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(付) 『別宮暖朗本』 砲術関係指摘個所一覧




以下は本第2話で引用した『別宮暖朗本』の記述個所一覧です。 そして本第2話において、当該本で砲術について引用したこれらすべてが誤り (ウソ、デタラメ) であることを根拠をして示して明らかにしました。 1冊の本の中で、それもそのテーマの骨幹に関わることについて、引用しただけでもこれだけあります。



近代砲術の基礎となる 「斉射法」 を世界に先駆けて実戦で使用し、独自の砲術計算を編み出した連合艦隊の実像
(表紙カバー裏)


日本は近代砲術の基礎となる 「斉射法」 を世界に先駆けて用いただけでなく、独自の砲術計算によって精度を高めていったのである。  (文庫版カバー)


斉射 (Salvo Firing) は、複数の砲台・砲塔が同一目標に向けて、同じタイミングで射撃することである。 詳細は後述するが、船体動揺 (ローリング、ピッチング) の影響を受けないように、 直立のタイミングを教えるだけ (目標を指定しない) の舷側射撃 (Broadside Firing) とは異なる。 司馬遼太郎は両者を混同している。 (p29) (p370)


日本のある艦は、統一指揮による舷側射撃 (Broadside Firing by Director) を実行した。 これは、舷側の全門を同一の目標に対し、一つのキーを押すことにより同時に発射することである。  (p53) (p54)


斉射 (Salvo Firing) と舷側射撃 (Broadside Firing) は異なる。 舷側射撃とは船体動揺を計算に入れたうえ、片舷側の砲を一斉に発射する方法で、18世紀からあった。  (p62) (p66)


通常、戦艦などの巨艦のローリング周期は16秒前後であり、船体が海面に直立するチャンスは8秒に1回生じるわけである。 戦艦に電気機器が導入されていなかった頃は、砲術長がドラをたたいて、引金を引く砲手に発射タイミングを教えた。 (p62) (p67)


舷側射撃も近距離となれば、照準にあったところで発射すればよいのだから、19世紀後半になると、むしろ古くさい方法とされた。  (p62) (p67)


斉射とはグループ (左舷6インチ、12インチ主砲などに区分して) ごとの全砲門を、同一のタイミングで、同一の目標に対し、射撃することである。  (p62) (p67)


元来、艦砲の狙いとは左右 (Bearing) と高低 (Elevation) でしかない。 そして、これは機械の目盛りで決定される。 (p63) (p67)


艦砲の命中率とは、砲手が訓練をたくさんして、目を澄まして、心を沈着にし、狙いをつけても向上するものではない。 つまり、小銃の射撃訓練のようなことをして、練度をあげても弾はよく当たらない。 (p63) (p67)


艦砲で敵艦に狙いをつけるというのは、旋回手 (Trainer) と俯仰手 (Layman) の機械操作でしかなく、いずれもポイントを目盛りのどこにあてるかだけが課題である。 (p63) (p67)


砲術将校は、この左右決定または目盛り盤決定のさいの数値を苗頭 (びょうとう) (Deflection) と呼んだ。 この言葉は稲穂が風にそよぐさまから来たが、当初 (江戸時代末期) は旋条 (ライフリング) された艦砲から発射された弾丸が飛行中に横にずれる現象を指した。 (p63〜64) (p67〜68)


帝国海軍であれば、旋条は右回転を与えるようにつけられているから、弾丸飛行中、やや右にずれることになる。 だがこれは1000メートル以内の据え切り砲戦で問題になるにすぎず、語源はすぐ忘れられた。  (p64) (p68)


1878年(明治11年)の砲術教範にはこの言葉がすでにあり、艦の中心部から何度で射撃すべきか決定するさいの数字をさした。  (p64) (p68)


日清戦争のときの射撃法は 「独立打ち方」 (Independent Firing) と呼ばれた。 旋回手や俯仰手が指定された目標に対し、自分の砲弾が命中した、またははずしたのかを確かめ、 次弾の狙いをつけた。 距離が3000メートル以内のため、砲手は自分の発射した弾丸を自分の目で追うことができた。  (p64) (p68)


長距離射撃をやるためには、旋回手や俯仰手のカンや暗算に頼ることはできなくなり、どこかで距離や苗頭を計算する必要が出てきた。

長距離射撃で命中させるには、まず苗頭を正確に把握する必要がある。 苗頭とは次ページの図における 「β マイナス α」 である。

まず自艦は C の位置で黒艦を射撃したいとする。  C にいるときには黒は A の位置に見えるのだが、実際には (A) 灰色艦にあるものとして射撃せねばならない。  これはクレー射撃をやるとき、マトの飛んで行く少し先を狙わないと命中しないのと同じ理屈である。

そして (A) にいた灰色艦に命中したとする。 すると次の射撃のとき (12インチ主砲であれば2分後)、旋回手は今の砲位置からどの程度変更せねばならないだろうか?

(p64〜65) (p68〜69)


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( 苗頭 (びようとう) ←ママ ) (p65) (p69)


長距離射撃となれば、これでは間に合わず、砲術将校が計算せねばならなくなった。 はじめは幾何学や三角関数の教育を受けた砲術長をトップとした砲術将校が、航路指示器を使って、 苗頭を算出した。 航路指示器は発明者の名前をとりバッテンバーグ・インジケーターと呼ばれ、イギリス海軍には1890年ごろ導入された。 (p65) (p69〜70)


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(バッテンバーグ・インジケーター) (p65) (p70)


砲術長は、主砲、左右舷側の6インチ砲といった4つ程度のグループに分け、計算結果を連絡し、それをうけたグループは全砲門をそれに従わせ、斉射をおこなった。 これが 中央管制(Central Fire Control)といわれるものである。 ・・・・ (中略) ・・・・ 中央管制は斉射法と表裏をなすものである。 つまり砲術将校 (=分隊長) を砲ごとにおくのは現実的ではない。  (p66) (p70)


射撃のタイミングについていえば、帝国海軍の艦艇には砲手のそばにブザーがあり、2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 を意味した。 そして旋回手や俯仰手は、「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正しなければならない。 引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけだ。 そして 「撃てー」 の合図で、どちらかの舷側の6インチ砲は一斉に射撃した。 (p66) (p70〜71)


苗頭とは目盛りの数で指示された。右三つ、または左四つだけである。 これは、目盛りを右へ三つ、または左へ四つ移動させろという意味で、わかりやすい。 (p66) (p71)


ただ、実際の砲戦中は、砲の轟音で伝声管からの連絡は不可能である。 このため、バーランドシュトラウト社のトランスミッターが必須であり、日露戦争の日本の主力艦にはすべて装備されていた。  (p67) (p71)


5000メートルを超える中長距離砲戦では、斉射法は必須である。 ところが、現在に至るも誰が斉射法を発見したのかははっきりしない。 これは当然のことで、当時海軍砲術というのは、 各国にとり死活的重要な国家機密だった。
ただ、どの艦隊が実戦で初めて実行したのかははっきりしている。 すなわち日露戦争の黄海海戦の連合艦隊である。 このとき砲戦は1万2000メートルの遠距離で発生した。 (p67) (p71)


イギリス海軍のパーシー・スコットは鯨島砲術学校の校長となり、速射砲による連続射撃の実験を行い、本人は斉射の実験を1901年からしばしば試みたと回想している。  ・・・・ (中略) ・・・・ 唯一残るスコットの回想はイギリス海軍の実際と相当に乖離している。  (p67〜68) (p71〜72)


結局イギリス海軍は、黄海海戦の観戦武官ペケナムの報告により、斉射法による長距離射撃が実際にできることを初めて知ることになった。 (p68) (p72)


「独立打ち方」 では、中口径速射砲がバラバラのタイミングで発砲するために、爆風が常時発生し、互いに照準をとることが困難である。 また長距離実弾射撃をやれば、砲術計算の必要から 「独立打ち方」 が成立しないことは、誰でもどこの国でもわかる。 (p68) (p72)


すると 「斉射法を初めて実戦でやり、勝利した男」 の栄冠は戦艦三笠砲術長加藤寛治に与えられるべきだろう。
(p68) (p72)


斉射法の特徴とは、サルボ (4門以上の砲を同一タイミングで同一目標に射撃すること) を試射から実行し、距離測定や敵艦速度・方向測定を、その弾着観測とともに、より正確にしていく ところにある。 (p69) (p73)


距離の確認は、まず測距儀でおこなう。 ・・・・(中略)・・・・ それに基づいて試射をおこなうが、それ以降、測距儀は不要となる。 (p69) (p73)


通常、弾着位置は左右に梯団状の2つのグループに落ちるようにあらかじめ調整してある 。 グループ間の距離は150メートル前後である。 これは戦艦や巡洋艦の長さが150メートル前後のためだ。 (p70) (p73−74)


帝国海軍より英海軍のグループ間距離は長く、250メートル程度だった。 これは装薬の品質管理や砲の設置整度が日本の方が上回り、狭くしても弾着位置の錯綜が少なかったためだ。 (p70) (p74)


苗頭を計算したのち距離を調整する。 日露戦争当時は、カンで (接近か離反は間違えてはならないが) 「目盛り一つ高め」 とか 「低め」 と分隊長に要求することも多かった。 (p70) (p74)


速射性とは大砲を1分間に何発うてるかということだ。 そして一般的には、砲塔にある大口径砲は、機械目盛り・ランマー・揚弾機・砲身命数・筒発によって支配されており、砲手の訓練によって発射速度があがるものではない。 (p71) (p373)


ところが、アリヨールの乗組員プリボイは次のように書いている (プリボイ 『バルチック艦隊の殲滅』 ) 「重々しい尾栓が、がちゃんと開かれたり、閉めたりする。 2分おきに真赤な炎がパッと閃くと同時の轟然たる斉射の音響が空気を裂く」  このようにロシアの12インチ主砲の発射速度は2分に1発なのである。 (p72) (p373)


イギリス海軍の戦艦フォーミダブルのマニュアルでも2分に1発とされており、これ自体は当時の世界標準である。 つまり、主砲について日露とも差がない。 司馬遼太郎はおそらく 黛治夫の示唆をうけたとおもわれる。 太平洋戦争期でも、この発射速度の上昇はあまりみられず、1分をやや下回る程度で、黛は日露のような古い話であれば4分の1程度とあたりをつけたにすぎない。 (p72) (p373)


斉射法を実行するに当たって、日露戦争時代の5000メートルから1万2000メートルの砲戦でインプットすべき要素は、敵艦速度・方向、原始位置 (距離)、 自艦速度・方向に限られる。 (p72) (p75)


これらの要素のうち重大なものは、変距率 (彼我の距離の時間による変動割合で、時速・ノットで表示される) で、距離時計 (Range Clock) が必要になる。  (p72) (p75)


変距率自体は距離時計 (日露戦争中、愛知時計が国産化した) で求められるが、それをインプットし、予定時間後の苗頭と距離を予想せねばならない。  (p72〜73) (p75)


砲手の仕事は弾丸の装填だけになった。 おそらく第二次大戦に従軍した水兵で苗頭という言葉を知っているのは、駆逐艦乗りだけだろう。 (p73) (p76)


日露戦争のころ、砲術における三種の神器とされたのは、照準望遠鏡、測距儀、トランスミッターの三つで、このうち照準望遠鏡はあまり重要ではない。 (p74) (p77)


照準望遠鏡 (Telescopic Sight) とは、狙撃手が小銃の上につけるスコープと同様のもので、単眼望遠鏡であるにすぎない。 つまり砲手の目で照準をつける水雷艇対策の12ポンド砲 (ロシアでは75ミリ砲) で有効な武器である。
(p74) (p77)


測距儀 (Rangefinder) であるが、これもそれほど重要ではない。 なぜならば斉射法の基本は弾着パターンの分析で距離を確認することであり、使うのは試射のときだけである。  ・・・・ (中略) ・・・・ ロシア海軍のように一弾試射により距離を確認する場合、第二斉射で弾着があっても、弾着パターンを分析することをしないから、計算上の距離と測定上の距離を精査する必要があり、測距はより必要である。  (p74〜75) (p77)


日露両軍ともバーアンドシュトラウト社の1・5メートル測距儀を装備していた。 ただし、ロシア艦隊は一船あたり二台程度と少なかったようだ。  (p75) (p78)


最も重要なのは、トランスミッター (Transmitter) である。 すなわち砲術長は目標・苗頭・距離を各砲台に連絡する手段が必要である。 これを伝声管でやることは不可能で、電気的に数字を示す機械が必要だった。 当時これができるメーカーはバーアンドシュトラウト社だけだった。 (p75) (p78)


弾丸が砲身の中で爆発する現象。 第1次大戦直前に信管誤作動防止装置が発明されるまで、連続発射を行うと必ず発生した。 原因は複数あるが、多いケースは砲身が灼熱し、弾丸がそこを通過するとき信管が作動するものだ。 (p115) (p376)


すべての原因が究明されたわけではなく、現在の戦車砲などは、筒発を避けるため、滑腔砲 (かっこうほう) といわれるライフルを切らないタイプが主流となっている。 (p115−116) (p376)


砲戦は東郷が同航戦からT字をきりおわり、やり過ごすまで1時間20分以上つづいた。 このような長期戦になると、12インチ砲は筒発を起こす。 (p201) (p209)


主砲は連装砲塔に装備されており、1門の砲身が飛び散ると、他の1門に当たり、砲身を曲げてしまうことから、2門とも使用不能になる。 日本の戦艦4隻のうち3隻で筒発が起き、6門が使用不能となった。 (p202) (p209)


黄海海戦における戦艦敷島の斉射。 手前の爆煙が後部主砲、少し開けて奥が前部主砲によるもの。 4門の主砲が同時に射撃したことがわかる。  (p206) (p213)


(p206) (p213)


旅順艦隊旗艦ツェザレウィッチは独領膠州湾で抑留された結果、その被害を全世界にさらすことになった。 調査によると、12インチ砲弾は15発命中している。 ところが、このうちの 3発は1回の斉射で与えたものである。 すなわち露天艦橋に命中してウィトゲフトを戦死させた1弾、後部艦橋を破壊した1弾、喫水線に命中し溶接部分をずらしこみ多少の浸水をもたらした1弾は、同一斉射の3弾なのである。 主砲4門を同時に発射して、夾叉 (ストラドル) を与えたものであり (170ページ参照) (74〜75頁参照)、完全斉射法でなければ、このようなことはなしえない。 (p206−207) (p212−214)


主砲4門を同時に発射して、夾叉 (ストラドル) を与えたものであり (70ページ参照) (74〜75頁参照)、完全斉射法でなければ、このようなことはなしえない。 (p207) (p214)


この海戦を観戦したペケナムから (当時船便のため3ヶ月後) 長距離砲戦の概況報告をうけ、フィッシャーはドレッドノートと名付けられることになる 「オール・ビッグ・ガン・シップ」 の構想を練った。 (p208) (p215)


前述 (63ページ) (67頁) のように、近代砲術の世界では大中口径砲手の腕や目や神経は、命中率と関係がない。 いくら砲手を訓練したところで事故を防ぐことはできるが、命中率をあげることはできない。 6インチ砲や主砲を命中させることができるのは、砲術長、すなわち安保清種なのである。  安保は部下の砲手を 機械の一部として活躍させたことについて、公言することを潔しとしなかった。 (p269) (p278)


(前略) ・・・・ これの例外は小口径砲であって、主として水雷艇対策である。 鎮海湾で実弾訓練が行われたのは 「内筒砲」 訓練と呼ばれるもので、小口径砲に小銃をくくりつけ、 洋上を走行するマトを狙ってうつものである。 小銃の実効射程距離は500メートル以下にすぎないが、小口径砲の弾道に似ているといえば似ている。 (p269) (p279)


それでも砲と小銃の弾道は同一でなく、気休めに近いものだっただろう。 ただ日本の小口径砲はすべて照準望遠鏡が設置されており、使い勝手を知ることはできた。 そして6インチ砲の 訓練の中心は弾丸装填の模擬訓練であり、これは一日一回、必ずやり、かつ鎮海湾には、乗員と同数の予備兵も待機しており、その訓練も交代で行われた。
(p269) (p279)


大口径主砲の砲手は、目盛り操作と弾丸装填のみに集中しており、敵艦をみるチャンスはない。 またみえたとしても目標は砲術長が決定するのが原則である。 (p270) (p279)


『三笠』 の12インチ主砲は、2時15分の第3斉射で夾叉 (ストラドル) を与えたものと推定される。 そこからは命中弾は連続する。 東郷平八郎は 「だいたい5〜6発目が 一番よく当たる」 と後年語ったが、まさにこのときである。 (p300) (p311〜312)


『三笠戦闘詳報』 によると、 それ以降、12インチ砲および6インチ砲毎発は、ほとんど空弾なく命中したという。 これが斉射法の威力であるが、  ・・・・ (後略)  (p300) (p312)


日露戦争で海軍首脳を一番悩ませたものは筒発だった。 黄海海戦でこれが多発した。(201ページ参照) (p305) (p317)


実は、司馬遼太郎が書く、海戦における日本側がうけた残虐な場面の描写の大半は、筒発事故である。 「後部の主砲である12インチ砲に砲弾が命中し、1門を破損 した。 ・・・・ (後略) 」 ( 『坂の上の雲 (四) 』 55ページ ) これは黄海海戦における三笠の筒発事故であり、第2回戦で起きた。 (p306) (p317−318)


東郷司令部は、この原因についてさまざまな仮説をおいたと思われるが、有力なものとして残ったのが 「砲身灼熱説」 だった。 つまり、大口径砲ほど装薬の量が多くなるが、その熱エネルギーを 吸収すべき砲腔面積は比例して広いわけではない。 このため12インチ砲では、20発前後から砲身の付け根が灼熱してしまう。 (p307) (p319)


弾丸がそこを通過するとき信管が作動してしまうのだ。 だが、第1次大戦の直前に信管誤作動防止装置が発明されるまで、砲身灼熱による筒発を防ぐ手段はなかった。 (p307−308) (p319)


現場では 「魔の28発目」 とささやかれていた。 すなわち筒発は試射第1発目から28発目に起きることが多かった。
(p307) (p319)


普通、筒発は1門で起きる。 例外は、日本海海戦の初日午後5時過ぎ、日進の前部砲塔で起きた両門斉射時の同一タイミングでの筒発である。 (p308) (p319−320)


筒発を知るどこの海軍当局も極秘にした。 この事実を知らないと 「魔の28発目」 で砲塔一つの戦力が失われるわけだから、知った方は秘密にしないはずがない。 (p308) (p320)


連装砲塔だと1門が破壊されると、切断された砲身が別の1門にもあたり、砲身を曲げてしまい、使い物にならなくさせる。 それが連装砲塔の欠陥である。 ところが三連装にすれば、 もっと打撃は大きくなる。 第1次対戦終了まで、日・英・独は弩級戦艦に三連装砲塔を搭載することをあくまで拒絶した。 (p308) (p320)


ドイツがどのように筒発の秘密を知ったかは不明である。 ただ友邦オーストリア=ハンガリーが三連装砲塔を計画したとき 「理由はいえないが、やめた方がよい」 と説得につとめた、 と言われる。 (p308−309) (p320)


東郷は、25発で主砲射撃をやめ、ホースで海水をかけ砲身冷却をはかることにした。 このための時間稼ぎで、ロシア艦隊主力をやりすごしたのだ。 また、筒発の少ない12ポンド砲を活用することにした。 (p309) (p320)


この結果、2時11分の12インチ砲試射開始から、25発前後うった2時57分に 「打方やめ」 の命令が出され、乙字戦法も実行にうつされなかった。  (p309) (p320)







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 最終更新 : 02/Jul/2011