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連繋機雷について (2)



 連繋機雷の誕生


それでは、この通称 「連繋機雷」 は誰の発想で、誰が考案で誕生したのか、ということです。 これもまず 『別宮暖朗本』 の記述から。


小田は機雷の攻撃的な使用として、さらに別の方法を編み出している。 連繋水雷である。 小田はこの方法を日露戦争前に発案しており、一号機雷という特殊な浮標機雷をそのために発明していた。 (p188) (p195)



小田は機械水雷を2種類考案した。 一号機雷と二号機雷であり、一号機雷が通称 「浮標機雷」 と呼ばれるものである。 (p266) (p276)



ただ敵艦に浮標機雷一つを触雷させたとしても、小型であり、撃沈することはむずかしい。 このため小田は、浮標機雷をロープで連繋させることにした。 これならばロープに当たった艦はそのまま進むしかないので、2個以上命中させること (が) できる。 これは去年、ペトロパブロフスクを撃沈したのと同じ方法である。(185ページ (192頁) 参照)  (p267) (p276)

(注) : ( ) は脱字につき管理人が補足


一体、どこのどんな史料を捜せばこんなことが書いてあるんでしょうか?

既に公開中の 『帝国海軍水雷術史』 をお読みいただいた方はお判りでしょう。 連繋機雷は小田喜代蔵海軍中佐 (当時) の発案でも発明でもありません。

ましてやこの著者が言う 「一号機雷」 という浮標機雷は日露戦争前には存在しません。 通称 「旧一号機雷」 と言われる明治19年に英国より導入したものを若干改良した旧式な機械水雷はありましたが、これは全くの別物です。

そして後に 「一号機雷」 と改称されることになる 「連繋機雷」 は、“通称” 「浮標機雷」 とは呼びません。 通称 「連繋機雷」 と呼びます。 ( もちろん改良連繋水雷以降の連繋機雷は 「浮標機雷」 という “機雷の種別” の一つではありますが、これを “通称” とは言いません。)

旧海軍の公式史料において、この連繋機雷の考案に至る直接の発想は 秋山真之 とされています。 と同時に、同様なものの発案は、山路一善海軍中佐など幾つかのものがあったことが知られています。 そして、小田喜代蔵が提案したという記録はありません。

では、誰が実際に考案したのか?

これは 『帝国海軍水雷術史』 などでも記述されているとおりで、秋山真之の提議により聯合艦隊司令長官である東郷が、小田喜代蔵艦隊附属敷設隊司令及び 特務艦 「関東丸」 の 山崎甲子次郎 工作長等に命じてこれの開発をさせたとされています。 そして実際に最初の連繋機雷完成の中心と なったのが 「関東丸」 乗組の 小山十満洲 海軍大技士であったとされています。

小田喜代蔵が全く関係していなかったということではなく、また組織的にはその担当の最も先任者であったことは確かですが (これ故に当時は最初のものを 「小田式連繋水雷」 と呼ぶ場合も “中には” ありました)、がしかし、これをもって彼の “発明” とするには勿論無理があります。

以上については、上記 『帝国海軍水雷術史』 のみならず、『極秘明治三十七八年海戦史』 でも記述されていることです。

ましてや、「去年、ペトロパブロフスクを撃沈したのと同じ方法」 のものであるはずがありません。 ペトロパブロフスクを撃沈したのは “ロープで結んだ連繋機雷” ではなく、それぞれ独立して敷設する 「二号機雷」 そのままですから。

そして、ついでに申し上げるなら、「二号機雷」 も小田の発明ではありません。 ( これらの件も、第3話の一般機雷の項で詳しくお話しする予定です。)

これを要するに、『別宮暖朗本』 の記述は全くの誤りであり、何の根拠もありません。 ( そして例によって、この本では著者の主張を裏付ける自らの根拠は何も明らかにされていません。)

更には、この連繋機雷の名称は、


   明治37年10月    「連繋水雷」
   明治38年 6月    「特種水雷」
   明治41年12月    「乙種機雷」
   大正 5年 2月    「一号機雷」
   大正10年 9月    「一号機雷甲」 (改良型の 「一号機雷乙」 の採用のため)


と変遷しており、この 『別宮暖朗本』 がターゲットとするのが日露戦争であることを考えれば、この連繋機雷を何の断りもなく 「一号機雷」 と記述することは誤りです。

それに、この著者はどうもこの著者の言う 「一号機雷」 を 「連繋機雷」 という “機雷の種別の一つ” と思っているようです。 でなければ、後編で述べる津軽海峡防備で使用する 「連繋機雷」 の意味がおかしくなります。 即ち、津軽海峡で同時多数使用する連繋機雷が “駆逐艦2隻で曳航するもの” であるはずがありませんから。

もっとも、この著者なら、


浮標とその下の小型機雷1組が 「一号機雷」 で、これをロープで結んで駆逐艦2隻で曳くものが “連繋機雷攻撃法” であり、多数を繋げたものが津軽海峡用の “連繋機雷” だ。


ぐらいは平気で言い出すかもしれませんが。




 連繋機雷の取扱い法


小田は旅順陥落後、駆逐艦乗組員を交代で集め、この連繋機雷攻撃法の訓練を実施した。 そして日本海海戦では具体的戦果を挙げるに至った。 (p189) (p196)



日本海海戦での第四駆逐隊の実戦使用については、この次にお話ししますが、この著者のいうところの “連繋機雷攻撃法” などという有りもしない、あり得もしないものではないことは既にお話ししました。

そして 「旅順陥落後、駆逐艦乗組員を交代で集め」 って、小田がどのような権限で、どの様に集め、どの様に訓練したんでしょうか?

当初の連繋機雷が完成し、実戦配備が始まって以降、駆逐艦乗員を小田のところに集めて訓練したなどという記録は一切ありません。 この連繋機雷を敷設するのに、それ程の特別な専門知識が要るわけではありませんので。

そして、次の例のように、この連繋機雷の 「隔時器」 など機雷本体の取扱・整備については、これは駆逐艦乗員ではできませんので、搭載する各駆逐艦へ “敷設隊から” その専門員を派遣したのです。


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日露戦争以降平時になると、駆逐艦艦尾にレールを設置したり、浮標機雷を大型化させたりなど、改悪が相次いだ。 (p189) (p196)



それまで、日本の駆逐艦は、一号機雷を、2〜4個常備していたのである。 (p189) (p196)



レールを設置したり、大型化することが何をもって “改悪” と言うんでしょう?  まさかこの著者は次のことを本気で考えているのではないでしょうね?  だから改悪だ、と。


専門的な機雷敷設艦がなくとも、三人がかり程度の人力で甲板から海中に投下できる利点があった。 (p188) (p195)



連繋機雷は、その開発の最初から 「落下框」 などの投下装置があり、人力で投げ入れたのではありません。 そもそも、その様なことは揺れる小型の駆逐艦上では危険で不可能なことです。 そして大型化などは性能・能力向上という武器兵器の進歩を考えれば当然のことですが。

そして 「相次いだ」 とは、他に何があるというのでしょう?  この著者、こういうことは何の説明もなく平気で “断定” するのが常です。  

しかも、これを搭載したのが駆逐艦だけだとでも?  駆逐艦に2〜4個常備?


そして、魚雷の航走距離が伸び、速度もあがると、連繋機雷は駆逐隊の武器としては徐々に必要性が薄れ、1927年制式武器から除外された。 (p189) (p196)



魚雷だけの理由でしょうか?  砲戦距離や、海戦の形態は?  1927年 (昭和2年)?


戦時では、水兵の生命の犠牲を覚悟した非常手段・非常訓練ができるが、平時で命をかけた訓練はやりにくい。 (p189) (p196)



一体何を言いたいのか、全く意味不明ですね。 平時の訓練で実機雷を使用するから危ないとでも?  安全措置・対策が講じられていないとでも?

これらのこと総てが誤りであることは旧海軍の公式文書である 『帝国海軍水雷術史』 に記述されておりますので、そちらをご参照下さい。

それにしても、この 『別宮暖朗本』 の著者、本当に何も知らず、何も調べていないんですね。 そしてその上で、海のこと、海軍のことを全く知らず、判らずに、机の上の空想・妄想でものを書いていることがよく判ります。



(注) : 本項で引用した各史料は防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上管理人が付けたものです。




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 最終更新 : 27/Aug/2011