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6-2.砲術教官を命ずる (後編) |
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(4) 砲術年報の編纂
海上自衛隊の各術科学校において、ほとんどの教育部各科の年中行事となっているのが 「術科年報」 の編纂です。 この術科年報は海自の 「兵術年報及び術科年報に関する達」 という規則によって作成が定められているもので、各術科学校長が所掌する術科についての編集者となります。
当然ながら砲術については1術校長がその編集者であり、実際の編纂作業は砲術科が当たることになります。 しかしこれが実に大変な作業なんです。
「砲術年報」 は昭和31年に海自で最初のものが作られましたが、作成担当は暫くは海幕防衛課でした。 その後各術科学校の態勢が整うとともに術科年報の作成も現在の形になってきました。 そして、この砲術年報も昭和31年の初版では約90頁程度のものでしたが、皆さんお判りの様に、こういう物の性質上データ収集の体制が整うと共にどんどんと厚くなるものでして、私が砲術科に着任する前に出されたものは実に450頁を越えるものに膨れあがっていました。
「砲術年報」 は毎年だいたい次の項目で構成されていました。
(1) 一般事項 : 編纂年度における砲術に関する包括的内容で、艦艇長以上向けのもの。
(2) 教育訓練 : 学校教育と部隊での訓練に関する項目で、この部隊訓練の中に訓練射撃における各艦の1年間の結果・成績が詳細に分析して記述します
(3) 造修・保存整備 : 就役・改造艦艇の状況や各艦艇での整備状況に関する項目で、各艦の砲熕武器の故障状況なども詳細に記述します。
(4) 研究及び試験 : この中には1術校が主担当となる第1術科研究会という大きなテーマを含みます。
(5) 事故 : 当該年度中に砲熕武器システムの操作・運用に関わる人員事故と武器事故があれば記述します。
(6) 参考事項 : 上記以外で砲術に関する参考事項があれば記述します。
(7) 射撃指揮官一覧表 : これによって上記 (2) の成績と合わせて、誰が上手い・下手だったかを海自全体に “全軍布告” することになります (^_^)
当然ながらその主体となるのは訓練射撃の成果とその分析結果です。 当時、各艦から1術校に届く訓練射撃報告は、対空射撃と水上射撃を合わせて年間約1600〜1700件でした。 これだけの報告書の中から、必要なデータを取り出して武器体系や砲種、訓練種別 (例えば対空射撃なら標的の種類や標的航過の区別など)、や個艦ごとに分けて集計し、それに基づいて命中率などを分析します。
勿論こんなことを毎年やっていたのでは砲術科本来の教育・研究業務の実施に支障が出てきますので、射撃結果の集計・分析について、あまり重要でない砲熕武器システムや艦種のものは記載を止めることとしましたが、それでも砲術年報の総頁数が350頁を下回ることはありませんでした。
私が着任する前までは、教官総員で手分けしてこれを総て手作業で行っていのです。 もちろん、射撃結果の分析だけでなく、故障や操法違反などが無かったか、射撃指揮の不具合は無かったか、などなども報告書を読んで分析し集計しなければまりません。 大変な労力を要していたのです。
幸いなことに、やっとこの頃パソコンが何とかビジネス機器としてもそこそこ使えるようなレベルになってきたところでした。 たまたま1術校でも 「教育技術科」 や 「電子第1科」 を中心として、タイプ訓練など教育用に導入しようとする動きがありました。 何故か当時のパソコン界で圧倒的なシェアを誇っていたNEC製のPC9800シリーズではなく、沖電気製のIF800シリーズという “超マイナー” 、いやある意味 “超マニアック” なものでしたが。
そこで、砲術科でもこのIF800のModel50 (←) を一台借り受け、この厖大な射撃報告書の整理を何とかしようと考えたわけです。 必要なプログラムは横須賀にあるプログラム業務隊に作成を依頼しました。 皆さんご存じと思いますが、当時のパソコンは、まだワープロ・ソフトさえ満足なものはありませんでした。 (やっと熟語変換や文節変換ができるかできないか、というレベルでした。) したがって何か特別なプログラムが必要な場合には、業者に高いお金を払って製作してもらうか、そうでなければ自分達で作る以外にはなかったのです。 BASICやアッセンブラー、機械語などで。 私が着任した時に、やっとプログラム業務隊で出来上がったこのプログラムが届いたところでした。 |
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(財)情報技術学会HPより |
ところが、届いたプログラムは射撃データの集計用だけしかなく、肝心な分析用がありませんでした。 砲術科としてもパソコンが使い物になるかどうか取り敢えず試験的に集計用だけ作ってみよう、と言う事だったようですし、プログラム業務隊もパソコンのことなどに人手を割く余裕はない、と言うのがその理由のようです。
パソコンの能力が最も活かせる分析プログラムが無いなんて ・・・・ じゃ自分で作ってしまおう!
私はプログラミングは既にお話ししたようにプログラム業務隊で経験済みですし、パソコンも自分でPC9800VM2を保有していましたので何とかなるだろうと思ったわけです。 ところがどっこい、このIF800シリーズというハードウエアそのものと、搭載されているF−BASICなるものが意外とくせ者で、PC9800とN88−BASICに慣れていた私は返って両者の違いで手間取ってしまいました。
それでも、通常業務外の時間を割いて約1ヶ月ぐらいで何とか作り上げました。 分析のアルゴリズムそのものは別にどうと言うことはありませんから、プログラムさえ組んでしまえば、あとはプログラム業務隊で作ったやつを使って集計したデータを持ってくれば良いわけです。 最小二乗法で1次〜n次まで任意のもの、そして任意の値の信頼区間、等々を出力できるようにしましたし、組合せによって色々な分析が出来るようにしました。
最も苦労したのが、分析結果を表やグラフにしたものを砲術年報でそのまま原稿に使えるようにサイズや書式をピタッと合わせることでした。 現在のパソコン・ソフトとプリンターならどうと言うことはないのですが、今では当たり前のアウトラインフォントさえ無い時代、当時のワイヤードット・プリンターでの印刷にドット単位で調節したプログラムを書くことが必要なのです。 例えばこんな (↓) 具合にです。
(校内説明用に作成した資料からのもので、データは総てダミーです。) |
命中率曲線などのグラフ一つにしても、これまでは担当者が手計算した信頼性区間を見ながらエイヤッの “目の子で” 手書きしていたのに比べれば、相当な信頼性・精度の向上になりました。
プログラム業務隊で作成した集計用プログラムに彼らは 「Sparrow」 と名付けてきましたので、私の作った分析用は 「Falcon」 と名付けました。 そして、翌年度分からはこれを全面的に活用した射撃報告のデータ整理に使い始めることになりましたので、このパソコンを使ったデータ処理を活用する砲術年報の改善について、その年の中級幹部課題対策として纏めました。 (↓)
射撃データはダミーを使用して秘密文書指定にはせず、一般向けの内容にしましたし、我ながらなかなかよく纏まっていると思っていたのですが、しかし残念ながら年度優秀課題対策には選ばれませんでした。 パソコンなど触ることもなかなった上級の幹部達にとっては “たかがパソコンを使ったぐらいで” という雰囲気だったと記憶しています。 もっとも、これは当時としてはパソコンに絡んで世間一般のビジネス界でも同様なことをよく耳にする話しではありましたが。
もう四半世紀も前になる、まだパソコンがよちよち歩きの時代のお話でした。 (う〜ん、今の若い人達には想像もつかないことでしょうねぇ。)
(余談ですが) 年報の作成は、当該年度のデータが各部隊から総て出揃うのが翌年度の1/四半期になります。 それから分析を始めて原稿を作り、科内審議、部長審議、そして学校長報告を終えて印刷に回します。 すると出来上がったものを部隊に配布するのは翌年度末になり、部隊が実際に使えるのは翌々年度になってしまいます。 部隊ではこんな2年遅れの古い分析データを貰っても役に立たちませんし、しかも秘密文書ですから、結局は金庫の肥やしになってまうというのが実情でした。
ところがこの射撃データ処理用の 「Sparrow」 と私の作った 「Falcon」 を使えば迅速に集計・分析が可能です。 そこで、着任の翌年に先任教官になっていた私は、これを使って各四半期の始めにその年度のそれまでの各艦や武器体系毎の分析データ綴を作って隊司令部以上に配布することにしました。 これですと次の四半期の訓練計画にも活かせる訳です。 実際、そのような所見を部隊からも貰いました。
しかし、私が砲術科から転出した後しばらくして、これは取り止めになってしまいました。 何故か? 四半期毎に大量の秘密文書、それもその次の四半期には不要になる、を作成する側も面倒なら、受け取る側も面倒。 秘密文書の作成と印刷・登録・送付・接受・保管・貸出・破棄といった担当者の事務が繁雑になる。 これが理由でした。 情けなくなりましたね。
(5) 指揮幕僚課程選抜試験を受ける
幹部中級課程を終わると 「指揮幕僚課程」 (通称 「CS」 ) と 「幹部専攻科」 の共通選抜試験を受験する資格ができます。 これは1尉〜3佐の間に3回まで受験することができます。 そして、選抜試験の合格者の中からCS課程と幹部専攻科のどちらかに振り分けられますが、受験者自身がどちらかを選択することは出来ません。
私も 「あまつかぜ」 勤務時にその資格が出来ましたが、ハッキリ言って艦艇勤務の中級幹部に受験勉強をするような余裕はありません。 したがって、これを理由に受験しなかったわけですが、陸上勤務に回されてしまうとその言い訳もできなくなってしまいます。 しかも所帯まで持って、一応生活環境は安定しましたので。
それに、受かる受からないは別にしても、ともかく形だけでも受験しないことには、上司から “お前には (幹部自衛官として) 向上心がないのか?” という評価を受けるような風潮があったこともまた事実でした。
陸上自衛隊などでは、この指揮幕僚課程 (陸は 「CGS」 と言っています) を卒業することによって人事が方面隊から中央の幕僚監部に移り、まさに出世コースを歩むことになりますが、海上自衛隊ではこれほど酷いことはありません。 それに合格したは良いけれどCS課程の中で素質・能力のなさを暴露した成績で卒業すると、むしろCS課程を出なかった方が良かったということにもなります。
とはいえ、一般的にはやはりCS課程を出た方が色々な経験をさせて貰える職・配置に就けることは確かです。 で、半分は仕方なしに、1術校に転勤となった翌年の試験を受けることになりました。
選抜試験は1次と2次の2つがあります。 1次は筆記試験で、全国主要基地の会場で受験します。 2次は口頭試問・集団討論で市ヶ谷 (当時、現在は目黒) の幹部学校で1次の合格者に対して行われます。 1次、2次共に3日間です。
1次の筆記試験は、4種類に分かれています。 第1日目が英語と素養問題。
英語は、英訳と和訳、それに英文を読んで設問に答えるもので、合計の試験時間は3時間です。 辞書持ち込みなので、これは専門用語や慣用語にさえ気を付ければまあ何とかなります。
そして1時間の食事休憩を挟んで素養問題。 海自全般の勤務・業務からの他、法令・法規、時事、戦史など幅広い範囲から20問出題され、試験時間5時間です。 回答は1問につきB4用紙1枚を使います。 これは少しでも質問に合っていることが書いてあれば点数になりますから、思いつくままにありとあらゆることを書き連ねることが “コツ” でした (^_^;
後で知ったことですが、この第1日目の素養試験で一定以上の点数を取らないと足切りをされて、2日目と3日目の採点はされないことになっていました。 (これは今はやらないそうです。)
2日目は小論文。 2問出題され、一般刊行物から採った安全保障や時事問題、指揮統率に関する論文を読んだ上で、設問に対して論述するものです。 1問につきB4用紙3枚ぐらいに纏めますが、全体で試験時間は6時間。 途中で30分の食事休憩がありますが、もちろん室外には出られませんので自分の机に座ったまま持参の弁当を食べます。 これも論述の仕方を整えることに気を付けさえすれば、まあ内容的に特に難しいということはありません。
そして最後の3日目が専門課題の論文作成です。 これは各人の専門術科別 (私の場合は 「射撃」) に応じて与えられる課題に対して答えるものです。 朝8時半から夕方9時半まで、途中で30分ずつ2回、持参した弁当を食べながらの休憩が許され、12時間かけて大体B4用紙10〜12枚ぐらいの論文を書きます。
確か私の課題は 「経空脅威の高性能化、多様化にかんがみ、護衛艦におけるASMD能力向上のための採るべき方策について論述せよ。」 でした。
当然ながらこの最後の専門課題が最も重視され、点数配分も大きくなっています。 しかも海上自衛隊には 「市ヶ谷論文」 と言われる独特の論述方式、つまり書き方がありまして、基本的にそれに沿った流れと幅・深さを満たさないと、どんなに優れた事を言っても点数は低くなります。 これが慣れるまでが大変なんです。
私が受験した時は、3月末の金・土・日で、外は有名な江田島の桜が満開、校内を一般の見学者が大勢ぞろぞろ歩いていましたが、大変に寒い3日間だったことを覚えています。 膝に毛布を巻いてホッカイロを胸の内ポケットに入れて ・・・・。
前年末に 「あまつかぜ」 から転勤してきてからの受験ですから、受験勉強の時間が足りなかったことは事実で (いえ、別に新婚生活のせいだとは言いませんが)、私としては2日目や3日目はともかく、足切りのある1日目の素養問題では本当に危ないところでした。
で、めでたく1次に合格して、次は2次試験です。 毎年、1次試験から大体2〜3ヶ月後に行われます。 この2次もまた受験する者にとっては厄介なものです。 先にも書きましたように、2次試験は幹部学校に集められての口頭試問と集団討論が3日間です。
口頭試問・集団討論とは言っても、受け答えの内容だけではなく身嗜みや立ち振る舞いも総て見られますので、事前の散髪などは勿論のこと、受験者は大体が制服一式を新調します。 思わぬ出費で、特にこの年に指定された試験時の服装は今は無きグレーの第1種夏服でしたから。 (因みに、現在の第1種である白の詰め襟は、当時は第2種でした。)
試験官は3日間とも一組が将補の長1人に佐官2人の3人構成ですが、各受験者には毎日3人とも必ず違う試験官が当たるようになっています。 出来るだけ多くの目で人物評価ができるようにしている訳です。 そして佐官2人が色々質問するのを将補が黙って聞いているのが普通で、もしこの将補が質問した場合は余程変わった答えをしたと思えば間違いありません。
第1日目は個人試問で、与えられた小論を読んでその要約を口頭発表した後に、試験官からの関連質問に答えて行くものです。 まあ、この日は言ってみれば翌日の小手調べみたいなものでもあります。 一人の割当時間は小論を読むところから始まって大体30分程度です。
2日目が同じく個人試問で、今度は 「情勢判断」。 2次試験のメインです。 防衛出動、海上警備行動、災害派遣などのいずれかについて出題される状況を与えられた図表などの資料から判断して、自分が指揮官ならどうするかを次々に問われるものです。 これも一人大体30分程度。
あ〜言えばこう言うで、佐官2人が連携をとって受験者がどう答えようとも異論、反論を投げかけて追い詰めて行きます。 「何故だ?」 「本当か?」 「そんなことしたらこうなるんじゃないか?」 「次はどうするんだ?」 ・・・・ いわゆる 「連続圧迫試問」 です。 この試験官の圧迫に負けて簡単に 「あっ、そうでした。では、こうします。」 などと言おうものならほぼアウト間違いなし。
しかも、1日目も2日目も受験者の目の前に置かれた演台は、さすが市ヶ谷で例の東京裁判時に使われたものという演出でした。 この話しは中級幹部なら誰でも代々先輩達から聞かされていましたので、皆よく知っていました。 これも精神圧迫の一つの手段なんですね。
ところが、私はこの1日目も2日目も、何と20分ぐらいでいとも簡単に終わってしまったんです。 受験前に色々聞かされていたものですから “やけに早いな 〜?” と思いつつ控室に戻ると、当然ながら同時に受けたグループの他の部屋での受験者はまだ誰も戻ってきていません。
2日目などは、たまたま控室の清掃をしていた幹部学校勤務の海曹がビックリしたように 「えっ、もう終わったんですか?」 と真顔で言うんです。 これにはちょっと本気で心配になりました。 余程出来が良かったか、その反対かしかないからですが、普通はその前者とは誰も考えませんから。
最終日の3日目は集団討論で、与えられたテーマについて10人ぐらいの受験者のグループで討論をします。 これも約30分程度ですが、これは要領さえ判っていれば簡単です。 黙っているのも良くないが、一人で喋りすぎないこと、そして他人の意見をよく聞く (ふりをする) こと、これです。
結論を言うと、30歳代の半ばにもなっての「受験」でもあり、1次も2次も、合格しようがしまいが、1度受ければ決して2度と受けたいとは思わないシロモノですね。 まぁ、最低ラインであっても無事に合格できましたので、結果オーライですが。
(余談ですが) 3自衛隊共通しての 「統合」 が叫ばれる今日、上級・高級幹部の陸海空横並びの比較にこのCSやCGS課程を出た・出てないが問題になってくるようで、結局海自も陸自などと同じ方向に動かざるを得ない傾向にあるようです。 特に各陸海空幕人事から内局人事となる1佐以上の昇任や補職では、紙の上でしか判らない小役人にはこの経歴が重要視されるようです。
そして当然の結果として、旧海軍以来、術科技量というものを重視してきた海上自衛隊においても、その道のプロとして同じ試験を受験して振り分けられる幹部専攻科出身の者達は相手にされなくなってきました。 術科軽視の傾向はここでも顕著なのです。 私に言わせれば、何だかお勉強や口先ばかりで出世して国を誤った旧陸軍の 「天保銭」 を感じさせて、実にイヤ〜な気がしますね。 そして何よりも、本来の船乗りとしての実力は二の次になってしまってきていることに危惧を感ぜずにはおれません。
(6) 忘れ得ぬ人
この選抜試験の受験に際して、私には終生忘れ得ぬ人の一人となる方と再会することになります。 その人は故 杉原裕介 氏と言います。
杉原氏からは以前に幹部中級課程の時に共通教育期間中の教務で教えを受けています。 統率科の教官で、学生指導、というより後輩の育成には大変熱心で、意欲のある学生にはどんどん勉強の仕方を教え、資料などの提供も惜しまない、という方であったと記憶しています。
その当時既にあと何年の命かという大病を患っておられたのですが (これは中級課程を出た後になって知りました)、それにも関わらず、そのようなことはおくびにも表すことなく勤務に励んでおられました。
その杉原2佐が、私が砲術科教官として戻ってきた時もまだ統率科におられ、そしてCS課程受験の相談に応じているという話しを聞きましたので、受験準備を始めていた私もその指導を受けることにしました。 氏の指導を希望して集まったのは、1術校全体から10名ぐらいだったと思います。
結果として、試験に合格できたのもこの杉原氏のお陰と言っても間違いありません。 それは痒いところに手が届くような配慮でした。 平日の勤務時間が終わった後に、空いた教室に希望者を集めての指導です。 素養問題の書き方、小論文の纏め方、英語問題の解答の仕方、そして何と言っても専門課題の論文作成法。 何度も何度も繰り返して教わりました。
試験が近くになった時には、模擬試験だといって金曜の夕方から翌土曜日まで泊まり込みでやったこともありました。 毛布持参、夕食と翌日の朝食は女房に弁当を持ってこさせて。
そして、1次に合格した者には、2次の面接や口頭試問の受け方を何度も何度も例題を作って反復練習し、事細かに指導いただきました。 ですから、実際の2次試験ではそれに沿って演技をしているような気持ちでした。
これらは総て杉原氏が自発的にやられたもので、学校長や部長・科長などの指示があったわけではありません。 ご自分の通常の勤務とは全く別に、しかも所属科や職種 (氏は航空整備) に関係なく希望者を集めてです。
少しでも後輩の育成に役に立つなら、との熱い思いでした。 ご自分の命の残り少なさの代わりを私達に託されたのでしょう。 1次に合格し、そして幹部専攻科に選抜され、それぞれ氏のところにお礼を言いに行った時には、我がことのように喜んで下さったのを覚えています。
しかしながら、私が同課程を終えて暫くしてから氏がお亡くなりになったことを聞きました。 艦艇勤務でしたので葬儀にも顔を出せなかったのが今でも心残りです。 ・・・・ 合掌
もう時効でしょうから書いてもいいでしょう。 1次試験の3日目、専門課題の論文作成の時の試験監督官が氏でした。 12時間の間に2回の食事を取りながら一つの論文を書き上げる作業です。 私達は普通に持参の弁当を食べて続けますからいいのですが、氏は病の関係で一度に多くは食べられませんでしたから、これは私達より氏の方がきつかったと思います。 そして桜の季節とはいえ大変に寒い日で、私達は毛布を膝に巻いての一日でしたから、氏はなお大変だったでしょう。
氏はほとんど部屋の後ろで椅子に座っておられましたが、時々私達の机の回りをゆっくり回られます。 試験時間も終わり近くになって、氏が私のところで立ち止まられましたので、私もこの際と思ってほぼ書き上げたものをそれとなく並べ、そのまま書き続けました。 暫く見ておられましたので、そこで私も何気なく見上げたところ、氏が無言のまま、ゆっくりとうなずかれました。 あっ、これできっと論文は合格できるな、そう思いました。 嬉しかったです。
最終更新 : 12/Jun/2016