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第2話 海軍式敬礼? |
旧海軍のことについて世の中にまことしやかに言われているものの一つとして、続いて海軍における挙手の敬礼についての話しです。 そうです、例の 「海軍式敬礼」 なるものです。
そもそも一般に言われるこの 「海軍式敬礼」 とはどのようなことでしょう? その様な用語自体がありませんので、本来なら何を示すのかを断った上でなければ全く意味不明です。
おそらくそれは、皆さん方の多くが頭に思い浮かべられるであろうこのような “形” の敬礼 ↓ のことではないかと思います。
( 陛下が敬礼されることはありませんので、この写真は正確には 「答礼」 になりますが。 )
では海軍における敬礼についてはどのように定められているのでしょうか?
これは、旧海軍では 『海軍礼式令』 (大正3年、勅令15号) によって細かく決められています。 その中には室内の場合や、屋外でも執銃、抜刀中などの場合、個人ではなく隊としての敬礼、艦船の敬礼、など多くの 「敬礼」 があります。 艦船相互の敬礼などは、本来ならまさに 「海軍式敬礼」 そのものなんですが (^_^)
これらの種々の敬礼の規定の中で、“室外における徒手の場合の挙手の敬礼” というのが一般に流布するこの 「海軍式敬礼」 というものに該当するわけですが、これについては次ぎのように規定されています。
文章だけでは非常に判りにくいと思いますが、例えば新兵教育のメッカの一つであった横須賀海兵団では、次のような写真が隊舎の出入り口付近などに姿見の鏡と共に掲げられて、これが模範として指導されてきました。
ただし、この敬礼の 「形」 一つとっても、現実には非常に難しいものがあります。 例えば次のように、整列をした上でわざわざ “写真を撮るため” といっても、なかなか同じ形、即ち斉一にはならないからです。
そして上の写真のような集団での場合はともかく、普段の個人の場合は、更に その時の状況や、個癖、 つまり個人個人の癖や好みというものによって、その 形は様々 なものとなりますので、その 「形」 を一律に論じることができるようなものではありません。
実際の例として、有名な写真の中から幾つかをピックアップしてご紹介すると、次のようなものもあります。
繰り返しますが、旧海軍における敬礼は基本形は基本形としつつ、現実にはその時その時、その人その人によって形が異なる、ということです。
そしてこれは、旧海軍自身が敬礼の 「形」 そのものについてはそれほど厳格にしてこなかったということもあります。 それはそうでしょう。 例えば狭い艦内の通路では当然ながら臂を張らない脇を締めた形にならざるをえませんし、逆に広い練兵場に整列した多くの兵員を前にして壇上から答礼する場合には臂を横に張った形になることもあるでしょう。
ですからこれが逆に、終戦近くなって、極端に脇を締めて肱を前に出す “おかしな” 敬礼が一部で言い出され、指導がなされたこともありましたし、またそれを習った一部の旧海軍軍人の中には戦後になって 「海軍の敬礼は ・・・・」 という人達も “中にはいる” ことも確かです。
そしてこれがさも旧海軍における “正しい” 敬礼であったかのように流布されることになります。 “狭い艦内では、云々 ・・・・ ” などともっともらしく。
かつての映画の一シーンで描かれたこれ ↓ などは、その最たるものの典型的な一つでしょう。
( 昭和37年松竹映画 「秋刀魚の味」 の一シーン、ネット画像より )
これでは海軍軍人の挙手の敬礼ではなくて、まさに酔っぱらいが仲間への 「よっ!」 という挨拶の仕草そのものですね (^_^)
そしてネット上の映画などの論評で 「〇〇の敬礼が “海軍式敬礼” でなかったから、あの映画の考証はなっていない」 などと堂々と書いているものも見られます。
しかしながら、残念ながらそれは単に “聞きかじりの知ったか振りさん” でしかありません。 “海軍式敬礼” などと一律に規定できるものはありませんし、全てのシーンで忠実に基本形どおりの表現をしなければならない根拠もありません。 そもそもその様な用語さえないのですから。
まあ、一般の方々に対する話しのネタとして、面白可笑しく語られる分については、それはそれで良いかもしれませんが (^_^)
そこで、この海軍における挙手の敬礼について、何故そうなっているのかを、その起源まで溯って少し話しをしたいと思います。
海軍における挙手の敬礼の始まりはご存じのとおり “脱帽” にあります。 そして、この “脱帽” するということは、組織としての 「儀式」 「儀礼」 ということ以前から、まず 「マナー (礼儀) 」 「躾け」 「身嗜み」 ということから始まっています。
遠く、ギリシャやローマ、そしてカルタゴの時代には、既に艦上の後甲板に祀られた祭壇に向かって脱帽することが行われてたことが知られています。
そしてこれが次第に後甲板、即ち 「Quarterdeck」 という権威 (=指揮官) の場所、そして軍艦旗 (=統治者、王室などに対する遵奉の象徴) に最も近い場所に対するものへと繋がって行きます。
この脱帽という行為が、尊敬や敬意の表現として使われることは、例えば西欧においては今でも教会や祭壇の前、あるいはお墓、特に戦士の墓の前、で一般的に見られることなどで、皆さんご承知のとおりです。
また、個人に対する敬礼というものも、古くは騎士の時代にその冑や帽子の庇を上げて互いに顔をよく見えるようにしたことが始まりとも言われています。
そして、階級差というものが大変に厳しかった時代ですから、下の者が上の者に対して帽子や頭巾などを取るという “形” を伴った挨拶が求められたことは、当然の成り行きでしょう。
こうして、海軍における個人の敬礼も、“脱帽” という行為によって始まったわけですが、当時の海軍における候補生 (midshipman、middy) 以上の帽子はご存じのとおり、いわゆる 「仁丹帽」 です。
( Charles Rathbone Low 著 「Her Majesty's Navy」 より )
この帽子を艦上において如何に “スマート” に扱って脱帽するかが、紳士たる士官のマナー、身嗜みとして重要な事項であったことは、想像に難くありません。
( Jean Randier 著 「La Royal」 より )
この様な伝統と慣習に則って、19世紀の初め頃までは、英海軍においても、上官に対しては脱帽することが “躾け” られていたとされています。
そして、19世紀の半ば頃になると、この躾けは脱帽する場合と、単に帽子に手を触れるだけで実際には脱帽しない場合に別れてきました。 段々と “形” という形式が重んぜられ、今日のような 「儀式」 「儀礼」 に近づいてきたわけです。
色々なケースがありますが、例えば上官が下級者に答礼する場合は触れるだけ (触れる素振りだけ)、あるいは軍艦旗などに対する場合は脱帽するが上官に対する場合は触れるだけ、などなどです。
特に、士官の艦上における帽子が、正装する場合を除いて、通常は仁丹帽からいわゆる今日の 「軍帽」 になってきたことは、この帽子に手を触れる形式に拍車をかけたものと考えられ、今日の挙手の敬礼への移行が始まったと言えます。
1882年の英海軍の規則では、次の様に定められていました。
海軍における敬礼は、帽子に手を触れるか脱帽により、受礼者を眼前に見た時に行うものとする。 提督、艦長及びそれと同等の士官は常に脱帽の敬礼を受けるものとする。 (意訳)
ところがこの英海軍では、1890年の国王祝賀会において、出席した海軍士官及び下士官兵は揃って脱帽して起立しましたが、この姿がビクトリア女王のお気に召さず、以後挙手の敬礼のみとすることが布告されたとされています。
したがって、英海軍ではこの時点で長年の “脱帽” という伝統と慣習から、儀式・儀礼としての挙手の敬礼に切り替わりました。
もちろん海軍におけるこの挙手の敬礼が、「仁丹帽」 を脱ぐために帽子に触れる動作が基本になっていることは申し上げるまでもありません。
つまり、英国やフランスの陸軍のように、手に何もないことを示すために掌を表に向けるものとは、その意味が異なると言うことです。
それでは、旧海軍における個人の敬礼はどの様に始まったかと言うことですが、残念ながら明治初めの創設期の頃のことについてはよく判りません。 しかしながら、旧海軍そのものが英海軍に範をとったことから、敬礼などについてもほぼそれを踏襲したものと考えられます。
現在のところ、この旧海軍における敬礼について定められた最も古い公文書は、明治18年制定の 『海軍敬礼式』 です。 この中で、挙手の敬礼について次の様に規定されています。
第四条 凡そ軍人の敬礼は挙手注目とす其方姿勢を正ふし右手を挙げ五指を伸し掌を左方に向け食指を帽庇の右側に当て敬礼を受く可き人に注目す答礼も亦之に準ず (後略)
ここで、注意していただきたいのは、この時の規定においても、肱の位置がどうのこうの、等という “形・姿” を画一化する文言は入っていないということです。 これは、海軍における挙手の敬礼の原型が、脱帽に至る手の動きであることを考えればその理由がお判りいただけるでしょう。
そして、国旗 (明治22年以降は軍艦旗に対して) と、天皇以下の皇族に対しては “脱帽” によることとされています。 例えば次のとおりです。
第二条 凡そ軍人 天皇に行ふ敬礼は正面して其姿勢を正ふし帽を脱し之を右手に持ち体の上部を傾け拝するものとす
第十三条 軍艦停泊中国旗昇降のときは (中略) 甲板上の者及び端舟番は之に面し直立脱帽し (後略)
即ち、明治18年の段階ではまだ脱帽による海軍の伝統と慣習が完全に無くなってはいません。
そしてこの脱帽の敬礼が礼式上無くなったのは明治30年の 『海軍敬礼式』 の全面改訂で、以後国旗・軍艦旗及び皇族に対しても全て挙手の敬礼となりました。 この挙手の敬礼のやり方は改訂前と同じです。
ここにおいて、旧海軍においても敬礼というのが伝統と慣習に基づく 「礼儀」 「躾け」 から、完全な 「儀式」 「儀礼」 に切り替わったと言えるでしょう。
一方の旧陸軍はどうだったのか。 私は陸軍は専門外ですが、判っている範囲でお話ししますと、
明治6年制定の 「陸軍敬礼式」 では、次のとおりとされています。
第六条 将校の敬礼は帽の紐を顎に掛けるときは右手を挙げて帽に及ぼす若し紐なき時は帽を脱す
第七条 下士官及び兵卒は帽の前庇の右側に右手を当て掌を外面に向け肘を挙げて肩に斉くし敬すべき人に注目す (後略)
つまり、将校についてはまだ脱帽の伝統・習慣が残されていることが判ります。
そして将校も全て挙手の敬礼となったのは明治20年のことです。 即ち、明治20年に 『陸軍敬礼式』 が全面的に改正され、新たに制定された 『陸軍礼式』 中の 「乙 室外の敬礼 其一 通則」 において、次のとおり規定されました
第一項 軍人室外の敬礼は挙手注目とす其法姿勢を正し右手を挙げ諸指を接して食指と中指を帽の前庇の右側に当て掌を稍外面に向け肘を肩に斉くし受礼者又は敬すべきものに注目す
そしてここで注意すべき点は、旧陸軍においては既に明治6年の時点において 挙手の敬礼時の肘の高さが肩と同じと規定 されていることです。 これによって敬礼の “形” がかなり制約され、明確となっています。
これに対して旧海軍では、敬礼の要領及び “形” については、艦上を含むその場その場の状況に応じた “臨機応変” な対応を求めていることは既に説明しました。
このことは、『海軍礼式令』 の次の規定でも明確にされています。
第十二条 本式に規定せざる場合若くは艦船の構造運用上及び演習等に依り本式の規定を運用すること能はざるときは適宜之を取捨することを得
つまり、海軍における敬礼はその 形式的な “形” の画一性には必ずしも拘らない、本来の本質や規定の主旨を踏まえていればよい ということです。
この様な規定は旧陸軍にはありません。 全体としての 形式の画一性を求めることが旧陸軍の特徴 とするなら、これが 旧海軍の “科学的合理性” という特徴 の現れと言えます。
とは言え、旧海軍においても教育訓練においては、まず何等かの “形” を教えなければなりません。 特に海兵団や兵学校などにおいて、一度に数十人、数百人に教えるような場合に置いては、その教育内容の統一を図るために “基本の形” を決める必要が出てきます。 これの一つが、前述のとおり例示した海兵団における “模範形” の写真であるわけです。
しかし何度も申し上げるように、これが 「正式」 な形であるわけではありません。 あくまでも 教育訓練上の “一つの形” であり目安 に過ぎないわけです。
これは今次大戦の末期にその一部において行われた、極端な、いわゆる今日流布される 「海軍式敬礼」 と言われるものについても同じことです。 それも “一つの形” なのです。
が、それら臨機応変に行われる (理由は様々ですが) ものの一つ一つを 「正式」 とは言いません。 全て規則に定められたものの応用・適用 に過ぎないわけです。
当然ながら、旧陸軍のような肘を肩まで上げた敬礼をしたとしても、それはその時の状況などによってはあり得ないわけではなく、しかも敬礼の形として “誤り” であるわけではありません。 「海軍礼式令」 の規定を外れない限り、それも一つの “応用・適用” なのです。
旧海軍の科学的合理性とはこういうものです。
(注) : 本項で使用した画像は特記したもの以外は全て当サイト保有の史料からです。
最終更新 : 29/Jun/2016