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第1話 戦闘旗について



旧海軍のことで簡単に言い流されるけれども、間違ったことがまことしやかに通用していることは多々ありますが、その代表的なものの一つに 戦闘旗 があります。

例えば、艦船モデラーさん達に愛読されている有名な 『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版) では


駆逐艦での戦闘旗は、後檣の揚旗斜桁に掲げるのが一般的であった。 (p169)


あるいは、他の出版物やインターネットでも艦艇写真をUPしてその説明に 後檣ガフに戦闘旗が揚がっている などと書かれているものもあります。

違いますって! 私などからするともういい加減にして欲しいくらいです。 確たる根拠を一度でも見てみたら、と。



 戦闘旗とは


昭和7年に改訂された 『海軍旗章令』 (勅令第359号) の第28条では次の様に規定されています。


第二十八条
軍艦旗ハ艦艇及特務艦ノ後部旗竿又ハ斜桁ニ掲揚ス ・・・ (後略)


つまりガフに掲揚する軍艦旗は、通常の “日本海軍の軍艦であることを意味する旗”、いわゆる 艦旗 です。

そして規定上は後部旗竿でもガフでもどちらでも良いようになっていますが、通常は後部旗竿に掲揚します。 そして、艦が合戦準備をした時には戦闘時に邪魔になる後部旗竿を格納しますので、これを後檣ガフに移します。 これは規則に定められたものではなく、いわゆる慣習であり、船乗りの常識です。


では戦闘旗とは何なんでしょうか?

これも 『海軍旗章令』 の中の第30条第2項で次の様に規定されています。


第三十条
艦船戦闘中ハ前項ニ規定スルモノノ外檣頂ニ軍艦旗一旒ヲ掲揚スルヲ例トス


これが戦闘旗です。

つまり戦闘旗とは 実際の戦闘中 しか掲揚されませんが、この時には先の 「軍艦としての旗」 と合わせて 2つの軍艦旗が揚がっている ことになります。

因みに規定で言う 「檣頭」 とは 「大檣」 (メインマスト) を意味し、その艦で 「最も高い」 マストのことで、同じ高さのマストが2つ以上ある場合は 「後檣」 のことです。

例を示しましょう。 左の写真が明治37年8月の黄海海戦時の一枚で、右は昭和16年12月の真珠湾作戦時の一枚です。 共に有名な写真ですから一度はご覧になったことがあると思います。 これが戦闘時の艦旗と戦闘旗です。




ただ注意しなければならないことは、、戦闘旗の掲揚が規則上明文化されたのは昭和7年の 『海軍旗章令』 の改定からで、改定前及びそれ以前の 『海軍旗章条例』 にはありませんでした。

しかしながら明文化しなくとも昔からの国際的な慣習法として 「軍艦」 にあっては当然のこととされ、実際日清・日露戦争における戦闘詳報などでは軍艦旗を檣頭に掲げることを 「戦闘旗」 という用語をもって使われております。




 「戦闘旗」 という種類の旗はあるのか


某巨大掲示板のQ&Aでこの戦闘旗の話題が出た時に、「ヤフオクに 「○○」 の戦闘旗といわれるものが出品されている」 とコメントがついたことがあります。 出品者の説明では揚旗索やフックなどが通常の軍艦旗とは異なるとのことでした。

では、通常の軍艦旗と異なる様式の戦闘旗というものがあるのでしょうか?

実はそのようなものはないのです。 『海軍旗章規則』 の規定にあるとおり全く同じ通常の軍艦旗です。 例え戦闘旗として掲げ易いように事前に揚旗索やフックを替えて用意していたとしても、それだけではそれを戦闘旗とは言いません。

戦闘旗とは、実際の海戦において檣頭に掲げられた軍艦旗 のことであり、掲げられたことがなければそれは単に普通の軍艦旗の一枚であるに過ぎないのです。 即ち、掲揚されたかどうか が問題なのであり、後世それを戦闘旗と言うには客観的にそのことを証明する何らかの根拠が必要です。


なお、戦勝した海戦において実際に掲げた軍艦旗 (戦闘旗を含む) は 『記念軍艦旗規則』 により 記念軍艦旗 として保存することができます。 一戦役につき一旒、即ち1枚に限られますので、通常は戦闘旗として掲げたものが選ばれますが、旗の状態などによっては艦旗の場合もありえます。 この記念軍艦旗には隅にその戦歴を書いたものを縫いつけるのこととされており、海軍記念日や当該海戦記念日などで掲揚することができます。

ではなぜ 『記念戦闘旗規則』 でもなく、記念戦闘旗 でもないのでしょう。 そうです、旗そのものは艦旗であろうと戦闘旗として掲げられたものであろうと普通の同じ軍艦旗であり、また実際の戦闘時に掲揚されたものであるからこそ (戦闘旗でなく艦旗であっても) 記念軍艦旗として保存するのです。 

因みに私がこの記念軍艦旗の実物で見たことがあるのは、かつて 「出雲」 が日本海海戦で掲げたものです。 この旗が時を経て、かの有名な松本零士氏から海上自衛隊に寄贈されることになり、平成11年度の呉地方隊展示訓練が大阪で行われた時にその贈呈式を 「きりしま」 艦上で行いましたが、氏の強い希望により式の後の体験航海時にこれをメインマストに掲げて出港しました。 懐かしい思い出の一つです。



 海上自衛隊の場合


それでは、戦闘旗について現在の海上自衛隊ではどうなのか、と言うことですが、これがまた大変におかしなことになっています。

まず、軍艦旗に替わる 自衛艦旗 (とは言っても、ご存じのとおり旧海軍の軍艦旗と現在の自衛艦旗は全く同じものなのですが) については、昭和30年に制定された 『海上自衛隊旗章規則』 (海上自衛隊訓令第44号) の第15条で、


(自衛艦の場合)
第15条 自衛艦は、次の各号に掲げる時間、艦尾の旗ざお(潜水艦が航海中である場合にあつてはセール上部の旗ざお)に自衛艦旗を掲揚しなければならない。


となっています。 つまり、日本国海上自衛隊の艦であることを示す旗、即ち “艦旗” は、旧海軍とは異なり 「斜桁」 というものがなくなり、停泊中でも航海中でも基本的には艦尾旗竿にしか掲揚しません。


“基本的には” というのは旗竿や後甲板が整備のために使えない (立ち入れない) 場合などには当然メインマストなど適宜のところに掲揚できるからです。


(掲揚の位置の変更及び掲揚の省略)
第8条 自衛艦等又は短艇において、船体の構造その他により、旗章の掲揚が困難な場合は、指揮官は、便宜旗章の掲揚位置を変更することができる。


で、その次の規定が面白いんです。


(武力行使等の場合)
第15条の2 法第76条第1項の規定により出動を命ぜられた自衛艦が、武力を行使する場合には、自衛艦旗をメインマストに掲揚するのを例とする。
2 前項の規定は、自衛艦が戦闘訓練を行なう場合に準用する。


“例とする” というのは、特段の支障や事情が無い限りそうしなさい、という官公庁独特の言い回しです。


まあこれは何ですか、という文言です。 一体 武力行使をする場合 とはどういう状況の時で、それは何時から何時までか、などは全く示されておりません。 そして第2項の戦闘訓練を行う場合でも、これは戦闘訓練中は常時なのでしょうか? それとも訓練中の “武力行使をする時だけ” なのでしょうか?



実は、この 『旗章規則』 というのは 「防衛庁訓令」 という法令の種類です。 つまり、海上幕僚長ではなく、防衛庁 (当時) 長官が自ら定めたものです。 と言うことは、軍のことなど全く判らない、紙の上でしか物事を知らない防衛官僚なる小役人の手になるものということです。

つまりこの 『旗章規則』、結局訳の判らないところが沢山出てきまして、海上自衛隊は昭和45年に 『海上自衛隊旗章細則』 という達と、『海上自衛隊旗章規則の解釈及び運用方針について』 という通達を出して、なんとか現場の海上自衛官が迷わないようにしたのです。


その後者の通達の中に、次のような規定があります。


10 第15条の2第2項関係
「戦闘訓練を行なう場合」 には、合戦準備の下命があったときからを含むものとする。


と言うことで、海上自衛隊では 「教練合戦準備」 が下令されている間は (戦闘中か否かを問わず) 常に自衛艦旗はメインマストに掲揚されていることになります。 そして当然この考えから、実動の場合でも 「合戦準備」 をしている間は常にメインマストということになります。


即ち、海上自衛隊には 「戦闘旗」 という概念は無い と言うことです。


ではこれをお読みいただいている皆さんに質問です。 旗章規則第15条の2でメインマストに掲げられる自衛艦旗は、通常は艦尾旗竿に掲揚するものを移す (揚げ替える) のでしょうか? それとも旧海軍の戦闘旗のようにもう一つ別の自衛艦旗を掲揚するのでしょうか?


さて、どちらでしょう? 考えてみて下さい。



 駆逐艦の掲揚方法


ブログで記事にしました時に、HN 「Fleet Review」 さんから日露戦争時における駆逐艦の軍艦旗及び戦闘旗の掲揚方法について次のような質問がありました。


明治の駆逐艦 雷や叢雲など後檣も揚旗斜桁も持たない艦についてはどのように掲揚するのでしょうか? 前檣に司令官旗、特設した後檣に軍艦旗を揚げたとして、さて戦闘旗は? 特設の後檣にさらに揚旗斜桁を付けてそちらに軍艦旗を移し 後檣に戦闘旗を揚げるのでしょうか? それとも艦尾の旗竿も使用してそちらに軍艦旗を後檣に戦闘旗を揚げるのでしょうか?


合戦準備以後の軍艦旗の掲揚の例は公表された有名な写真の中にいくつかありますのでご紹介します。




この様に後部で戦闘に邪魔にならない位置に設けられた旗竿に掲揚されています。


そこで戦闘旗ですが、ブログで記事にした当初は “残念ながら当時の写真で駆逐艦が戦闘旗を掲げているものを見たことがない” と書いたところ、HN 「出沼ひさし」 さんから次の様なコメントをいただきました。


『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』 (呉市海事歴史科学館編 ダイヤモンド社) 中の 「暁」 の写真に戦闘旗が掲げられているように見えるものがある。


当該写真と同じものが ↓ です。




確かに檣頭の旗には軍艦旗の光線のようなものも微かに確認できますし、当該場所に掲げる旗は限られますので、ほぼ間違いないものと考えます。

ただ、これが戦闘旗であるとすると次の疑問も出てきます。 それは 何時、誰が撮したのか? ということです。

艦尾甲板上には 「聯隊機密第350号」 に基づく連繋機雷 x 8組らしきものが搭載されておりますので、明治38年の5月17日以降の写真であることは間違いないでしょう。


日本海海戦における 「暁」 の戦闘詳報では次のとおりとなっています。


  5月27日  午前6時30分 鎮海湾出港
         午前8時50分 奇襲隊序列を作り 「浅間」 艦長の指揮下に入る
         午前9時 奇襲隊と分離し、第一駆逐隊司令の指揮下に入る
         午後1時35分 戦闘旗を開く
         午後8時30分 第一駆逐隊と分離、連繋機雷襲撃のための単独行動に入る
         午後9時30分 水雷艇と衝突し船体損傷
         午後10時40分 襲撃断念、修理のため竹敷に向かう
  5月28日  午前8時40分 竹敷入港、修理に着手
  5月29日  午前9時 応急修理完了、第一駆逐隊司令の指揮下で出港
  5月30日  午前6時 竹敷入港


となっていますので、5月27日の戦闘旗掲揚中の撮影とすると、この荒天下で一体誰が何時撮影したものなのか? 最も考えられるのが 「浅間」 からなんですが、奇襲隊分離後もこんな近くにいたのでしょうか?

余談ですが、当該写真集のキャプションでは 「明治38年5月28日 日本海海戦に参加するために進撃中。 まもなく荒天のために待避した。」 とありますが、これが全くの誤りであることは上記の行動からも明らかです。


(注) : 本項で使用した画像は全て当サイト保有の史料からです。






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 最終更新 : 09/Jul/2016