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第11話 旧海軍の戦艦主砲の分火について




  問題の発端
  昭和13年における砲術の状況
  旧海軍の戦艦主砲の砲戦
  方位盤、射撃指揮所、発令所
  戦艦主砲の方位盤管制
  戦艦主砲の分火




 

 旧海軍の戦艦主砲の砲戦


前項でお話ししましたように、昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の大改訂までは、砲塔動力の問題によって連装砲塔は交互打方を常用としてきました。 このため、「金剛」 型などの4砲塔艦は1斉射最大4発、「扶桑」 型などの6砲塔艦では1斉射最大6発でした。

 この “最大” というのは、各砲塔の射手及び旋回手は砲測照準であろうと指示器追尾であろうと、手動でこれを行うために斉射の発砲時に俯仰又は旋回を合わせることができず、所定秒時以内に発砲できない場合(特に動揺が大きな時)がかなりあり、1~2門は出ないことがあるからです。

つまり、準備門数に対する出弾率が100%にならない場合が多かったのです。

したがって、戦艦の主砲をもってする対主力艦の射撃は、この交互打方をもってしては全砲塔を1目標に割り当てるしか無かったわけです。

旧海軍の戦艦主砲の砲戦の基本、思想は、まさにここにありました。 言い換えれば、主砲の分火による対2目標対処というのは、余程の理由がなければあり得なかったのです。


では、昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の大改訂、そしてこれに基づく昭和13年からの基づく戦艦の一斉打方により、対主力艦1目標に対するものから分火も視野に入れる如く砲戦に対する考え方が変わったのか?

いいえ。 一斉打方が規定されていても、個々の射撃の場合には、試射・本射ともに、その時その時の状況及び射撃指揮官の考え方によって、一斉打方、交互打方の長所・短所を勘案した射撃方法が採られますが、いずれにしても、対主力艦1目標に対する砲戦を行うことには変わりはありませんでした。

考えても見てください。 旧海軍の作り上げた公算に基づく緻密な射法をもってしても、平時の訓練射撃においては命中率 (有効弾率) が10%台であっても、実戦においてはせいぜい数%なのです。


したがって、この昭和12年の 『艦砲射撃教範』 の大改正がなされて 「一斉打方」 が規定され、これによる艦隊での訓練射撃が行われましたが、これによって戦艦による対主力艦1目標に対する射撃はより効果が高まったと言えるのです。

そして、昭和13年に 『砲戦教範』 が定められましたが、この教範においては、艦隊では戦隊単位での砲戦を基本とし、そして各艦においては、


一艦ノ主砲ハ昼戦ニ於テハ分火セザルヲ原則トスルモ旋回角度其ノ他ノ情況ニ依リ主目標ヲ射撃シ得ザル場合一時分火スルヲ利トスルコトアリ


と規定されています。 この 『砲戦教範』 は昭和18年に改訂案が作成・配布されましたが、この条項はそのまま残されています。 (ただし、その後終戦までに正式な 『砲戦教範』 として制定されたのかどうかは不明です。)

また、砲術学校及び海軍大学校における 『砲戦術』 及 び 『基本戦術』 においても、これと同様のことが講義されてきました。 例えば 『砲戦術』 では次のとおりです。


原則トシテ一艦主砲ハ分火セザルヲ原則トス
  (一) 一艦主砲ヲ分火スル時ハ射撃指揮困難トナリ砲火ノ威力ヲ減殺スルコト大ナリ
  (二) 敵一艦ノ被ル我砲力ハ1/2トナリ間接ニ我ヲ防御セントスル価値少ナリ
主砲ノ分火ヲ必要トスル場合旋回角度ノ関係ニヨリ主目標ヲ射撃シ得ザル場合一時分火ヲ行ウコトアリ


これを要するに、旧海軍においては、戦艦の主砲塔4~6基をもってしては、「一斉打方」 であろうと 「交互打方」 であろうと、対主力艦に対する射撃においては砲塔群を2つに分けての同等の砲力を有する分火を常用としての射撃を行うという思想も考えも無かったということです。 もちろんこれは太平洋戦争期においてもです。



 

 方位盤、射撃指揮所、発令所


次にご理解いただかなければならないことは、それでは明治期からの旧海軍の砲術の進歩に伴い、戦艦の主砲による射撃の実施において、そのための射撃指揮兵器、射撃指揮機関、そしてそれらを運用する射撃指揮組織がどのように変遷してきたのか、ということです。


日露戦争期においては、本 『砲術の話あれこれ』 の第2話の中で、主として 「三笠」 を例にとってお話しをしました。

「三笠」 においては、日露戦争開戦前の明治36年6月の訓令によって射撃指揮用の各種通話装置が改善されることとなり、これは10月には施工されたとされています。 この時の改善状況は第2話の中でもお話ししたとおりです。


( 明治36年の高声電話以外の射撃指揮用通話系統の改造要領概念図 )


そして 「三笠」 を始めとする日本海軍の主力艦においては、日露戦争中に 「距離通報器」 及び 「号令通報器」 が広く装備され、これによって司令塔内及びその背後におかれた 「伝令所」 から、前部露天艦橋にある1.5米測距儀による測距離を各砲塔、砲台へ伝達することができるようになりました。

もちろん、射撃指揮にはこの通報器以外に従来通りの指数盤や手持ち式の黒板、伝声管 (伝話管)、メガホンによる伝令、そして高声電話などによる方法も併用しましたが、これにより、主砲及び副砲、補助砲について同一の射距離でもって射撃することが可能となったのです。

バルチック艦隊来航に備えての鎮海湾における猛訓練においてこれらの射撃指揮の装備を活用した成果によって、日本海海戦での完勝に大きく寄与したことは言うまでもありません。


その戦訓によって、日露戦争後には、この距離通報器の 「発信器」 を含む司令塔内及びその背後に置かれた各種通信装置と、艦内の弾薬通路の前後に設けられていた 「伝令所」 を艦内の前部マスト下部区画に集約し、ここを 「下部交換所」 と呼ぶようになりました。

そして、明治40年に英海軍からもたらされた 「距離時計」 をここに置き、そして翌41年にもたらされた 「変距率盤」 と共に42年に兵器採用され、既に明治27年に導入済みの測距儀と合わせたいわゆる砲術の “三種の神器” によって初めて近代射法が誕生することとなり、この下部交換所は、射撃指揮官たる砲術長が位置する 「射撃指揮所」 と共に、重要な射撃機関の一つ 「下部発令所」 となったのです。

これらの改善、進化により、明治45年には 『戦艦及一等巡洋艦砲火指揮通信装置制式』 が定められ、これに基づいて各艦の各種通信装置が整備されました。 更にこれは大正4年に 『戦闘通信装置制式』、12年に 『砲戦指揮装置制式草案』、そして昭和7年には 『砲戦指揮装置制式』 と改訂されました。 昭和12年の 『艦砲射撃教範』の大改訂、そして昭和13年の 『砲戦教範』 制定時にはこれに基づいたものです。


次いで重要な出来事が、大正5年の方位盤射撃装置の採用です。 これにより、それまで各砲塔・砲での砲側照準から、方位盤1ヶ所での照準が可能となりました。

特に、第1次大戦における英独艦隊間の海戦では、それまで予想された砲戦距離より遙かに遠距離で行われ、大戦後は今後はこれが更に延伸されるものと考えられるに至り、高所に装備された方位盤による照準の価値は一層高くなったのです。

そして旧海軍はこの方位盤を活用した射法の改善を行い、これに基づいて昭和8年に 『艦砲射撃教範』 の改訂を行いました。

これに先立ち、第1次大戦での海戦の戦訓としての主砲の砲戦距離の延伸に伴い、砲術長によるこれまでの主砲及び副砲・補助砲を合わせて指揮をする砲戦指揮官に全てを任せる方式を止め、副砲長を定めて副砲の射撃指揮を分担させることとし、射撃指揮所は 「主砲指揮所」 「主砲予備指揮所」 「前後部砲塔指揮所」 に加え 「副砲指揮所」 「副砲予備指揮所」 を設けることにしました。

また、「下部発令所」 は 「主砲発令所」 と 「副砲発令所」 に完全に分かれることになったのです。 そして、これまでの距離時計に替わり、本格的な射撃計算機能を有する 「九二式射撃盤」 が誕生し、これを主砲発令所に装備したことにより、射撃指揮組織 (機関) は 「方位盤」 及び 「測的盤」 を掌る 「測的所」、射撃指揮官の位置する 「射撃指揮所」、射撃計算とその結果を砲台に伝達すると共に、射撃指揮官の指示に基づく発砲のタイミングを掌る 「発令所」 として発展することになります。

ただし、主砲発令所は1ヶ所のみであり、本格的な装備を有する予備発令所が設けられることはありませんでした。 副砲は当然ながら右舷と左舷とで分火を前提としていますので、右舷発令所及び左舷発令所がそれぞれ設けられました。

第2次大戦後になって 「射撃指揮装置」 という1つの名称のものとなるまでは、この 「射撃指揮装置」 とはこれら3つの射撃指揮組織・機関の装備全てを総合したもののことを意味していたことには注意が必要です。

なお、射撃指揮組織・機関の発達については、その詳細を述べると大変に長くなりますので、その概略に留めております。 今後機会があれば、この発達史についても別項として纏めてみたいと思っています。







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 最終更新 : 16/Aug/2020