクロックが開発されたあと早々に旧海軍にもたらされたことになります。
下図の左側は海軍兵学校の 明治41年版 『砲術教科書』 にある 「距離時計」 の外観図ですが、上のヴィッカースのものと極めて良く似ていることがわかります。 このことから、英国から最初に伝わったものはおそらくこのビッカースのものか、それに極めて近い開発段階のものであったと考えられます。
そして右側の図が 昭和6年版『砲術教科書』 に出てくる 「一三式距離時計一号」 です。 旧海軍におけるそれまで使用実績を踏まえ、射法の発展に併せて改良が加えられて複雑な機構となり、そして元々の 「射距離」 を連続的に表示するものから 「照尺距離」 を表示するものへと進化したものとなっています。
この距離時計が旧海軍の近代射法発展のために如何に極めて重要な役割を果たしているかについては、「砲術講堂」 の 「旧海軍の砲術」 中の 「射法沿革概説」 や 「射法の概念」 の項を参照下さい。
また、この距離時計の詳しい構造・機能などについては同じく 「砲術講堂」 の 「旧海軍の砲術」 中の 「指揮兵器 その他」の項で説明いたします (現在未開設 m(_ _)m )。
最終更新 : 03/Jul/2011