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連繋機雷について (3) |
続いて、この連繋機雷の実戦での使用例についてです。
連繋機雷の実戦での戦果は、実は、というか皆さんよくご存じのとおり、明治37年の考案時から昭和期までを通じて、というより海戦史上、日本海海戦の時に鈴木貫太郎海軍中佐 (当時) 指揮する第四駆逐隊の例、一つのみです。
( その他には戦果不明ですが、“攻撃した” というならば、同じく5月27日の夜戦において、第十艇隊の水雷艇 「第三十九号」 と 「第四十一号」 がそれぞれ1群連 (4個) を敵艦前程に敷設しています。)
その第四駆逐隊の戦闘行動については 『別宮暖朗本』 でも出てきます。
午前0時ごろ、連繋機雷をもつ奇襲隊として指定された、鈴木貫太郎率いる第四駆逐隊がナワーリンの前方に現れた。 (p322) (p334)
既にこの第2話の始めでも書きましたが、第四駆逐隊は 「奇襲隊」 ではありません。
第四駆逐隊は日本海海戦までに隊の4隻全部に連繋機雷が搭載されたことにより、 全駆逐隊及び水雷艇隊の魚雷による夜襲が終わった後に、この連繋機雷による攻撃をすることとされていたものです。
そして、午前零時頃?
第四駆逐隊は、27日午後5時頃の 「スワロフ」 雷撃のあとは、次の27日午前2時半頃の 「シソイ」 攻撃まで敵艦捜索中であり、どの艦も攻撃しておりません。 これは残されている第四駆逐隊及び同隊各艦の戦闘詳報でも明らかです。 ちょっと長くなりますが、同戦闘詳報から関連部分をご紹介します。
鈴木貫太郎はナワーリン撃沈を次のように描写している。
「 (前略) ・・・・ そして敵と平行して反対の方向に走りながら 射つ
のである。 これは敵の砲撃を避けるのに一番いい方法である。 そうすると見事水雷が当たった。 どうも 水雷の発した 距離を見ると朝霧が六百メートル、三番の白雲はたかだか三百メートルくらいだったから、水雷爆発の衝動を感じた。 ・・・・(後略)」 ( 『鈴木貫太郎自伝』 )
二つの駆逐艦でロープを張り、機雷二個をつなげ、そのまま前方に突撃する連繋機雷攻撃法が見事に成功した例だろう。(188ページ (194〜195頁) 参照) (p322〜323) (p334〜335)
(注) : 赤色 は管理人が付けたものです。
「射つ」 「発した」 とチャンと書かれているのに、どうしたらこれがロープで曳航する機雷になるのでしょう。 多少とも海軍についての知識があるならば、そんな解釈は “絶対に” 出てこないはずのことです。
そして戦闘詳報のとおり 「スワロフ」 攻撃においては、射距離 600メートルと 300メートルとの2回雷撃しており、この内の後者で 1発の命中を確認していますが ・・・・ 「ナワリン」 攻撃? 「白雲」 ?
( 「第四駆逐隊戦闘詳報」 より )
前出の戦闘詳報にもあるとおり、第四駆逐隊は 「ナワリン」 を攻撃しておらず、しかも 「白雲」 は27〜28日の海戦では魚雷は1発も撃っていません。 これは鈴木貫太郎自身が提出した報告書によって明らかです。
( もっとも、27日の聯合艦隊司令長官の戦闘詳報では、「ナワリン」 が第四駆逐隊の連繋機雷で触雷・沈没したとの文が出てきます。 もちろん、 これはその後の情報とそれの分析によって、第四駆逐隊によるものでもなく、また連繋機雷ではなく魚雷によるものと確認されています。)
昭和43年初版の鈴木貫太郎の 「自伝」 だけしか見ておらず、史料による裏付けを何も取っていないとこういうことになります。 歴史評論家と自称するなら、普通は決してこういうことはしませんが。
この攻撃のあとの午前2時、鈴木はさらにシソイにも連繋水雷攻撃をかけた。 この攻撃も成功したが、沈没せず、シソイは自力で航行をつづけた。 (p323) (p326)
この 「シソイ」 攻撃こそが、史上唯一の連繋機雷の敷設による戦果 です。 が ・・・・
( 「第四駆逐隊戦闘詳報」 より )
それにしてもこの航跡図のどこをどの様に見たら、『別宮暖朗本』 の著者の言う “2隻の駆逐艦でロープを張った攻撃運動” になるのでしょう?
「シソイ」 “にも” ではなく、またこの著者がそうだと言う、あり得もしない “連繋機雷攻撃法” でもありません。
(注) : 本項で引用した各史料は防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。
最終更新 : 27/Aug/2011