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第11話 旧海軍の戦艦主砲の分火について




  問題の発端
  昭和13年における砲術の状況
  旧海軍の戦艦主砲の砲戦
  方位盤、射撃指揮所、発令所
  戦艦主砲の方位盤管制
  戦艦主砲の分火




 

 問題の発端


ネット上の某所で “日本戦艦は主砲の分火射撃はできない” として、その根拠に学研の古い出版物が挙げられていましたが、当該コメントはその 元の出版物の記事の内容からは正しく引用されていません でした。

元記事である 学研 『「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.65 決定版金剛型戦艦』 の 「第2次改装&戦時改装」 から当該部分をご紹介しますと、次のとおりです。


なお、後部指揮所への方位盤の搭載によって、前後部射撃指揮所が個別に前後部の主砲塔群を指揮して分火射撃ができるようになったとする資料があるが、昭和13年年度版の 『砲術年報』 に 「方位盤による分火射撃を実施できる戦艦はない」 とあるように、あくまで後部指揮所の射撃指揮所は前部射撃指揮所の予備であった。 (同書p126最下段右から1~9行目)

艦隊側は分火射撃実施のために機構の改正用要望したが、「捷号作戦」 時の 「金剛」 と 「榛名」 の戦闘詳報に 「方位盤による分火射撃はできない」 旨が記載されているので、就役中に改善はされなかったようだ。 (同 9~13行目)


前半部分は、確かにそのとおりといえばそうなのですが、ちょっとこれでは意味が正確に伝わらない、というかおそらく当該記事の著者も理解できていなかったのでは、と思われますし、また後半部分は 「?」 と思われるところがあります。

そこで、旧海軍の戦艦も含めて、「分火とはどういうことか」 というについて少し説明をしてみたいと思います。



 

 昭和13年における砲術の状況


なぜ昭和13年の砲術年報でわざわざ 「方位盤による分火射撃ができる戦艦はない」 とされているのか?

学研の元記事では当該年報のどの項の何についてのどの文章からなのかを示していませんが、この昭和13年という年こそ旧海軍の砲術にとっては大変革の時だったのです。 それを理解、説明しないことには、このことの意味が正しく伝わらないでしょう。


既にこの 『砲術の話題あれこれ』 の第2話などでもお話ししてきましたように、旧海軍では明治期に戦艦に大口径の連装砲 (当時はこれを 「機動砲」 と呼びました) を搭載しましたが、砲塔の動力の問題で、連装砲の2門を同時に打つ、即ち 「斉発」 を行うと砲の駐退・複座に水圧が取られ、次弾の揚弾・装填、旋回・俯仰が極端に遅くなりました。

このため、余程の状況・条件に恵まれた場合でなければ斉発は行わないものとされ、通常は左右砲を交互に発射する方法が用いられたのです。

旧海軍では、日露戦争後になってこの連装砲を交互に撃つ方法で艦の全砲塔を一斉に発射するやり方を 「一斉打方」 と名付け、大正2年制定の 『艦砲射撃教範』で その規定を明文化したのです。

その後この砲塔動力の問題が改善され、連装砲塔の斉発が何とか実用になるまでになったのは、実に昭和年代に入ってからだったのです。

これによって戦艦の主砲で斉発による一斉打方が可能になりましたので、この方法による射法が研究・試行されて、その成果に基づいた 『艦砲射撃教範』 の大改正が行われて昭和12年に正式に発布されました。

この教範の大改正により、これまでの 「一斉打方」 をその実態どおりの 「交互打方」 に、斉発による全砲塔全門による一斉発射を 「一斉打方」 と呼ぶように改めたのです。

そしてこの新たな一斉打方による艦隊での射撃訓練が教範改定の翌年、即ち昭和13年から行われるようになりました。

即ち、昭和13年の 「砲術年報」 はこの成果を踏まえたものであることを理解しなければなりません。







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 最終更新 : 09/Aug/2020