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6-1.砲術教官を命ずる (前編) |
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(1) 遂に年貢を納める
幹部中級射撃課程を卒業した時に、ある意味で特命を帯びて 「あまつかぜ」 砲術長に補職されたわけで、これはこれで大変やり甲斐がある勤務となったわけですが、やはり海自幹部自衛官の “習性” で1年も経つとそろそろお尻がムズムズしてきます。 次の配置は 「乗組幹部」 ではなくて、他の中級課程卒業者と同じような 「補職の職」 への転勤の話しはないかな 〜〜〜、っと。
しかも在任中に3等海佐に昇任しましたが、当時の海自で3佐の砲術長などは他に例が無いことでしたので、別に私が高望みをしていたわけではありません。
もちろん途中で色々な転勤の話しも実際にあったようです。 “あったようです” というのはその時々で艦長が直接話してくれたわけではないからです。 しかしながら、私の砲術長在任中に3人の艦長に仕えましたが、交代した二人目、三人目の新しい艦長が 「あまつかぜ」 のこの特異な砲熕システムの運用を心配して、改造工事から担当した私をそう簡単に手放す気にはなれなかったというのが、長期間の据え置きとなった理由のようです。
そんなこんなで2年3ヶ月してやっと転勤となりましたが、次の配置はこれまた希望に反した 「第1術科学校砲術科教官」 という陸上勤務でした。 「船に乗りたい」 という理由でこの世界に入ったにも関わらず、しかも若年幹部の間にあまり乗せて貰えなかった訳ですから ・・・・ 実は、またしても本人の希望以外のところで “ある思惑” が働いていたのでした。
この時私は30代後半に入ろうかという歳になっていましたが、まだ独身でした。 候補生学校の同期でまだ独身だったのは、私を含めてもう2〜3人しか残っていなかったと記憶しています。 別に結婚をしたくないと言うわけではありませんでしたが、その前にまず “船乗りとして一人前” という自覚ができてから、という思いがありましたので、何となくズルズルとしそびれていたというのが実情です。 そんな時に家の方から縁談話がありまして、見合いをして、まあ暫くお付き合いを、ということになっていました。
これを知った艦長が 「このチャンスに結婚させないと、こいつは独身のままになるかもしれん」 と思ったのです。 見合いの相手は (元) 自衛官の娘さんではありませんでしたが、たまたま呉在住でしたので、食・住完備の艦艇勤務から呉・江田島方面の陸上配置にしてしまえばあきらめて結婚するだろう、と “気を利かせた” 結果だったのです。 この話しは後に当時の艦長から聞きましたので間違いないことです。
まあ、その思惑どおり、江田島という独身幹部にとって勤務以外ではほとんど (全く?) 楽しみのない日々の環境に追いやられましたので、これはもういくら何でも所帯を持つ以外に無かったわけで ・・・・ (^_^;
(2) 砲術科教官勤務
海上自衛隊には第1〜第4の 「術科学校」 というものがあります。 これは航海や機関、航空機の操縦や整備、経理・補給などそれぞれの専門分野、いわゆる 「術科」 というものを幹部や海曹士に教育するところです。 まさに海上自衛隊が精強な武力集団であるための知識・技能の根幹に関わるところと言えます。
江田島の第1術科学校 (通常、略して 「1術校」 と呼びます) は、機関 (第2術科学校所掌) を除く艦艇に関する全ての術科教育を担当するところで、4つの術科学校の中では最大規模の学校です。 そしてその中でも更に 「砲術科」 は旧海軍からの伝統を引き継いで名実共に1術校の、そして海上自衛隊の全ての術科教育における “筆頭科” として君臨していました。
その砲術科は、1佐の 「砲術科長」、科長の全般補佐をする3佐〜2佐の 「先任教官」、その下に 「射撃班」 と 「射管班」 の2つの教官班が編成されていました。 射撃班は主として砲熕武器、射管班は主として射撃指揮装置が担当です。 各班には幹部及び海曹教官がそれぞれ十数名ずつおり、1尉〜3佐の幹部が班長となってそれぞれ 「射撃主任」 「射管主任」 と呼ばれていました。 私が着任した当初はこの 「射撃主任」 でした。
因みに、当時の砲術科教官室は射撃指揮装置1型と5インチ54口径単装速射砲の実機教材のために作られた 「第2砲術講堂」 の中に置かれていました。 同講堂にはその教材の為の空調設備がありましたので、まだエアコンなど満足になかった当時の1術校の中で、ここだけは快適な環境でした。
幹部教育は、幹部中級射撃課程は先任教官が課程主任として、そして幹部任務射撃課程は射撃主任と射管主任が交代で課程主任として、それぞれの総括を担当していました。 これらの課程の他に、幹部中級水雷課程での砲術教育や、他の術科学校が所掌する幹部中級課程での共通教育部分を全て1術校に集めて実施していましたので彼らに対する砲術教育、等々があり、砲術科長以下総員が一人宛相当な年間教務時間を抱えていたことになります。
(ご参考までに) 海曹士の課程は、教育そのものは砲術科が所掌しますが、1術校全体の海曹士学生全てが船での生活と同じように学生館の中で「学生隊」として起居しますので、担当教官は課程教育と生活・服務指導とを合わせて行うことになります。 したがって、射撃班及び射管班の海曹士課程の担当教官も学生隊の中に組み込まれて、幹部は 「分隊長」 「分隊士」、海曹教官は 「分隊付」 としても勤務することになり、通常の勤務は砲術科ではなく学生館の中に分隊事務室を構えてそこですることになります。
もちろん課程教育だけをやっていれば良いわけではなく、術科学校は教育と並んで所掌術科についての研究任務も付与されていますので、陸上配置とは言いながらそれだけでも大変多忙な勤務であることは事実です。 それに加えて、当然のことながら1術校砲術科は全海自の砲術についての主導権を握っているわけですから、各教官個人に要求されるレベルは非常に高いものがあります。 砲術についてのオーソリティー (権威) としての立場を維持し、「1術校砲術科の言うことだから間違いはない」 と言われなければならないのです。
したがって、またまた勉強させられました。 教えるにしても研究するにしても、自分自身が本当に解っていなければなりませんから、その努力によって初めて本質が理解できるようになると痛感した次第です。 しかも1年5ヶ月の勤務の間に、当初の 「射撃主任」 から、幹部教官の人事異動に伴って数ヶ月で 「射管主任」 へ、そしてその後に 「先任教官」 までやらされましたから、良い意味で大変な経験をさせて貰ったと思っています。
私が着任した当時はもうさすがに旧海軍出身者は残っていませんでしたが、彼らから直接指導を受けた超ベテランの幹部や海曹の教官が揃っていました。 いわゆる 「神様」 と呼ぶに相応しい人材がまだ大勢砲術科にいたわけです。 そんな中で幹部中級課程卒業後に砲術長配置を1つ経験しただけの者が主任として付くのですから、私にしてみればそれはもう毎日が修行みたいなものです。 反面、彼らから様々なノウハウを学ばせて貰えたことは、私の後々のための貴重な財産となったことは確かです。
特に海曹からのたたき上げである二人の幹部教官、射撃の 伊達忠男 3佐 (当時) と射管の 出羽邦昭 3尉 (当時) は出色で、豊富な実務経験に裏打ちされた知識・技能はメーカーの技術者達も完全に舌を巻くようなレベルであり、まさに 海上自衛隊の至宝と言える人材 でした。 私も個人的に大変な教えを受け、今日このようなサイトを開けるのも遠くはこのお二人がおられたからこそで、今でも砲術について本当に心から尊敬する私の “師匠” です。
砲術科長交代時の教官総員での記念写真 |
(3) 第3砲術講堂の怪
この話しは私が直接担当した事ではありませんで、Y1尉 (当時) がやっていたのを隣で見聞きしていて “?” と思ったことです。
私が砲術科に着任した当時、既に艦隊では 「はつゆき」 型が着々増勢され、建造は次の 「あさぎり」 型に移行しつつある時期でした。 これらの艦艇に搭載する76ミリ単装速射砲と射撃指揮装置2型−21の教育は既に正規の課程として始まっていましたが、1術校で座学を実施した後に、これら艦艇に実習に出かけて実技を実施していました。
そこで、遅ればせながらもやっとの事で大蔵省 (現在の財務省) で予算が認められて、教育用として砲術科にこれらの実機教材が整備されることになりました。 私が着任したのは、それらの実機教材を入れる新しい 「第3砲術講堂」 も大蔵省で認められて、その建物の詳細検討が行われている時でした。
ここで珍事というか、怪事が発生したのです。
この 「第3砲術講堂」 には、76ミリ単装速射砲及び射撃指揮装置2型−21の実機教材が入って実機と同じ操作・作動が出来ること、そしてこの2つを連接したシステムとしての連合操作ができる施設であることが盛り込まれていました。 その他に、教官室兼事務室、座学教室、機材庫、図書室などなどが設けられる予定になっていました。
Y1尉は施設課の担当者と連携を取りながら、我々の使い勝手を考えて建物の詳細なレイアウトを検討していました。 そんなある日、Y1尉が砲術科長に 「大変なことになりました。 このままでは76ミリ砲が旋回できなくなります。」 と叫んだんです。 更に続けて、「第3砲術講堂には便所も作れませんし、それどころか玄関も作れません。」 と言うのです。
一体何事が起きたのかと、教官室にいた総員がY1尉が砲術科長に説明するのに聞き入ったことはもちろんです。 彼が言うことをまとめると、次のようになりました。
(1) 砲術科からの新講堂の要求では 「こういう用途で概略これだけの広さの部屋 (区画) が、これこれ必要です。」 というラフなレイアウトを資料として作って出した。
(2) それを基に、1術校施設課と海幕施設課が調整して、建築費用を算定して予算要求額とした。
(3) これらのものが海幕 → 内局の予算担当者を経由し、そのまま大蔵省の認めるところとなった。
(4) これを要するに、結局のところ予算が認められていざ防衛施設局が建築に動き出すまで、建築の専門知識を持った者が誰一人としてこの新講堂を実際の “建築物” としての詳細について検討しなければ、確認もしなかったという事態になった。
当然ながら、Y1尉は単に用兵幹部たる砲術教官の一人であって、元々建築の知識などはありませんし、これまで施設の予算要求に関係したこともありません。 彼は命により新講堂での教育に必要な部屋を “使う側として” その概略を見積もったに過ぎなかったのです。 しかし、その彼が出したラフな要求見積もりがそのまま予算に反映されてしまったわけです。
彼が見積もったのは単に必要な各部屋 (区画) の広さの合計に過ぎませんから、当然のことながら玄関や廊下、階段などは含まれていませんし、ましてや建物の建坪の算定が壁厚中心からなど知るよしもありません。 それに内部に広い空間を持つ建物には外壁の所々に太い鉄筋の柱が必要になりますが、彼の段階でそれを考慮する必要があるなど分かるはずがありません。
そして、事ここに至って防衛施設局の担当者曰く、「既に予算で決められた総建坪以上は絶対に許されない」 とのこと。 つまり彼の計算で除外していた全てのことを引っくるめて、予算要求時の資料として出したY1尉が見積もったラフな必要面積を実際の建物の総建坪として考えろ、と言うことなのです。
そんな馬鹿な! と思いますが、単に予算執行だけの機関である防衛施設局が動いてくれる気配は全くなく、また予算が国会を通過して海自の年度業務計画が発動されている以上、1術校では既にどうにもならなくなっていました。
で、最も問題となったのは、総建坪が制約された上に玄関など必要最小限の見積もり外のスペースを確保した建物にするためには、76ミリ砲が旋回できる広さの部屋に必要な建物自体の外枠寸法が絶対に取れなくなったということです。 そうするとどういう事になるのか?
結局は艦艇に搭載する実機とほとんど同じものをもう一つ実機教材としてメーカーで作ればよかったはずが、“砲身の長さを短くした特注品” にしなければならないことになりました。
もう一つの問題は、屋上に設置する射撃指揮装置の方位盤とそれに直結する機器です。 当初はここへは屋内階段で行けるようにするつもりでしたが、その床面積が取れなくなり、かつ外階段にしても屋根付きでは建坪に含まれてしまいますので、屋根無しの露天にせざるを得ません。 ここを雨が降ろうが風が吹こうが、あるいは夏の炎天下であろうが、整備や教育の為に重い機材や精密機器を持って一旦外に出た後に高い屋上まで上り下りすることになります。
そしてそれに加えて、玄関や廊下などを確保するために予定していた各部屋も狭くなり、しかも使い勝手が悪い配置にせざるを得なくなりました。 笑うに笑えず、泣くに泣けない状態になったわけです。 勿論、出来上がって今あるものはこの “歪な” 講堂であることは言うまでもありません。
結局どこの何が悪かったのでしょうか? どうすれば砲術科が当初から考えた様な砲術講堂が出来上がったのでしょうか? Y1尉が施設担当者との事前の調整や確認で不十分な点があったと言えば、そうかも知れません。 しかし、だからといってそれをY1尉の責任とするのは少々無理があると考えます。
むしろ私達用兵者からすれば、施設担当課や防衛予算担当者達は一体何の為に存在し、何をしているのか、と思わざるを得ません。 建築や予算といった知識を持っている者が、それぞれ配置・立場でキチンとその観点からのチェックや作業をするのが本筋ではないでしょうか? それとも、実際に必要となる私達現場の者が、初めから全ての事柄を考慮し、しかも本来不必要な専門外のことまで勉強しなければ、何一つ満足な要求はできず、何一つ満足なものは作って貰えないと言うことでしょうか?
前配置の 「あまつかぜ」 砲術長として経験したことに引き続き、今回のこの 「第3砲術講堂」 の実態を考えると “この組織は一体どうなっているのか” と思わざるを得なくなってきました。 本当に “いざ” という事になった時に、私達用兵者は真に心置きなく戦いに専念できるのだろうか? もしかしたらこの組織は、私達が必死で戦っている最中に平気で後ろから梯子を外してしまうことをするのではないだろうか? という疑念が湧いてきました。
(余談ですが) 第3砲術講堂が現実のものとなった当時、それまで横須賀の誘導武器教育訓練隊で実施していた短SAMシステムの教育を、その機材と共に1術校砲術科に移管することで検討が進められていました。 短SAMシステムの教育もそれまでのような特別な人員に対するものではなく、砲熕武器と同じく艦艇乗組の者にとっての共通教育と考えられる様になってきたからです。
そこで、私達はこの短SAMシステムや、近い将来導入されるであろう砲熕武器や射撃指揮装置の教育用として、第1〜第3砲術講堂の回りにこれらの新しい講堂群を建て、加えて生徒部の建物を譲り受けて、この地区を新「砲術学校」 としようとまで考えていました。 これも当時としては決して不可能な空絵事ではなかったのです。
ところが、この構想はこの後暫くしてあっさり崩壊してしまいました。 何故なら、内局及び大蔵省 (現財務省) が 「費用対効果が悪いから」 との理由で、以後は実機教材を認めない方針になってしまったからです。 教育はIT教材やシミュレーターを導入・活用し、実物は実際の艦艇勤務に就いてから勉強・経験すれば良いのだと。
自分は安全なところにいて現場で実際に戦うことは絶対にない。 物事は机に座って紙の上でしか知らない。 しかし自分が理解できないことを理解できるようするのは、自分に対して物事を要求する側の責任である。 そして許認可するかどうかを決定するのは自分に与えられた権限だ。
こういう人種にはこの世界での 「神様」 の必要性だとか、精強とは何かとかは、決して理解できないことが良く判ります。 そしてそういった人種が 「文民統制」だと大声を上げてこの世界を牛耳っているのだと。
(後編へ続く)
最終更新 : 26/Feb/2012