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第5話 四十七粍速射砲について |
1.四十七粍重速射砲について |
2.四十七粍軽速射砲について |
「三笠」 の考証については現在のところ随一ともいえるNH 「八坂」 氏が、そのブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 の中で、「大和ミュージアム」 に展示されている47ミリ重速射砲の砲身を紹介されました。
http://blog.livedoor.jp/studio120/archives/7923704.html
これについて私なりの補足を 『気ままなブログ』 の方へUPしましたが、少々纏め直して改めてこちらに掲載するものです。
ご存じのとおり、仏 Hotchkiss 社は19世紀後半に数多くの中・小口径速射砲を開発し、その優れた性能によりこれが多くの海軍の採用するところとなり、当時この分野での名声を博しました。 旧海軍でもこの保社製の速射砲のうち、6ポンド (57ミリ)、3ポンド (重47ミリ) 及び2.5ポンド (軽47ミリ) の3種類が採用されました。
( 保社オリジナルの3ポンド速射砲とその無退却砲架 )
これらの保社製の速射砲については、1884年、85年及び87年版の同社パンフレットが残されており、射撃試験結果を含む各速射砲の詳細なデータを知ることができます。
( 1887年版パンフレットの表紙 )
そしてこの保社製速射砲の何種類かは英国アームストロング社が保社からパテントを得て製造をすることになります。 これが同速射砲が広まる一因ともなっています。 旧海軍は、英国で建造する我が国艦艇に搭載する速射砲にはこの安社製のものを採用しました。
ところが、その英国で建造中の艦船の監督官として派遣されていた山内満寿治海軍大尉が、この速射砲の尾栓閉鎖機と砲架の改良型を考案します。 明治23年のことです。
しかし我が国の海軍省ではこの案に消極的で、その実現が危ぶまれたのですが、当の安社自身がその意匠の素晴らしさを理解し、3ポンド砲1門の改造実験を行うことになったのです。
結果はすこぶる良好。 この報を受けて海軍省もやっと重い腰を上げることになり、57ミリ砲1門を安社に依頼して改造の上で日本に運び、明治25年これの実験を行うことになります。
この結果も再び極めて良好で、これにより同年 「山内閉鎖機」 及び 「山内砲架」 として制式採用になります。 そして、以後新たに製造される3種の保式速射砲は基本的にすべてこの山内式となり、この尾栓閉鎖機を備えたものは通称 「山内式自動砲」 と呼ばれました。
ただ問題はその砲身です。
保式のオリジナルのものは、無退却砲架用も退却砲架用もその砲身には砲架に載せるための大きな砲耳及び砲耳座がついています。 しかしながら山内式の砲身にはこれが無く、円筒状の駐退装置の中に差し込んで固定する方式ですので、この部分の砲身外側に溝状の構造がついています。
このため、オリジナルの 「47密米保式重速射砲」 の砲身では山内砲架には取り付けられませんし、その逆の 「47密米山内重速射砲」 でも同じです。
( オリジナルの3ポンド砲の砲身 赤丸が砲耳及び砲耳座 )
( 山内砲架 従来の砲耳及び砲耳座は駐退装置の円筒に付いています )
「大和ミュージアム」 に展示されているのは、まさにこの山内砲架に対応した 「47密米山内重速射砲」 の砲身なのです。
ただし、英国安社で製造されたのはこの砲身だけだったのか、あるいは山内砲架も一緒に製造されたのか、などは不明です。 とは言っても、山内満寿治の意匠を最初に実現してテストしたのが安社ですので、おそらく砲架の製造も可能であったと考えられますが ・・・・
なお、「三笠」 には就役時からこの山内砲架が搭載されており、砲も47密米山内重速射砲です。
また、八坂氏の記事中の 「画報海軍」 の写真も山内砲架ですので、砲も47密米山内重速射砲と考えられますが、ただ写真では山内式の特徴である砲尾右側にあるはずのボックスがハッキリしないのが残念なところです。
そこで、やはりオリジナルである 「保式」 に比べて、その改良型である 「山内式」 がいかに優れた考案であるかをご紹介しなければ尻切れトンボになってしまいます。 まずは、オリジナルの 「保式」 がどの様なものであったのか、からです。
保社製のオリジナルのものには、元々の無退却砲架のものと退却砲架とがあります。
( 保式無退却砲架 )
( 保式退却砲架 )
そして英アームストロング社がこの砲のライセンスを取ってから同社製の駐退装置を付けたものを製造します。
( 安社製退却砲架 )
いずれにしても、これらは砲架の違いだけで、47ミリ重速射砲そのものは全く同じです。
その尾栓部の構造は次の様になっており、大変にシンプルなものですが、速射砲として良く考えられた高性能なものでした。
この尾栓部の構造は、3ポンド (47ミリ重) 速射砲だけでなく、2.5ポンド (47ミリ軽)、6ポンド (57ミリ) など他の保式速射砲でも基本的に同じものです。
作動は、砲尾部右側にあるレバー (転把) を手前に回すと、まず打金を後退させて撃発可能な状態となり、次いで尾栓が下がり、その位置で保持されます。
この尾栓下降時、発砲後であれば殻抜き機構によって薬室から空薬莢が引き抜かれて排出されます。 そして、新たな弾薬包を装填してレバーを向こう側へ回せば尾栓が閉鎖し、これにより発砲準備が完了します。 後は照準して引金を引けば発砲しますので、以後はこれを繰り返すだけです。 これだけでも、当時としては画期的な速射性を発揮できました。
この砲の作動は無退却砲架と退却砲架とも同じです。 退却砲架は単に発砲の衝撃を吸収するだけで、砲の操作そのものには関係しません。
無退却砲架の場合は砲の砲耳が砲架の砲鞍部に載って支持されており、砲鞍部で発砲の衝撃を直接受け止めることになります。 一方で退却砲架は、保社製でも安社製でも、砲耳が駐退装置に挿入されており、その駐退装置の軸が砲架に繋がっています。 そして発砲により駐退装置の水圧シリンダーが砲耳を支えて発砲の衝撃を吸収し、バネにより砲耳を押して砲を複座させます。
旧海軍には、保社製の無退却及び退却砲架、安社製の退却砲架のいずれもが採用され輸入されたようですが、数量などの詳細は不明です。
続いて本題の 「山内式」 です。 既に申し上げましたように、山内万寿治の発明考案は尾栓開閉装置と駐退装置の2つの改善です。
まずその尾栓開閉装置ですが、次の様になっています。
尾栓部の右側面にボックスを設け、ここに尾栓の自動開閉機構を組み込んだのです。 ボックス内の主要部は連接桿と歯車機構で、連接桿は駐退装置の後端と繋がって固定されています。
発砲の衝撃により砲身が駐退装置内を滑って後退し、次いで複座バネによって前進するときに、この連接桿に付いている歯車機構によって、オリジナルの保式での尾栓開閉レバー (転把) を手前に回した時と同じ作動をします。
即ち、打金を撃発の位置に後退させ、次いで尾栓を開き、空薬莢を自動排出します。 そして新たな弾薬包を装填し、ボックス上部後端に出ている閉鎖レバーを押すと、バネの力によって尾栓を閉鎖し、次弾の発砲準備が完了します。 以後は、照準及び発砲によりこれを繰り返すことになります。
即ち、砲員は弾薬包を装填し、閉鎖レバーを押すだけで連続発射を継続することが可能となりますので、発射速度が向上し、かつ保式砲のように尾栓開閉レバーを操作する人員がいなくとも、2名 (射手及び装填員) で砲の全ての操作が実施できるようになりました。
(注) : ただし正規の操法の規定では、保式及び山内式とも弾薬員を含めて4名です。
そして山内砲架は駐退装置の中を砲身が駐退・複座する同心退却砲架ですので、その動きは非常にスムースで、かつ砲鞍部に伝わる衝撃も少なく、これによって射手は発砲しつつ照準を継続することができ、発射速度の向上を活かすことができます。
保式砲の改良とはいいながら、その機能は実に画期的なものであり、英海軍をして感嘆せしめたのも無理のないところと言えます。
そして、アームストロング社の改造実験によりやっとその優秀性に気が付いた我が海軍ですが、山内万寿治のこの発明考案に対して明治25年に叙勲並びに賞金700円が下賜されました。 更に同砲は天覧に供された上、同年の米国シカゴにおける万国展覧会に出品され、世界にその優秀性を示したのです。
で、元に戻って、改めてHN 「八坂」 氏のブログに掲載された写真を見てみますと ・・・・
( 八坂氏掲載の写真の部分拡大 )
砲架は確かに 「山内砲架」 なのですが、尾栓部右側にあるはずの閉鎖機ボックスと、これと駐退装置を繋ぐ連接桿がはっきりしない、というか見当たりません。
これらの部分が整備などの理由で外されているのか ・・・・ あるいは写真がレタッチされているのか ・・・・ ?
写真では尾栓開閉レバー (転把) が付いていますが、これは山内式でも最初の1発は手動で尾栓を開閉して装填しなければならないからです。 最初の1発を装填した後このレバーは外し、以後は自動開閉装置の作動により射撃を継続します。
いずれにしましても、オリジナルの保式の砲身は山内砲架には使えませんし、これを改修することもできません。 また山内砲架に使用する47ミリ重砲で山内閉鎖機の付かないものは製造されていないはずですし、その様な砲は意味がありませんから、これも考えられません。 ちょっと不思議な写真です。
同じく、HN 「八坂」 氏のブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 で、「三笠」 の後部艦橋両脇に移設された47粍軽砲についての考察がUPされています。
http://blog.livedoor.jp/studio120/archives/7338026.html
その中で、呉海軍工廠で修理を終えた 「三笠」 が佐世保への回航に先立ち、明治38年2月14日江田内に寄港した際に撮影された艦尾後方からの写真を解析し、この47粍軽砲の存在を確認されています。 私の手持ちから当該写真をご紹介しますと、これ ↓ です。
間違いなく、右舷の3番砲の砲身と肩当てが写っている (赤丸内) ことが判別できます。 左舷の4番砲は肩当てらしきものが写っていますが、残念ながらこちらは明瞭ではありません。
う〜ん、良く見つけましたねえ。 と言いますか、そもそもこのような写真を拡大してみるの、と驚かされます。 流石です。
これについても八坂氏の当該記事とコラボして少し補足を 「気ままなブログ」 の方へUPしたものですが、少し纏め直して改めてこちらに掲載します。
申し上げるまでもないと思いますが、旅順港に立て籠もるロシア太平洋艦隊を殲滅後、来るべきバルチック艦隊との決戦に備えて 「三笠」 は37年12月〜翌年2月に呉海軍工廠で修理を行いました。
この時に、それまでの戦訓により前後部マストにあった戦闘楼 (ファイティング・トップ) が廃止されましたが、ここに装備されていた47粍重砲計8門の内の4門が、左右舷ボートデッキの中央部に就役時から装備されていた47粍軽砲各2門と換装され、そしてこの47粍軽砲が前後艦橋両脇にそれぞれ移設されたものです。
この47粍軽砲移設後の姿は、前部艦橋両脇のものは38年2月に佐世保で撮影されたもので確認されていましたが、後部艦橋両脇のものはこれまで写真での確認がとれていませんでした。 中には、37年9月に47粍軽砲2門を第三軍に貸し出したままで、移設後 (日本海海戦時) も後部艦橋両脇については欠のままではなかったのか、とまで言い出す人も現れる始末で ・・・・ (^_^;
( もっとも、日本海海戦時の47粍軽砲については、「三笠戦闘詳報」 で1、3、4番にそれぞれ損傷を受けたことが記載されていますので、元々言わずもがなですが ・・・・ )
この第三軍に貸し出したものは、旅順戦後に海軍に戻されており、呉海軍工廠において整備の後 「三笠」 に戻されております。 このことは 「極秘明治三十七、八年海戦史」 の中でキチンと記録されています。
艦艇名 : 三笠、換装砲号 : 11765、11768、換装記事 : 38年1月20日呉海軍工廠より砲鞍と共に交付す。 該砲は37年9月3日命に依り第三軍用として重砲隊に供給し同隊にて不用と為り後送の後再本艦に補充す
そして1月1日付けの 「軍艦三笠現状報告」 では、
砲銃及其付属品 : 第三軍へ貸与したる軽47密砲2門を欠くの外現月内に完備の見込
とされていますが、2月1日付けの同報告では、
砲銃及其付属品 : 第三軍へ貸与したる上陸砲架2台請求中に付之を除くの外2月10日迄に完成の予定
となっており、この事実が裏付けられています。 ただし、「三笠戦時日誌」 の1月20日の頁にはこのことについての記載はありません。 おそらく戻ってきた砲を単に移設した砲架の上に載せるだけですから、わざわざ記述するほどのことではないと考えられたのでしょう。
なお、この野戦砲架も代用品を佐世保海軍工廠に請求し、3月中に受け取っています。
( 図は正規の47粍砲用野戦砲架 )
ところがその後、元々の八坂氏の当該記事において、次の様な追記がなされました。
2013年12月27日追記 : 今回取り上げた 『大和ミュージアム・資料データベース 【資料番号】 PG049770 』 の写真について、「写真解析の結果として左舷側の軽速射砲は取り外し中だと主張している人物がいる」
ということをある方からうかがいました。
結論から言いますと、その人物の主張は間違いだと思います。
大和ミュージアムの資料室で閲覧できる画像からは、「桜と錨」 様がブログで掲載してくださった画像よりも詳しい情報はほとんど得られません。 左舷の軽速射砲があると思われる位置の周辺にある影はぼんやりしたもので、人の姿かどうかさえ判別することはできません。 複写サービスで入手した写真
(最大のサイズのもの) を精細にスキャンして拡大してみても結果は同じでした。
その人物がでたらめを言っているのでなければ、証拠だてて具体的な解説をするはずですから、それを期待したいと思います。
八坂氏のこの意見には、全くの同感・同意です。 あまりにも唐突すぎて、例え大和ミュージアム所蔵の原画プリントをもってしても、当該写真でそのように見ることは、どのような手段・方法に依ろうとも不可能なことですから。
( 前掲の元写真 )
そしてそのようなことは、次のことによってもあり得ないと言えます。
1.2月14日の状況
当日は、有栖川宮来訪行事、兵学校全生徒の見学に加え、乗員は半舷上陸により兵学校の見学をしております。 したがって、「三笠」 としてはとてもではありませんが後部艦橋両舷の47ミリ軽砲の撤去作業を行うような状況にはありません。 それに、後部艦橋は連合艦隊司令部が日常的に使用していますので、仮に司令部要員が写っていたとしても何ら不思議ではありません。
もし本当に撤去が必要となる事情があるならば初めからここへ移設しなければよいことですし、また移設後の撤去作業そのものは佐世保回航以降で全く構わないことです。 この江田内でわざわざ急いで実施する必要は何もありません。
しかも、もし仮に同砲砲身を格納するにしても、運搬架台を艦橋ウィング上で使用することはあり得ませんし、格納に際して47ミリ軽砲の砲身を収納袋なるものに入れるようなこともありません。
そして 120kg もあるような砲身を手摺に立てかけるようなこともあり得ないことで、少しでも船のことを知っている者なら常識の話しです。
ましてや砲の肩当てが砲鞍部についたままではこれが妨げとなって砲身は抜けませんし、駐退機と一体になっている山内式の砲鞍なら砲身のみを外す (抜く) 理由もありません。 外すなら保式退却砲架でも山内砲架でも砲鞍部と一体です。
本件について、某巨大掲示板で当該本人が47ミリ軽砲の公式図面を持っていないのに平面図では人が悪い、との意見がありましたので、山内砲架の側面図をご紹介します。
2.移設の状況など
ファイティング・トップ廃止に関連して47ミリ重砲の移設に伴い、「三笠」 艦長の上申により47ミリ軽砲は元の場所からこの前後艦橋それぞれの両脇に移設されました。 また、同時に12ポンド (3インチ) 砲以下の露天砲については、これも上申により砲の楯をわざわざ撤去しました。
これによっても、呉工廠での移設工事完了直後の2月14日に後部47ミリ軽砲2門を撤去しなければならないような理由も必要も全くありません。 艦橋ウィングの強度の問題ということも言われていますが、その様なことは移設に当たり当然のこととして工廠において十分検討された上でのことですので、それもあり得ないことです。
しかも、もし撤去するならば、少なくとも連合艦隊司令長官の正式な指示又は認可が必要ですが、そのような記録は全くありません。
3.射撃の実施
少なくとも記録に残る限りでは、4月10日に連合艦隊の命令による艦砲射撃訓練において、47ミリ重砲8門及び軽砲4門の計12門も規定に基づく各門10発、合計120発の発射を行っています。
( 「三笠戦時日誌」 4月10日の当該頁より )
つまり、後部47ミリ軽砲2門も正規通りに装備されていたということです。 もちろん、格納されていた同砲2門をこの時だけ持ち出してきて撃った、などということはあり得ません。 常日頃訓練をしていないのに射撃ができるわけがないからです。 その理由はこの後の鎮海湾における猛烈な訓練を見れば明らかかと。
4.合戦準備
合戦準備において47ミリ軽砲は格納したという意見もあるようですが、そのようなこともあり得ません。 合戦準備においては全ての戦闘用意を調え、そして戦闘に当たっては艦長はその全能発揮を図ることが責務であり、これには装備された全ての砲が該当するからです。 そして、三笠戦時日誌にある艦長訓示の内容を追っていただければ、同砲の格納に関することなど一言も出てこないことがおわかりいただけるでしょう。
5.日本海海戦における実績
日本海海戦において当該砲が1発も発射していないことを、同砲が定位置に装備されていなかったという根拠にしているむきもありますが、全く理由になりません。 砲戦の状況から、47ミリ軽砲の弾道性能と有効射程(一般的に初速穿入力の50%程度の射距離) を考えるならば、撃っていなくて当たり前だからです。
6.汎用砲としての使用
47ミリ重砲、軽砲及び12ポンド (3インチ) 砲は、汎用砲として陸戦隊用及び短艇用として使用されます。 特に2〜5月の鎮海湾においては、ちょくちょく陸戦隊上陸操練及び短艇軍装の訓練を行っており、その都度47ミリ重砲及び軽砲が使用されたものと考えられます。 これらについては汎用砲として通常の運用であり、したがって必要の都度艦上砲架からの取り外し、終われば元の正規の位置に戻されます。
( 「富士」 艦上での陸戦隊操練風景 )
しかしながら、2月14日前後においては47ミリ軽砲を外す必要のある訓練は無く、それどころか翌15日の江田島出港後には戦闘操練を行っておりますので、全砲完備していなければなりません。
また、5月27日鎮海湾出撃の際に、艦載水雷艇及び小蒸汽を 「台中丸」 に預けておりますが、この時には連絡・交通用としての使用のままであり、短艇軍装をしておりません。 したがって、47ミリ軽砲も全て固有砲架に完備の状態であったと言えます。
これを要するに、今に残る史料に基づけば2月14日に後部艦橋両脇の47ミリ軽砲2門を撤去したなどは全く根拠のないことであり、また5月27日の日本海海戦においても常備状態であったと結論できます。
撤去・格納を主張される人には、不明瞭な写真をもって “そのように見える” と言うだけでなく、是非ともキチンとした根拠・証拠を明らかにしていただきたいもので、私もそれを楽しみに待つことにしました。 もし仮にそれが事実であるなら、それこそ今まで全く知られていなかった新発見になりますので。
で、暫く様子をみることにしていましたが ・・・・ 結局何一つ根拠・証拠を明らかにしないどころか、その様に写っているという写真そのものさえ示さないままとか。
「自分の持っている写真ではそのように写っている」 「自分の解析技量は確か」 ということをただただ繰り返すだけで、それ以外は一切無し、のようです。
(平成27年4月26日現在に至るも、いまだに確たる根拠・証拠の提示は何一つ無く、単に自己の思いつきを言っているだけと聞いています。)
このようなことでは “そのように写っているように見える” ということについて誰も確認することも検証することもできませんので、その主張を本人以外の何人たりとも納得させることは不可能なことでしょう。 しかも数々の史料に示されたことを無視して、では。
1.何故、 「大和ミュージアム」 から入手した “解像度が高い” というそのご自慢の写真を、同館の承諾を得て公開しないのでしょうか? 正当な学術的使用目的なら問題なく許可は得られるはずです。
2.何故、主張されるようなことがその写真に写っているという、今まで他に誰もしたことのない初めてのことについて、第三者の追認をとらないのでしょうか? 当の 「大和ミュージアム」 に依頼して、専門家による解析と検証を得ることなどもできるはずです。
この簡単なたった2つのことをするだけでも、独自の手法による解析結果とする主張を万人が納得しえる形で証明することが可能です。
何故それをしないのでしょう? それとも何か都合の悪い事情でもあるのでしょうか?
今のままでは、 「自分にはその様に見える」 という、良く言ったとしても “単なる思いつき” を一方的に言い張っているだけで、他の誰一人として納得してもらえないままとしか映りません。
そして、日本海海戦時に47ミリ軽速射砲が装備されていなかったという主張についても、当の 「三笠」 の戦闘詳報の記述を無視して、その根拠がいまだ単に 「それが写っている写真がない」 と言うのみでは ・・・・
もし仮にどの様な素晴らしい新発見であったとしても、このような形で終始する限りは、それは決して歴史的事実の “考証” にはならないことは申し上げるまでもありません。
(注) : 本項で使用した写真及び図面は全て当サイト所蔵の旧海軍史料から、文書画像は全て防衛研究所図書館所蔵史料からのものです。 また、八坂氏のブログからの転載・引用については氏の承認を得ております。
最終更新 : 26/Apr/2015