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2-5.初の艦艇勤務




 早めの着任


幹部候補生学校卒業後の練習艦隊において実習幹部としての内地巡航と遠洋練習航海の8ヶ月の後、最初の初級幹部としての実務は呉を母港とする第22護衛隊の護衛艦 「みねぐも」 の通信士でした。




( 昭和47年防大夏期定期訓練時の 「みねぐも」 管理人撮影 )


もちろん通信士と言うのは科長配置などのいわゆる “補職の職” ではなく、乗組み配置ですので、海幕人事課の発令は 「みねぐも乗組を命ずる」 であり、所属長たる艦長が 「通信士に指定する」 となります。





練習艦隊は世界一周の遠洋航海から11月18日に帰国し一旦横須賀港外で仮泊して税関手続きなどを行ったのち、翌19日に船越の F-10 バースに入港、帰国行事などを行い、実習幹部は11月22日に練習艦隊退艦、同日付で新たな赴任先が発令されましたが、防大出身者の場合は12月初めに幹部任務課程に入校しますので、22日の退艦後にそのまま休暇となり、任務課程開始前に一旦部隊に着任してから入校することとされていました。


当時、一般大出身者は練艦隊での遠洋航海の後にまだ全員が航空実習が残っておりましたので、艦艇職域の配置される者でもこの航空実習が終わってからになっておりました。


私の場合も、12月7日付で1術校任務船務課程に入校が発令されていましたが、着校は12月11日、始業式は翌12日でしたので、呉在籍の艦では9〜10日頃に一旦艦に着任の挨拶だけをしておけばよく (中には一度も艦に顔を出さずに直接1術校に入校した者も)、それまでは休暇のはずだったのですが ・・・・


ところが、22護衛隊は当時毎年恒例で年末のこの時期に鹿児島行動が予定されており、この年は12月2〜7日で計画されていました。 そこで上司となる船務長から前任者も次の任務課程への退艦前なので申し継ぎを兼ねてこの行動に間に合うように着任せよ、と。


この隊訓練、この時期にわざわざ鹿児島へ行くのは、隊訓練そのものはもちろんですが、乗員が年末・年始用のものを買い込むためも大きな目的であったとされています。


で、12月1日の日曜日の朝、呉のFバースに係留中の 「みねぐも」 に着任しました。 後から聞いた話ですが、3等海尉の制服姿で衣嚢と柳行李 (まだ大きなスーツケースのような洒落たものは一般的ではありませんでした) を抱えて桟橋を歩く姿ですから、誰が見ても遠洋航海帰りの初任幹部であることは明らか。 そこでFバース係留中の 「みねぐも」 以外の各艦では “俺のところ (艦) の初任3尉はどうなっているんだ” とひと騒ぎあったとか。


22護隊3隻での行動でしたが、鹿児島往復の航海では対潜訓練やナイト・トランシットなどの隊訓練に加えて、霧中航行や防火・防水などの個艦訓練があり、申し継ぎと見習いを兼ねた良い練習になりましたし、また鹿児島では士官室の面々に連れられて上陸して深夜まで飲み歩きました。 やっと海自艦艇幹部になれた気がしたものです。



 年度優秀艦受賞


着任して早々、「みねぐも」 は年度優秀艦に選ばれまして、私も “お前も来たばかりとはいえ乗組幹部には間違いないんだから記念写真に入れ” と。 前任者も写っておりますので、任務課程に入る前と思います。 この頃の年度優秀艦の選定は年度末ではなく、この時期でしたね。




この時の艦長は海兵75期の中村幸雄氏で、翌50年 「みねぐも」 を最後に定年退官されましたが、その後暫くしてお亡くなりになられたと聞いております。 艦長交代の時、私は艇指揮として内火艇で警備隊の桟橋までお送りしましたが、桟橋に上がられて江田島を背景にブイ係留している 「みねぐも」 の姿を眺めて涙ぐんでおられたのをよく覚えております。 本当の船乗り堅気の方で、色々なことを丁寧に指導していただきましたし、また寄港地で司令・各艦長が集まっての会合の時などには “勉強だから” と私をお伴に連れて行って下さるなど、大変に可愛がっていただきました。


因みに、前列は向かって左から、水雷長・警衛士官 横山2尉、航海長・教育訓練係士官 沖2尉、砲雷長・1分隊長 牛来1尉、補給長・隊補給長・4分隊長 財前1尉、艦長 中村2佐、副長・機関長・3分隊長・安全係士官 小今井3佐、船務長・2分隊長・秘密保全係士官 山中1尉、飛翔長・広報係士官 末田2尉、船務士 木下3尉


なおこの写真、帽章が新旧混ざっており、艦長始め数名はまだ古いもの被っておられますね。 (^_^)


その後の1年の勤務の間に、士官室は艦長はじめ約1/3が交代しましたが、何しろ始めての実勤務のことでもあったこともあって、今となっては皆さん懐かしい顔ぶればかりです。



 幹部任務車両課程


鹿児島行動から帰って1術校の幹部任務船務課程に入りました。 しかしながら、通信士というのは実務は航海士兼務ですので、これらに関連する教務以外、例えば航空機管制などは半分聞いているだけ、実習講堂などでも船務士予定の者達に “お前代わりにやっていいよ” と (^_^) 


そして目敏いことに、江田島自動車学校というところは、ちゃんと 「任務船務課程用」 という任務課程修業までに仮免までの全てが終わるようなカリキュラムを組んで宣伝と勧誘に来ていました。 で、私達通信士予定の者のほとんどはこれに乗っかることに。 人呼んで 「幹部任務車両課程」


ところが、年が開けて任務課程の期間も終盤になったある日曜日の朝、幹部学生隊舎で寝ていたところ自動車学校からの呼び出しの電話が。 曰く 「桜と錨さん、今日見極めの乗車日だったけどどうしたの? 今日やらないと卒業できないよ。」 すっかり失念していたのですが、慌てて自動車学校に駆け付けましたら、「見極めはやってあげるけど、その代わりあと余分に2回、2時間分乗ってからね、もちろん追加費用がかかるけど」 ということで、結局見極めも入れて3回、3時間乗らされました。


お陰で順調に任務課程期間内で自動車学校も修業できまして、「みねぐも」 に戻ったあとで暇を見つけて広島の試験場まで出掛け、1発で免許が取れました。


当時はマニュアル車での教習だけでしたが、今思い起こせば私の担当の指導教官は大変親切・丁寧に教えてくれ、いまだにブレーキを踏むときは無意識に踵を床に付けて踏んでいるアクセル・ペダルから脚を浮かせてブレーキ・ペダルを踏む癖がついています。 したがって、最近はずっとオートの車ですが、これによってアクセルとブレーキを踏み間違えるようなことはいまだに一度もありません。


そして、転出される副長兼機関長から 「俺の車、もうボロでこの機会に新しいのに買い替えるから廃車にするけど、要るならやるから自分で整備に出して使って良いよ」 と年代物のカローラを頂きました。 約半年間これで練習してから新車 (ブルーバードU 2000GTX) を買いましたが、免許取り立てで自動車学校でのように横に教官がいない自分一人で運転するには良い練習台になりましたし、休暇では東京まで往復もしました。 あちこち少々ぶつけたり擦っても気になりませんのでしたので。


本当は当時若者に人気のフェアレディZが欲しかったんですが、これは現金一括払いしかダメで、かつ納車まで3ケ月待ち。 とてもではありませんでしたので、分割払いが可能で即納のブルーバードに (^_^;



 群短艇競技


もうこの当時の頃には旧海軍の伝統を引き継いだような護衛艦隊での短艇競技は行われなくなっており、各艦でも以前のような特艇員の選抜と訓練は行われておりませんでした。


しかしながら、第1護衛隊群の1術校施設利用訓練で江田内に揃って入った時に、群の短艇競技が行われることになりました。 そこで 「みねぐも」 でも急遽腕に覚えのある者が集められて短艇員が編成されたのですが、私もマネージャーとはいえ防大短艇員会の一員だったことから艇指揮に駆り出されることに。 


何しろ群訓練での停泊中に定例として行われる 「指定作業」 の一つような形でしたので、事前の練習もほとんどできないまま、いきなり本番のようなことに。


結果としては、寄せ集めとは言いながら、艇長以下選抜クルーの総員がよく頑張ってくれて、2番艇以下にかなりの差をつけての見事優勝でした。





この時のメンバー、通常の勤務においてもそれなりに目立つ存在の者ばかりで、中にはその後幹部になって別の艦の時に一緒に勤務したことのある者もおり、いまでも懐かしい思い出です。



 年次検査は玉野で


ご存じ通り、呉は海自の桟橋がある地区の隣は、旧海軍工廠の跡をそのまま使っているIHI呉工場 (現在はJMUとなっている) ですが、当時の造船ブーム、というより日本中の重高長大景気によって海自艦艇の修理などはケンモホロロで相手にしてくれませんでした。


このため、呉を母港とする護衛艦などは玉野の造船所まで行って毎年の年次検査・修理や4年毎 (当時) の定期検査・特別修理を行っていました。 そして玉野でさえも工事量によって順番待ちとなりますので、「みねぐも」 の年次検査・修理は夏頃であったと記憶しています。


玉野は呉に近いと言えば近いのですのですが、何しろ当時は呉線 〜 山陽本線の列車が不便で ・・・・ とは言っても、毎週末になると当直以外の乗員は独身者も含めて呉に帰る者がほとんどです。 私は呉では下宿をとっておりませんでしたが、玉野に残っても別に何もすることはありませんし、出歩くところもありません。 このため最初に呉に戻った時から週末は車で呉 〜 玉野を行き来することにし、往復時には希望する乗員を一緒に乗せることにしていました。


そして、体育係士官は機関士(A) が指定されていたのですが、私が玉野へ車を持ってきていることがあって、乗員の水泳訓練に近くの公営プールや造船所の海の家まで送り迎えをさせられることに。 まあ、これはこれで半日仕事を離れて一緒に楽しんでいれば良いので ・・・・





 ASWEX研修


昭和50年夏の「みねぐも」の年次検査・修理の頃のことであったと記憶しています。 海上自衛隊と米海軍との共同訓練 ASWEX 7-75 が行われ、22護衛隊各艦からも若手幹部が応援に駆り出されました。 私と 「むらくも」 の船務士が 「ひえい」 に派出されて通常航海直の副直士官、哨戒直での哨戒長付に組み込まれました。


実動は5日間でしたが、訓練内容は大変に充実したもので、私も日米共同訓練は始めての経験でしたので面白く、かつ米海軍艦艇の戦術・運用法は大変な勉強になりました。 「みねぐも」 に帰ってから経過・所見を纏めた報告書を艦長に提出しましたが、艦長から “よく出来ているので士官室の皆に回覧せよ” とご指導をいただきました。





 呉での生活


普通ですと、下宿でも構えて母港停泊中は業務・当直勤務以外では街の生活を楽しむところですが ・・・・


当時の呉の街中はバブル景気で賑わっている真っ最中で、中通り・本通り周辺の繁華街はもちろんのこと、呉の街そのものが “海上自衛隊など邪魔だ” と言わんばかりに、海自隊員を相手にしてくれるような雰囲気は全くありませんでした。


したがって、平日でも休日でも、昼でも夜でも、街中を歩いたり飲みに行っても楽しい (と感じる) ところは全くありませんでしたし、下宿を構えるとなると寝具一式を始めそれなりの生活道具が必要になりますので、食 (夜食付きの4食) と住には不自由のない艦内居住としていました。


それに、通信士とはいえ実質的には航海士兼務ですし分隊士も兼ねておりましたので、停泊中も書類仕事などで結構忙しく、また電信室などへ入って本来の職務であるはずの電信長などとゆっくり話しをする時間は停泊中しかありません。


特に、「航泊日誌」 は規則上はその時その時の立直者自身がその都度記入し、直が終わった時に氏名のサインをすることになっていますが、これが結構書き間違いや記入漏れなどが多く、後から修正するのは面倒かつ紙面が汚くなりますので、当時「みねぐも」では航泊を問わず全て通信士が後から纏めて書くことになっていました。


このため、停泊中は艦橋、機関操縦室、舷門などの当直記録簿を集めてきて、これを元に航海中及び停泊中のページを遡って書き、出来上がってからその時の当直士官・副直士官だった者に当該日時のページ欄にサインを貰うことになっていましたので、これが大変面倒くさい作業でした。


ただ、士官寝室は上司の船務長と同室 (前部側の第2士官寝室) の2人部屋でしたが、停泊中は船務長は官舎に帰りますので一人で広々と使えますし、当直士官や副直士官が後部側士官寝室の場合は前部士官浴室もゆっくり、そして洗濯機も。


「みねぐも」の艦内配置については、『現代戦講堂』 の 『資料展示室』 コーナーの次のところでご紹介しておりますのでご参照ください。
    http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/Shiryo/11_05_Minegumo.html


しかも、夜遅くまで仕事をしてそれから上陸するには、ブイ係留の場合は内火艇の定期便に乗って帰ってくる上陸員と入れ替わりで、かつ朝は一番の総員起床前の定期便で帰ってくるなどは面倒ですから、これもらあって、艦内居住であった方が楽だったのです。


その代わりに、手が空いた時には平日の夜でも休日の昼間でも、上陸して総監部下の警備隊の敷地 (艦艇乗組員が出港時やブイ係留時に私有車両を置いておくところ。駐車場というより草茫々の単なる空き地) に停めてある私有車であちこちドライブすることに。 免許取得後1年の初心者期間としては車の運転かなり慣れたと思っています。



 突然に通信士から船務士に


「みねぐも」 通信士として8ヶ月が過ぎた昭和50年7月下旬、船務士が転出予定となり、その交代に候補生学校の部内課程出の初任3尉が補職されることになりましたが ・・・・ その交代者は海曹時代は航海科員だったことから、艦長は彼に通信士をやらせることとし、急遽私は通信士から船務士へと配置換えさせられることに。


しかも、新任の通信士は候補生学校卒業後の外洋練習航海が終わって 「みねぐも」 乗組が発令されてから幹部任務課程に入校しますので、それが終わって彼が帰ってくるまで私は通信士と船務士を兼務することに。





初級幹部の1年間の 「士」 配置の途中でその配置指定を替えることなどは当時後先にも聞いたことがありませんし、通信士は航海士を兼ねており、船務士とは全く異なる職務内容ですので、こんな年度後半の訓練・演習に忙しい時期に変更しなければならないような人事は今考えてもちょっと無茶苦茶ではあったと思います。


しかも、通信士から船務士に替わった直後に群訓練があり、その中での夜間の対潜訓練では、途中で突然として 「みねぐも」 に飛行中のHSの管制が渡されたため、私は一度も事前訓練などを経験しないまま始めての、まさにぶっつけ本番でやらされることに。 その上、「くも」 型の対空及び水上レーダーは近距離での対潜航空機管制には全く向かない装備ですので。 結果としてはもうまったくの無茶苦茶になってしまいましたが、それでも何とか MADVEC、VECTAC はやったような (^_^;



 転勤 艦を降ろされる


遠洋航海を終えて最初の実任務である 「みねぐも」 での勤務も、8ヶ月目にして通信士から船務士に替わったとはいえ1年になろうとしていました。 防大・一般大出身の初級幹部は、練習艦隊での実習幹部の後は1年間隔で砲術士、船務士、機関士などのいわゆる 「士」 配置を3つ経験する “3ローテーション” が標準となっていましたので、私もそろそろ次の配置の声がかかるものと思っておりました。


ところが、その内示は横須賀にある 「プログラム業務隊」 というところでした。 これには驚きました。 防大入校時から艦艇勤務を希望し続けてここまで来たわけですから、今後も船乗りとしての道を順調に歩ませて貰えると思っていただけに、この陸上勤務の内示には訳が判らず 「俺は艦艇勤務失格なのか?」 と半ば本気で思ったほどです。


当時 「プログラム業務隊」 も出来たばかりであり、DDGの 「たちかぜ」 型に搭載される WES と呼ばれる艦艇戦闘指揮システムなどもまだ部内ではほとんど知られておらず、艦長や上司の船務長などに聞いても、どんなところで、そこで初級幹部が何をするのか、などは全く知らない状況でした。


しかしながら、海幕人事課も何か考えがあるのだろうから、ともかく行ってみるしかないのかと ・・・・



そして、私の船務士の後任はやはり遠洋航海が終わったばかりの1期後輩が来ることになりましたが、この年も22護隊恒例の年末の鹿児島行動が控えておりましたので、彼も私の時と同様に早めに着任し(させられ?) 申し継ぎを兼ねてこれにこれに参加することになりました。


ただ、通信士であった私の場合と異なり、彼は船務士で、しかも当然ながら任務課程入校前でしたので、往復の隊訓練で予定されていた対潜訓練での対潜交話・対潜航空機管制の要領などは全く知りませんので、急遽出港前の夜にCICでマン・ツー・マンの即席レクチャーをして本番に望みましたが、結果は何とかオーライでした。



で、転出となる側の私ですが、この鹿児島行動からの帰り、呉の隣にある吉浦の貯油所で燃料補給をしてから呉に入港 (ブイ係留) でしたので、副長がそれでは出発が遅くなるから少しでも早い方が良いだろうと(と言うより、本音はブイ係留後出来るだけ早く上陸員を出したい?)、何と吉浦の岸壁に横付けした後、いわゆる 「手空総員」 を後甲板に集めて私の離任紹介をした後、そのままそこで身の回りの荷物を持って艦を降ろされてしまいました。


そこで、吉浦からタクシーを拾って呉の警備隊の艦艇乗員用車両置場まで行って既に出港前に航海で必要になるもの以外の転勤荷物を積んでおいた私有車をピックアップし、横須賀とは言っても横須賀のどこにあるのかさえわからない 「プログラム業務隊」 なるところへ長距離ドライブ。 これをもって初級幹部としての最初の実艦艇勤務1年間が終わりました。







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最終更新 : 11/Sep/2022