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2-4-1.ハワイ真珠湾 |
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昭和49年6月17日(月)午前10時から防衛庁長官を迎えて横須賀船越の F-10 岸壁にて遠洋練習航海の出航式が行われました。 両親が幹部任官後始めて見る我が子の晴れ姿でもあって東京から見送りに来てくれました。
練習艦隊司令官斉藤国二郎海将補以下練習艦隊の主要幹部及び実習幹部総員、海曹士の代表が整列する中、長官に対する司令官の出航報告、長官の訓示が行われた後、岸壁に整列した者は司令官を先頭に順次一列で行進し 「かとり」 の舷梯を上がって乗艦、実習幹部は舷側に整列して登舷礼を実施しつつ午前11時 「あおくも」 「かとり」 の順で出航しました。
在泊艦艇、そして浦賀水道において護衛艦隊艦艇や掃海艇、編隊で飛来する航空機などの見送りを受けつつ太平洋に出ましたが、外洋に出ると早速うねりがある海面模様となり、随伴艦の 「あおくも」 はかなりがぶられていました。
6月23日(日)の夕刻にはミッドウェー島の遥か北方洋上を通過し、ミッドウェー海戦の洋上慰霊祭を実施。 後甲板に司令官以下の司令部、便乗者、「かとり」の手空総員、音楽隊と儀仗隊、そして実習幹部総員が礼装で整列し、艦旗を半旗として司令官のスピーチに続き花輪やお酒などを投入したのち、儀仗隊の捧げ銃と音楽隊の演奏の中総員の敬礼、海面に投げ入れたスモークを中心に2隻がその周りを一周しました。
この横須賀での出航式及び見送り、洋上慰霊祭の様子などは両艦のアルバムをご覧ください。 私達実習幹部も総員が礼装で整列ですので写真を撮るようなことはできませんので。
横須賀を出航してから、実習幹部は艦全体で実施する防火・防水、溺者救助などの緊急部署や射撃訓練、諸行事などに加え、基本的に3組、各組4班を単位として航海、船務、機関・応急の配置で通常航海直での実習が行われ、相変わらず日々分単位で追いかけられました。
また、昼と夜に天測訓練があり、公式記録では遠航中実習幹部1人当たり86回実施したとなっていますが ・・・・ 私は何故か最初の2・3回をやっただけで、副長付 (江田島の候補生学校での幹事付の赤鬼と青鬼) から 「お前はもう天測はやらなくてよいので、他の者の結果をチェックして、終わったら纏めて俺のところに持ってくるように」 と。
で、夜の天測では彼等の士官私室にチェックを終えた一揃いを持っていくといつも既に寝ていましたので、ただ置いてくるだけ。 翌日の午前、副長付の士官私室のドアにその集計結果が張り出されていましたが。
他の実習幹部の同僚からは 「何故お前は外に出てやらなくて良いんだ。 ずるいじゃろ。」 と。 でも、実習員講堂で皆が計算と作図を終わるのを待ってそれを全部チェックして集計するのも結構手間暇がかかって面倒だったんですが (^_^;
当初は計画に無かったようですが、6月27日(木)早朝、連絡・調整などのため短時間真珠湾沖に仮泊しました。 しかしながら、この仮泊時間中は私達実習幹部は待機となりましたので、結果的にこれが実に良かったです。
早速後甲板に作業服のまま出て、明け染めたばかりの真珠湾をバックに皆で記念撮影を。 「これがあの真珠湾だ 〜」 と。 多くの者にとって始めて見る外国、それも実習幹部の身とはいえ艦に乗っての洋上からですから。
私としても、船乗りになろうと防大に進学し防大2年進級時に海上要員になって6年目、この日が来るのをどれだけ待ち望んだか。 まさに一生忘れることのできない感動の一瞬です。
短時間真珠湾沖で仮泊した後、総員が礼装に着替えて号令により登舷礼の位置に整列、「かとり」 と 「あおくも」 は艦首に特大のレイをかけ、陸上と礼砲を交換しながら真珠湾内に入り、午前9時に米海軍の岸壁に係留しました。
しかしながら、何故か横付け岸壁は Southeast Loch 〜 Merry Loch にまたがる一般的な米海軍の水上艦艇が使用する大きな (長い) East Quay のところではなく M-3 というところで、場所はよく覚えていませんが、現在では拡張されて米太平洋艦隊潜水艦隊司令部や潜水艦の桟橋などがあるところの横の Quarry Loch というところだったかと思います。
なぜここになったのか良く判りませんが、米海軍の都合か、あるいは米海軍艦艇とは離れ、かつメインPXなどにすぐ行けるゲートの近くという配慮ではないかと ・・・・ ?
岸壁での出迎えも思っていた以上に割と簡素なもので、軍楽隊とフラダンス・チーム、それに日本人会の代表の方々でした。
ハワイに寄港したその日の27日(木)に、練習艦隊の公式記録では実習幹部総員が米太平洋艦隊司令部 (当時) や潜水艦訓練センターなどを研修したとされていますが、全く記憶がありません。 この様なところなら私的には興味津々ですので、覚えていないはずはないのですが ・・・・ また、昼食は実習幹部は在泊中の 「ノックス」 級駆逐艦9隻に分かれて昼食を摂ったことになっていますが、これも ・・・・ ?
「ノックス」 級9隻とはいっても、実習幹部は総勢約180名ですので1艦当たり20名となり、このクラスの士官室での会食はちょっと。 もしかすると、実習幹部の一部だけだったのかもしれません。
また、夜に半袖の制服を着ての日本人会の招待のダンスパーティーなどもありましたが ・・・・ 折角催していただいた日本人会の方々には申し訳ありませんが、ハワイは諸行事や研修などを含めてたった2日間の寄港ですので、私としてはこういう時間があるなら自由上陸にして街に出られるようにして欲しかったと (^_^;
1.パンチ・ボール
司令官と各艦長、儀仗隊と音楽隊が礼装をして米海軍無名戦士が祭られる国立墓地のパンチ・ボールに参拝。 ここはホノルル市街を見下ろす小高い丘 (死火山の火口) にあり、大変立派なところです。
しかしながら、私達実習幹部はこの行事には参加せず、あとからバスでの島内研修時に立ち寄りましたが、実習幹部にはこういうところこそ献花時に参列させるべきであったと思っています。
2.島内研修
ハワイ寄港翌日の28日(金)は公式記録では 「島内研修」 とはなっていますが、要するに借り上げバスに分乗しての島内見学で、もちろん半袖の制服を着て。 ただし、朝の8時から12時までの午前中だけでしたので、それこそ僅かにオワフ島の東部を駆け足、ほとんどはバスの中から、という感じでした。
ホノルル市街を抜けて、パンチボール、景色の良い峠の旧パリ・ロード (Pali Road)、そしてオアフ島東岸のシー・ライフ・パーク (Sea Life Park) へ。 後者の2か所は今ではすっかり模様替えされているようですね。
3.ミサイル巡洋艦見学
これはまさに私ならではと言えるのではと。 27日だったか28日の昼食後の昼休みに、水上艦艇がずらりと並んで停泊している中で1隻外側にいたミサイル巡洋艦 (艦名失念 確か DLG (CG) -34 Biddle ではなかったかと) に行って、舷門で 「ジェネラル・ツアー (一般見学) をさせてもらえないか」 と言ったところ、当直士官が出てきて 「もちろん OK だけど、折角だから艦長に挨拶を」 と。
で、昼休憩中の士官室に連れていかれ、艦長に 「日本の練習艦隊の新任少尉が見学させてくれと来ました」 と紹介されました。 艦長は 「勉強熱心なんだね。 こっちも新任の少尉を案内につけるから、自由に見ていって良いよ」 と。
残念ながら昼休み中の短い時間でしたが、米少尉さんは丁寧に案内しながら回ってくれ、日本にはリリースされて無いテリアのミサイル・システムを見せてくれました。
そして最後に彼と後甲板で記念写真を。
まあ、わざわざ昼休みに出掛けて行ってズケズケやるのは私だけであり、私ならではあったと (^_^)
4.ホノルル市街散歩
自由上陸でホノルル市街を散策した記憶がありますが、日時的には公式記録から考えて2日目の28日(金)、島内研修から戻ってきた午後からであったと思います。
ホノルル市街を歩いてあちこち散歩しながら、そして夕食はハワイ寄港前に実習員講堂で行われた寄港地講和の中で出てきたレストランで。
50年前のハワイ、それもホノルル市街でもまだまだ “南洋の島” の雰囲気が十分に残されていました。
それこそ、まだフリーウェイなどの高架の道路もありませんでしたし、道は狭く入り組んでおり、アラモアナショッピングセンターの通りなどは昔ながらのゴチャゴチャしたところで。 そしてホテルなどの高層ビルや整備された綺麗な公園などもまだそれほどありませんでした。
こういう “南洋の島” の雰囲気をゆっくりと堪能する時間的な余裕はありませんでしたので、3年後の米国留学からの帰りに是非とももう一度ハワイに寄ってと思ったのはむべ無いことと。
現在のホノルルは当時と比べると綺麗に整備された “近代的な観光地” にはなっていますが、既にこの昔ながらの “南洋の島” の雰囲気からはかなり変わってきているようですね。
既にブログの方でお話ししたところですが、ブログでは流れて行ってしまいますので、改めて。
せっかく船で世界を回るのですから色々とお土産を、と思ったのは当然私一人ではありません。 しかしながら、当時はまだ今の様に気軽に個人で海外旅行などができる状況ではありませんでしたし、1ドルが360円 (308円のスミソニアンレートだった?) の固定相場でした。 しかも当時外貨の持ち出しは一人1000ドルに制限されていたのです。
もちろんこの程度で足りるわけがありませんから、皆それぞれでドルや日本円でそれ以上に持って行ったことは申し上げるまでもないでしょう。
私もあれこれ色々なものを買ってこようと思ったわけです。 洋酒やミリタリー関係の書籍、各地の珍しい土産物、などなどですが、その一つに将来結婚した時の伴侶にあげるものがありました。
当時はまだ決まった相手などはおりませんでしたので、それこそ “男のロマン” であったわけです。
そして遠洋練習航海で最大・最高の私的な買い物が、このハワイ寄港時に米軍の巨大なPXで買った “まだ見ぬ将来の伴侶” のためのダイヤの指輪でした。
米軍のPX(売店)で販売するものは、衣料品や雑貨であろうと生鮮食品であろうと、元の仕入れ値 (原価) に対して米軍の補助がありますので、軍人とその家族はどんなものでも市販よりかなり安く買えるのです。
その補助額も僻地ほど大きいので、もしミッドウェーに寄港するならここの方が安いのですがこの時はここには寄りませんでしたし、米海軍の太平洋最大の拠点である真珠湾のPXは人が多いだけあって基地内のあちこちにいくつもあり、かつ基地のゲートを出て直ぐのメインPXは規模も大変に大きくかつ品揃えも実に豊富です。
で、私もこのPXで未来の伴侶のためにダイヤの指輪を、と思ったわけです。
ところが、入港して上陸 (外出) 許可となった時に、私は洗濯 (岸壁からの真水が十分に使える様にならないと、艦の造水器で作ったものは飲用にはならないのはもちろん、洗うと白いものは薄茶色に染まってしまいますので) やら何やらで皆より少し後になってしまいました。
それもあって、遅れて上陸してイの一番に銀行の窓口に行って日本円を両替えしてからメインPXの宝石売り場に行った時には、実習幹部も艦の乗員も考えることはやはり皆同じ様で、大きなガラス・ケースには目ぼしいものは既にスッカラカン。
もうその時には周りには実習幹部も海自隊員も誰もいなかったのですが、遅れて行った私の顔がとても残念で悲しそうに見えたのでしょう、中にいた若いお嬢さんの店員さんが気の毒そうに、
「 これ、私が気に入っていて、ショー・ケースに並べずに取ってあったんですよ。」
と奥から一つ出して来てくれました。 本当だったかどうかは判りませんが、私も一目で気に入って即購入。 千ドル以上だったかと。
はめ合わせ式になっており、店員さんの説明では、婚約の時に中央のリングだけを渡し、結婚したら外側を渡して両方を合わせるんだとのこと。
夜、艦に帰ってから皆で見せ合って品評会をしたのですが、それぞれ自己満足ながら “自分のが一番” と (^_^)
これが目出度く(?)今の家内との結納の時に渡ったのですが ・・・・ 問題は指輪のリングのサイズです。 当時はまるで測ったかのようにピッタリでしたが結婚してからは少々小さくなった(肥った)のと、こういうものは女性にはそれぞれ女性なりの男には判らない好みがあるようで ・・・・ 今では箪笥の引出しの奥で肥やしになっているようです (^_^;
ハワイは実質2日間の寄港で、29日(土)午前10時 には次のメキシコのマンザニヨに向かって出港しました。
出港時には日本人会の方々も多数見送りに来てくれ、私も小さな可愛いお嬢さんからお別れのレイを頂きました。
それにしても、如何に155日間の世界一周航海とは言いながら、なぜ最初の寄港地、それも名だたるハワイで “たった2日間の停泊期間しか” とらなかったのか。 せめてもう一日でもあって行事や研修に追われる実習幹部にも自由上陸日があって、ホノルル市内だけでもゆっくり散策して堪能できたらと。 そして、それに対して公式行事でなぜパンチボールの献花に参列させなかったのか。
それらは初任幹部たる実習幹部を乗せての遠洋練習航海を行う本来のあり方の一部ではないのか。 この2つはいまでも大いに疑問に感じていますし、海自の計画の誤りであったと思っています。
最終更新 : 09/Apr/2023