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2.船乗りへの第一歩



私の船乗りへの第一歩は、防衛大学校への進学でした。


高校生になり、大学への進学はどうするか? 将来の仕事は何にするか? ・・・・ を考え始めたとき、当然のことながら色々な選択肢がありました。 元々好きだったクラッシック音楽関係への道、天文学者、酪農経営、あるいは誰もが考える医者、弁護士、・・・・ 支離滅裂の候補ですが、少なくとも一般の公務員やサラリーマンになって普通の社会生活を送るつもりは全く起きませんでした。


何となく、日々違った刺激があってワクワクするような、ちょっと変わった人生を歩んでみたいな 〜、っと。 そして当時、男の子なら皆当然そのように考えるものだと思っていました。


そんなとき、親しくしていた高校の一年先輩のお兄さんが防衛大学校へ入ったという話を聞きました。 そして先輩から話を聞き、またそのお兄さんが休みで帰ったときには時々家に呼んでくれて直接話を伺うこともできました。


そんなこんなの内に、かつて小さかった頃の思い出が甦ってきて、“よし、海上自衛官になって船に乗ろう。 それだったら防衛大学校に入るのがベストだ” と思うようになりました。 そして、思い始めたら最後、気が付いたときにはもうまっしぐら、という状態でした。 両親も、先生もきっと驚いたでしょうね。


ところが、ここで思わぬハプニング。 高校3年生の秋、思わぬことで大怪我をしてしまい入院1ヶ月、全治4ヶ月、この間全く受験勉強はできず。 1年間の浪人を覚悟しましたが、どうせダメ元、ということで防衛大学校の入試1本だけ受けたところ、これが目出度く合格となりました。 2次試験の面接官も可哀想に思ってくれたんですかね 〜?


晴れて防衛大学校に入学しましたが、これで後のことは全てOKと言うわけではありません。 入学してからの最大の難関は、1学年から2学年に進級する時に行われる陸・海・空の要員区分です。


ともかく、ここで将来海上自衛隊の幹部になるための海上要員に選ばれないことには、船乗りになるもヘッタクレも無いからです。


銃をもって地面を這い回るような陸自の普通科幹部や、何時落ちるか解らないような空自の戦闘機パイロットになるつもりは全くありませんでした。 と言って、決して陸や空の悪口ではありません。 単に私にとっては全く関心が無かっただけのことです。 したがって、もし海上要員にならなければ、1学年でワザと留年して次の年に期待するか、退学するしかありません。


指導教官に提出する要員希望の用紙には、第1希望 「海上」第2希望 「海上」第3希望 「海上」 と書いて提出しました。 あとから呼び出されて大夫お小言を頂戴しましたが、その気の無いものは仕方がありません。 ともかく、あれこれあった挙げ句、結果は何とか海上要員に潜り込めました。


当然のことながら当時の私にとっての防衛大学校とは、単に船乗りになるための一つの通過点でしかなかったのです。


とは言っても、決して暗い、つまらない防大生活を送ったわけではありません。 訓練に、学生舎生活に、各種の行事にと、楽しい4年間でしたし、結構ヤンチャな防大生だったと自負しております。


でも、学生が連休でほとんど居なくなるGW最中の深夜、防衛学館前に展示してある旧海軍の魚雷を動かしてプールに沈めたのは、決して私達ではありません、教官! 。。。。。 もっともその他のイタズラは、あれこれやりましたが 。。。。。 (^_^;


クラブ活動は、旧海軍時代でもきつい訓練の一つとして有名だった、荒天時の救助艇などにも使われた12人漕ぎの 「9mカッター」、仲間内では通称 “奴隷船” と呼び合うやつでした。 クラブ名は何々 「部」 ではなく、その名も 「短艇委員会」。 



レース スタート ダッシュ ! ! ! 委員会旗 勝利の櫂立て


このクラブは、毎年1回開催される 「全日本カッター競技大会」 に出場し、海上保安大学校や商船大学、水産大学などの強豪を含む海事関係の大学等13校を相手に、ただただ優勝すること “だけ” を目標に作られているものです。 たったそれだけのために一年間、ひたすら漕いで漕いで漕ぎまくるだけの練習をするわけですが、勿論、メンバーは全くの自由意志による志願制であり、全学からの選抜学生ではありません。


そして4年間、海に関することは我ながら良く勉強したと思います。 これだけは自慢できます。 その甲斐あって、卒業の時に海上防衛学の項目で 「防大褒賞」 をいただきました。


その替わり、本来身につけるべき理工学の専門の方は散々で、留年こそしなかったものの、卒業できる最低ラインだったと思います。


長かった防衛大学校の4年間も終わり、海上自衛隊幹部候補生となって江田島へ、そして1年間の “修養” の後、晴れて3等海尉 (少尉) に任官し、実習幹部として練習艦隊に乗り組んで約5ヶ月間の遠洋航海に行きました。



通称“赤レンガ” もてる候補生 3等海尉任官 鹿島立ち


ところが、ここまで来てもまだ大きな問題があったのです。 そう、まだ海上自衛隊の中の職務として、船乗りになるのか、対潜哨戒機のパイロットや整備幹部などの航空職域、あるいは経理補給などのその他の職域に回されるか決まっていないのです。


現在でも未だにそうだと思いますが、どの職域かの大枠が決まるのは、遠洋航海がほぼ終わりに近づき、最後の寄港地を出港して日本に向かっている最中に、私たち実習幹部それぞれの最初の任地が発表される時です。 この最初の任地によって、初めて艦艇か航空か、あるいはその他かの振り分けが判ることになっているのです。


もしこの時、艦艇職域の配置に発令されなければどうしたか? 


防衛大学校に進学以来5年半もの間、船乗りになることだけを目指し、またそのように希望も出してきたわけですから、まさか海幕人事課もそこまではしないだろうとは期待していましたし、当然ながら、もし他の職域に行かされるくらいなら海上自衛隊を辞めることも考えていました。 海上自衛隊がだめなら、出直して商船でも漁船でもあるさ、と。


勿論、希望どおりとなりましたので、今日の私があるわけです。




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最終更新 : 26/Feb/2012