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「ペトロパブロフスク」 撃沈 (前編)



 旅順口沖の機雷敷設



さていよいよこの項の最後、旧海軍の旅順口前面への機雷敷設による 「ペトロパブロフスク」 撃沈です。

皆さんよくご存じの通り、この件は明治37年4月13日、日本海軍の誘致作戦に釣られて出港してきた 「ペトロパブロフスク」 が、その前夜に特別に編成された部隊によって敷設された 「二号機雷」 に触れて爆沈したものです。

同艦に座乗していた太平洋艦隊司令長官のマカロフ中将がその幕僚ともども戦死したことでも知られています。

そして、これがこの後12月6日まで続く旅順港沖に対する攻勢的大量機雷敷設の始まりとなります。  『別宮暖朗本』 の著者はこんな重要なことを言及していませんが。

さて、そこでこの時の機雷敷設の作戦についてですが、敷設作戦そのものについては、4月7日付の 「聯隊機密第286号」 で次のとおり下令されています。


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( 訂正個所は、4月8日付の 「聯隊機密第286号の2」 によりなされたもの )



そしてこの敷設作戦は、同日付けで出された 「聯隊機密第287号」 に基づく、連合艦隊主力による旅順艦隊誘致作戦と一体のものであることを忘れてはなりません。 これも 『別宮暖朗本』 の著者は何も触れていませんが。

敷設部隊の編成などは、次のとおりです。


第四駆逐隊 (隊司令 海軍中佐 長井群吉) :
「速鳥」 「春雨」 「村雨」「朝霧」 団平船2隻
機雷 : 団平船各8個、計16個

第五駆逐隊 (隊司令 海軍中佐 真野源次郎) :
「陽炎」 「叢雲」 「夕霧」 「不知火」  機雷 : 各艦3個、計12個

第14艇隊 (隊司令 海軍少佐 桜井吉丸)  :
「千鳥」 「隼」 「真鶴」 「鵲」  機雷 : 「真鶴」 「鵲」 各2個、計4個

「蛟龍丸」 : 
臨時乗組指揮官 : 艦隊附属敷設隊司令 海軍中佐 小田喜代蔵
機雷12個

敷設機雷合計 44個


そして、計画された敷設位置は各隊毎に別々の海面が指定さており、次のようになっています。


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この作戦では上記の聯隊機密にあるように、各隊の指揮官が敷設要領など総てをそれぞれで決めることとされています。

ですから、この時第四駆逐隊では団平船 (だん べい せん) 2隻を使いましたが、これの着想と実施は小田ではなくて長井です。 そして、団平船に傾斜板張り甲板を敷き、その上に機雷落下装置を設けたのも長井です。

その証拠の一つとして、第四駆逐隊の戦時日誌から当該部分をご紹介します。


4dd_m3704_02_s.jpg4dd_m3704_01_s.jpg


つまり、4月7日の聯隊機密286号の発令以前に、4月1日までには連合艦隊司令部から各隊司令に指示が出されて、それを受けて各隊で計画と準備を行っております。

また、小田が 「蛟龍丸」 に乗ったのは、敷設作戦全体の指揮を執るためではなく、単に仮設砲艦である 「蛟龍丸」 に敷設についての指揮官と専門職の下士官兵がいなかったからに過ぎません。

実際、敷設海面が各部隊ごと異なり、しかも夜間に同時ですので、小田にその全体の指揮が執れるわけがありません。 それよりも何よりも、小田は第四駆逐隊司令の長井中佐よりも後任 (海軍中佐進級は、小田 明治31年12月、長井 明治30年12月) ですから、全敷設部隊の先任指揮官でもありません ( = 敷設部隊指揮官にはなり得ません)。

なお、「蛟龍丸」 は当時機雷敷設船として4月7日には繋維機雷40個を搭載していますが、この作戦において敷設したのは、流し式落下台上に装備した12個のみです。


さらに、水深の問題がある。 小田はできれば戦艦を狙いたかった。 それがためには戦艦の深い船底に合わせてワイヤー長と満潮時の水深、位置を綿密に計算せねばならない。 (p184) (p191)



既に 「自働繋維器」 でご説明したように、機雷缶の深度、即ち深度索の長さを決めればよいのです。 連合艦隊司令部の指示は 「最干潮時」 (現在の海図の水深記載と同じ 「略最低低潮面」 に対する水深) に 「12呎」 とされていますので、敷設時の潮汐をこれに加減すれば終わりです。

この著者は自働繋維器が何かを知らないためにこのような的外れの表現になるのですね。


4月、ロシア艦は満潮時の午前9時前後3時間しか出撃できず、 (後略)  (p184) (p191)



4 “月” の満潮時が午前9時? 前後3時間が出撃可能? 『別宮暖朗本』 の中でこの著者は同じことを何度か書いていますが、 「潮汐」 さえ知らないとは。

 「潮汐」 がどういうものかは、船乗りや漁師さんのみならず、海釣りをやる人でも誰でもみんなよく知っている話しです。 いや、小中学生でも知っている “理科” です。

そして、そもそも旅順港の海図さえ、見たことも、調べたこともないことが明らかかと。


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( 海軍水路部発行の古い海図より )



4月12日深更、小田をのせ た 『蛟龍丸』 は、船尾や舷側に機雷を提げた8隻の駆逐艦・水雷艇と団平船 (だんぺいせん) (石炭積み込みに用いる小舟) を連れ従えて、旅順港外に向かった。 (p184) (p192)

小田の面白いところは、駆逐艦や水雷艇の司令官に具体的敷設方法を任せたことである。 (p184) (p192)



船尾や舷側に機雷を提げた? 8隻の駆逐艦・水雷艇? 石炭積み込み用の団平船? 駆逐艦や水雷艇の “司令官”? などというツッコミはともかく、

小田が計画したわけでもなく、全敷設部隊の指揮官であったわけでもないのに、一体何を言いたいのか?  敷設方法を任せたのは、小田ではなく、連合艦隊司令部です。 小田には “任せる” ような権限さえありません。

そもそも小田が乗船した 「蛟龍丸」 を連合艦隊司令部がこの作戦に使用することを決めたのは4月2日以降のことです。

それは特務船舶を統制する 「台中丸」 に対してその日に同司令部より 「蛟龍丸」 の排水量の問い合わせがあったこと、同艦乗組の元々の徴用船員が総員退去させられたのが4日であること、などでも確かです。 ( 小田の提出した本作戦の 「行動報告」 によれば4月6日とされています。)

そして、先の第四駆逐隊の戦時日誌にあるように、第四駆逐隊司令などに対して司令部より敷設作戦の計画指示があったのは4月1日です。

この敷設作戦が小田の計画でないことはこれでも確かかと。 連合艦隊司令部に対する専門職の幕僚として、アドバイスはしたかもしれませんが。

そして 「蛟龍丸」 の使用が決定してから、小田がこの艦の敷設指揮官として指定され、専門職の部下を率いて臨時乗組することになりました。

したがって、もし連合艦隊司令部が 「蛟龍丸」 を使うことを考えなかったら、あるいはその準備が間に合わなかったら、小田がこの敷設作戦に参加することさえありませんでした。


約2時間をかけ、平均100メートル間隔、4.3キロに延びる機雷線をつくり終えた。 (p185) (p192)



44個を4.3キロに延びる機雷線? 一本線で?

前出の敷設図を含めた当該作戦の敷設要領を一度でも調べたことがあるなら、“絶対に” このような表現にはなりませんね。

もし敷設線の総全長のことを言うとしても、この著者の言う100m間隔をもってしても、第4駆逐隊は団平船2隻を使用して8個ずつで、700mx2線、計1.4km、第5駆逐隊は4隻で各艦3、200mx3線、計800m、「蛟龍丸」が12個、1.1km、で合計3.3kmにしかなりません。

水雷艇は4隻中の2艇各2個の計4個で、元々の計画は線状ではありません。

しかも史実は、各隊・艦の 「行動報告」 によると、「蛟龍丸」 は70ヤード (約64m) 間隔で敷設し、所要時間僅か4分。 第4駆逐隊の団平船2隻は5ノットにて22秒間隔 (約60m) で16個を順次敷設し、所要時間6分。 第五駆逐隊は各艦機雷3個宛で、所要時間3分です。 ( 水雷艇は不詳 )

これを見ても、自働繋維器の効果が明らかでしょう。

この著者の言う約2時間が一体何を意味するのか全く判りませんが、それをハッキリと書かなければ意味はありませんし、読者に誤解を与えるもとです。


これを要するに、『別宮暖朗本』 の著者はこの敷設作戦についても、何も知らず、何も判らず、何も調べていない、で書いていることが明らかです。



(注) : 本頁で使用した画像データは、特記するものの外は防衛研究所保有保管史料より。





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 最終更新 : 06/Jan/2012