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第13-2話 203地点に敵の第2艦隊見ゆ




今回は、タイトルどおり、5月27日早朝の 「信濃丸」 によるバルチック艦隊発見時のお話しです。

まずは次の 『別宮暖朗本』 の記述をご覧いただきましょう。


信濃丸が203地点で 「敵艦見ゆ」 と発見し、無線で報告したのは、ロシア側記録では1時15分ごろとなっているが、『公刊戦史』 では4時半とされている。 ロシア側が偽りをなす理由がないので、1時15分が正しいと思われる。 (p291)


酷い、余りにも酷い。 私もこれ程のものは他にそうそう見たことはありません。 こんな “大ウソ” が出版物としてまかりとおること自体に、怒りを覚えますね。

では、この『別宮暖郎本』の著者に問いましょう。  一体、どこの何という “史料” に、そのような “ロシア側が偽りをなす理由がない” という証拠の“「記録” があるのと言うのでしょうか?

そして、もし “午前1時15分” にロシア側に何某かの無線の傍受記録があったとして、それがどうして 「信濃丸」 が発信したものであり、その内容がどうしてバルチック艦隊発見電だと判るのでしょうか?

電波の方位探知の満足な装備・技術もなく、日本語の略語・暗号解読の充分な能力もないのに?


そもそも、「信濃丸」が発信したのは、午前4時45分頃発信した第1報は 「敵艦見ゆ」 ではなく、「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」 (実際の電文は 「ネネネネ」 ) であり、続く午前5時頃の第2報が有名な 「203地点ニ敵ノ第二艦隊見ユ」 (実際の電文は 「タタタタ モ203」 ) なんですが? そんなことさえも知らない、調べていない?

そして、それ以前の問題として、深夜の午前1時に、煤煙が見えるわけもなく、ましてや灯火管制をした艦隊が見えるわけがありません。 そんなことはちょっとでも海の上のことを知っていれば “常識” ですが (^_^;


まず、ロシア側の文献からです。

最初にロシア海軍の公刊戦史である 『千九百四五年露日海戦史』 (海軍軍令部訳) の第7巻から、




無線の傍受どころか、午前五時頃の 「信濃丸」 視認まで全く気付いておりません。

次に 『露艦隊三戦記』 の中の 『最期戦記』 中の記述です。 これの著者はクラド海軍大佐であると考えられています。




「和泉」 の接触まで、汽船を疑わしいとは思いながら仮装巡洋艦との識別はありません。 もちろん発見電の電信傍受などありません。

そしてこのクラド大佐には別に 『日露戦争における海戦』 と題する著書がありますが、これにも午前1時15分の 「信濃丸」 のバルチック艦隊発見電発信などは出てきません。


( 海軍軍令部訳の同書より )


同じく 『露艦隊三戦記』 の中の 『幕僚戦記』 の中の記述です。 これの著者はロジェストウェンキーの参謀の一人であったセミョーノフ海軍中佐であると考えられています。




これにも 「信濃丸」 の視認によってバルチック艦隊の被発見とされており、午前1時15分の発見電傍受の記述はありません。

そして、この著者が 「史料」 であると思っているプリボイ著の有名な戦記小説 『バルチック艦隊の殲滅』 (原題は「ツシマ」) からです。




バルチック艦隊発見電の傍受どころか、「信濃丸」 の識別さえ出てきません。


以上が日本おいてよく知られたもので、これが一般認識と言えるでしょう。 一体どこに午前1時15分の 「信濃丸」 発信電傍受の記録とするものがあるのでしょうか?

もし、この著者が少なくとも “日本で初めて” そのようなロシア側の記録を発見したと主張したいなら、当然その根拠を明示すべきであり、その責任を果たすべきであった と考えます。

もちろん、今からでも決して遅くはないですが。


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続いて、日本側の史料・文献からです。


まず、旧海軍の公式戦史である 『極秘明治378年日露海戦史』 の記述から。


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次は、日本海海戦初日から3日後 (!) の5月30日付である当の 「信濃丸」 の 「戦闘概報」 から。


  


午前2時45分に病院船 「アリヨール」 の燈火を発見し近接、確認した直後、敵艦隊を発見し無線電報を発信します。

その発見電の第1報及び第2報の発信時刻が書かれていませんが、成川艦長が4時40分過ぎ頃に第1報の発信を命じていますので、その直後と考えられます。

「三笠戦時日誌」 の5月27日の第1ページです。




「三笠」 では 「信濃丸」 の発信電が直接受信できておらず、「厳島」による午前5時5分の転電が第1報となったことが記されています。

そして、第6戦隊の 「戦闘詳報」 に添付された 『第六戦隊無線電信発受信傍感報告』 から。


  


「厳島」 の転電では地点符号が抜けていましたので、何度もそれの問い合わせのやり取りがあったことが判ります。


 

その他、証拠史料を示すならそれこそ雲霞の如くありますが、先の公式戦史のみならず、戦闘詳報や発受信電記録などの残された当時の “あらゆる史料” において 何等の齟齬もありません。

当然のことですが、この著者のいう午前1時15分の 「信濃丸」 の敵発見電なるものの発信はもちろん、受信・傍受の記録はありません。


これを要するに、日本側及びロシア側の双方 のものを合わせても、「信濃丸」 の敵発見報告第1報の発信時刻を 5月27日午前4時45分前後 とすることに 何の疑いもありません。

その上で、この 『別宮暖郎本』 の著者はこれですか。


『公刊戦史』 もロシア側の 『露日海戦史』 も同様であるが、デスクワークに専念する少壮官僚の作文であって、実際的な問題を精神主義的なことに置き換えることが多い。 連合艦隊が日没による砲戦時間の終了を考慮すれば、早めの出撃をなすべきだった、との批判にそなえ、信濃丸の通報時刻を 『公刊戦史』 では、わざと遅らせたものだろう。 (p291)



はっきり言って、もうここまで来るとこの 『別宮暖郎本』 の著者の人格を疑います。

(いえ、人格を疑う内容は、他にもこの 『別宮暖朗本』 の中には沢山あることは、砲術や水雷術についてでも既に指摘したところです。)

お粗末を通り越して、余りにも酷い。 こんなものがよく活字にして出版できるものと。


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そしてです。 ちょっと考えてみて下さい。


この著者は、「203地点に敵の第二艦隊見ゆ」 の発信電が午前4時50分前後でなく、午前1時15分だと言っています。

とすると、バルチック艦隊は 午前4時50分頃には203地点より30マイル以上先に進んでいる ことになります。

このことが 何を意味することになるのか お判りでしょうか?

そう、連合艦隊が鎮海湾や竹敷から出撃して、バルチック艦隊と会敵するまでの位置や時刻の関係が総て変わってきてしまうことになるでます。

と言うことは、連合艦隊の “全艦船” の刻々の位置や時刻が総て変わってくると言うことです。

つまり、各艦・隊司令部を始めとする 「戦闘詳報」 記載の時刻、位置、そして航跡図など現在残されているものの全てが、『別宮暖郎本』 の著者が主張するものと違ってくる、と言うことになります。


もしそうなら、時刻と位置が変わると言うことは、全艦船の針路、速力、航程なども総て変わってくることになる、ということはお判りいただけると思います。

そして、変更を要するのは 「戦闘詳報」 だけではありません、連合艦隊各司令部・全艦艇や軍令部を始めとする総ての電報受信紙、総ての記録紙などもこれに合わせなければなりません。

当然これはバルチック艦隊側の記録にも総て同じことが言えます。


逆に、「信濃丸」 の報告位置を、午前4時50分頃の 「203地点」 でなく、午前1時15分のバルチック艦隊の位置だとしても、上記のことは同じことが言えます。

もしこの著者が言うように 「わざと遅らせた」 ものであるなら、何れの場合でも、そのためには現在知られているこれら 総ての史料が何一つ何等の齟齬もなく改竄されていなければならないはず です。 そのようなことが可能だと思われますか ?


現在に残された 総ての史料は、午前4時50分頃に「203地点」、で何の疑問も,何一つの齟齬もありません。

この著者の 「ロシア側記録では1時15分ごろとなっている」 と言う “たった一つ” のこと以外は。  もちろん、そのようなものが存在するとして、ですが。


これらのことをこの 『別宮暖郎本』 の著者はどのように言い訳するつもりなのでしょうか?


もし改竄が可能だと思う方がおられるなら、例えば 「信濃丸」 の航跡図だけでもいいですから、やってみて下さい。 そして深夜の午前1時15分に灯火管制をしたバルチック艦隊を、どのようにしたら発見できるのかを説明してみてください。 加えて、その 「信濃丸」 の発見電を受けて最初に触接した 「和泉」 の対応をどう説明するのかを。







「信濃丸」 の通報時刻を 『公刊戦史』 ではわざと遅らせた」 、の “たった一言” で、どれだけのことが関係してくるのか?

海戦というものが、いや海、船というものが “少しでも” 判っているならば、この著者の言うような “寝言” “戯言” は決して成り立たないものであることは、すぐに判ることです。



『別宮暖朗本』 の著者は、その根拠だと言う 「ロシア側の記録」 については何の証拠も示していないのですが ・・・・  そこで、「1時15分」 「バルチック艦隊発見電」 という文言で、“ハタ” と気が付きました。 まさかこれのことではないですよね?

上記のロシア側史料でご紹介したクラド海軍大佐著とされる 『最期戦記』 の中にある 「1時5分」 という記述です。




これと同じ内容が 「1時頃」 という表現でロシア海軍公刊戦史にも出てきます。




まさか、この 『別宮暖郎本』 の著者はこれを勘違いして ?

これって、「27日午前1時15分」 ではなくて、「26日午後 1時5分」 なんですが ・・・・ しかも、「信濃丸」 発信電ではなくて、単なる何か判らない無電を誤認識したとされているものです。

いくら何でも、まさかねぇ ・・・・ とは思いますが、この著者がその記録なるものの根拠を示していない以上、既に知られているものでは 「1時15分」 というデータはこれしか考えられません。

もしそうだとしたら、これはもう “お粗末” どころでは済まされませんが ・・・・

この著者には、明確な証拠史料の提示を求める次第です。 いや、こんなことを書いて出版する以上、始めから示す責任があったのに、です。



(注) : 本項で引用した各史料は、ロシア側刊行物の他は総て防衛研究所図書館史料室が保有・保管するものからです。 なお、赤線は説明の都合上で管理人が付けたものです。






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 最終更新 :22/May/2022