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3-1-4.ヴァージニア州ダムネック




 ダムネックというところ


米海軍のダムネック基地は、ノーフォークから東南東に約20km程の大西洋に面した海岸にあります。 夏は海水浴客で賑わう Verginia Beach というところの南側にあります。



( 元画像 :Google Earth より )


周りは何にもなく、大西洋と多くの湖水と森に囲まれた、良く言えば風光明媚なところ、悪く言えば僻地です。 幹線道路から逸れ、何もない林の中の2車線の1本道を2km分ほど走るとメイン・ゲートがあります。 ただし、今ではこの脇道の両脇には小綺麗な戸建ての住宅地が広がっているようです。


直ぐ近くには空母艦載機及び哨戒機のベースであるオシアナ米海軍航空基地 NAS Ociana というがあります。 射撃指揮装置や対空レーダーの教務では、ここから離発着する海軍機が良い目標になっています。


ダムネックというところもまた面白い施設で、色々な組織の集まった複合体の基地です。 私の行くミサイル学校や砲熕武器学校、最初のグレート・レイクスの項でもお話しししました下士官兵用の各 C School、そしてサンディエゴのポイント・ローマと同じく大西洋側の FCDSSA, Atlantic と FCDSTC, Atlantic があります。 その他にも色々あるようですが、これらは教えてもらえませんでした (^_^;



( 当時配布されたダムネックの施設配置レイアウト図 )


( 元画像 :Google Earth より  ダムネックの全体配置の近影、当時とは建物などが大分変わっています )




 NAVGMSCHL


海軍ミサイル学校 NAVGMSCHL (Naval Guided Missile School)というところは、元々は米海軍の3T (Tartar、Terrier、Taros) ミサイル・システムを教えるところですが、私が留学した当時では既にタロスの課程は無く、その替わりにシー・スパロー Sea Sparrow を教えていました。


そして、留学時期の教育課程の再編により、士官用の課程は元々のものより更に簡略化されて、SMSF (Surface Missile System Fundamental) 課程 (1週間) に引き続き、各ミサイル・システムについての課程 (7週間) が行われることになりました。 私の場合は Tartar Officer Advanced という課程です。


ところが着任したときに学校側から申し渡されたのは、ターターの課程は7週間ではなくて5週間ということでした。


と言いますのも、7週間の内最後の2週間は3つのミサイル課程合同で、管理事項1週間と、戦術ウォー・ゲーム1週間となっており、何れも外国留学生は不可ということでした。


如何にダメと言われても、こんな面白そうな教務を逃すのは勿体ないです。 折角米国まで来ているのですから。 そこで学校側と掛け合った結果、管理事項については聴講という形でOKが出ました。 しかし、ウォー・ゲームだけはどうしても受講許可にはなりませんでした。 まあ、これは致し方ないと言えば、致し方ないですが。


最初のSMSF課程は、次の各ミサイル課程に入る前の共通基礎に関する教務で、一般大学のROTC出身か、アナポリスで理工学を専攻しなかった者が対象です。


続く各ミサイル課程の5週間は、それぞれのミサイル・システムのハード・ウェアに関する教務で、座学と FT C School へ行っての実習とがあります。 ミサイル射撃指揮装置の実習の内、実際に電波を出しての教務は、今回は大抵夜間に行われました。 オシアナ基地での夜間飛行訓練のスケジュールに合わせたためと考えられます。


この FT C School での実習の時、グレート・レイクスでの FT A School のクラスメート達が各課程に入っており、時々実習講堂で顔を合わせました。 米士官達は、私が彼等下士官連とちょくちょく親しそうに話しをするのを不思議そうに見ていましたが (^_^)


ただ、5週間の教務期間中に、授業中にもかかわらず教官が 「○○大尉と△△中尉、ウォー・ゲームをやるので来てくれ」 と言って学生を引き抜いていきます。 教官達がやるのに人数が足りないので、各課程から2〜3名ずつ集めるのです。


学生は修業後派所属元の艦に戻るので、ハード・ウェアについては艦で実地にしっかり学べば良いということなでしょうが、まあ士官用の課程はこんなものなのかと (^_^)  そしてそれ以上に、米海軍の士官にとっては、このウォー・ゲームなどによって戦術的センスを養うことは、当時注目されていたTAO課程と同様に、相当な重点が置かれていたことが判ります。


このウォー・ゲームというのは、米海軍部隊と対抗部隊の演習部、そして審判部がそれぞれ別の教室に入り、机などを隅に片付けて広くなった床に艦船や航空機などのミニチュアの駒を並べて行う、その名の通りのいわゆる 「フロアー・ゲーム」 と言われるもので、各演習部と審判部の教室間は S/P (Sound Power) という無電池電話で繋ぎ、その通話担当には学校配属の下士官兵が付きます。


駒を動かすのも、判定も全て手作業ですので、相当な人数が必要で手間暇がかかるものであることはお判りいただけると思います。 そして、大体毎週1〜2回程度は教官と抽出学生でチームを組んでやっていました。


教務の休み時間や放課後に廊下からドアの窓越しに眺めていましたが、非常に熱心にやっていたのが印象的でした。 まあ、冷戦真っ最中であり、彼等にしてみれば決して他人事の話しではないからでもありますが。


残念ながら、最後の1週間の3課程合同の大々的なウォー・ゲームには参加することは出来ませんでしたが、課程担当教官の好意により、そのシナリオ集を貰いました。 これによると、学生は課程内容であるそれぞれのミサイル・システムに関係する艦などではなく、米海軍の任務部隊の一つを持たされたり、空母機動部隊の艦載機の運用・作戦担当であったりと、かなりハイレベルのことをやらされていたようです。


最初のSMSF課程はともかくとして、続くミサイル課程のハード・ウェア5週間と、管理事項1週間は、こういう内容の教育は当時の海上自衛隊では出来ませんので、私としては大変に勉強になりました。 これだけでも米国に来た甲斐があるものです。


その後海上自衛隊でも横須賀に 「誘導武器教育訓練隊」 が出来ましたが、ハード・ウェアそのものに関する事項はともかくとして、米海軍の様に最新の情報を適時適切に教育に盛り込んでいくことは不可能なことで、この辺を考慮すると継続して米国に留学させることにより新しい知識及び米海軍の状況を吸収してくることは、現在の海上自衛隊にとっても大切なことと考えます。




 ダムネックでの生活


ダムネックは基地内のBOQに宿泊しますが、これまでの所と比べれば規模は大きいのですが、良く言えば由緒ある、悪く言えば古くて少々陰気くさいところでした。 ただし部屋は12畳くらいの広さがあり、設備も十分でした。


食事はBOQ内にある Officer's Mess Closed という宿泊者用の食堂が利用できました。 昼もやっていますので、昼食も一旦BOQに戻ってここで摂ります。


毎週木曜日の夕方がビーフ・イーターズ・デーとなっており、ロースト・ビーフ、サラダ類は食べ放題、樽に入った赤ワインも飲み放題でした。 食堂の片隅に牛の片腿がぶら下がっており、そこへ行って “ここ” と指さしてコックさんに切って貰います。 ワインは樽のところへ行って、自分で木栓を抜いてグラスに注ぎます。 お腹一杯になるまで何度でも。 確か12ドルくらいだったかと。


木曜日の朝になるとクラスメートと今日は行く? と。 結構この木曜日は人気があったようです。 ある時、基地内の戸建て宿舎に住んでいるらしい米士官夫婦が来ていましたが、どうやら婦人の方がワインを飲み過ぎてしまったらしく、帰る時に立ち上がった瞬間、スッテンコロリン。 周りの皆はこれにはちょっとビックリしてしまいました。


この食堂の横には小さなバーが併設されており、食後の一時、バーテン兼のお姉〜さんとお喋りしながら暫し飲むのも夜の楽しみでした。


2週間ほどほぼ毎日この食堂に通っていると、ある日顔馴染みになったウェイトレスさんに 「貴方、こんなところばかり来ないで、他に食べに行くところないの?」 と言われてしまいました (^_^;  まあ、私としては特に不満はなかったのですが、そう言われてみればと思い、それからは週の半分くらいは外へドライブを兼ねて食べに出ることに。


ところが、外に食べに出ると行ってもこれも大変なのです。 基地そのものが、いわば人里離れたところにありますし、最も近いヴァージニア・ビーチの街といっても季節外れの冬で、しかも元々が西海岸とはうって変わった暗く静かなところです。


そうこうしているうちに、とある場所で日本料理屋を見つけました。 経営者兼マスターは30代の日本人男性、ウェイトレスさん (日本料理屋なので仲居さんか) は日本人女性と韓国人女性の半々。 何度か通ううちに皆さんと顔馴染みになっていつもワイワイと楽しく食事ができ、それからはダムネック滞在中に結構利用させてもらいました。 ここのタラバガニのバター焼きは大変に美味しかった記憶があります。


因みに東海岸は飲酒運転には厳しい州が多いです。 特にこのヴァージニア州は、例え飲んでいなくても、車の後部座席に裸の缶ビールや封を切ったウィスキーのボトルなどが置いてあれば、それだけで検挙されてしまう程です。 ですから外に出た時は、帰りを考えると食べながら飲むことができません。 これだけは少々つまりません。

また、普通のレストランのウェイトレスさん達も、こちらが呼ぶまでは注文にも来てくれません。 特に有色人種に対してはそうであったように感じました。 それに西海岸でのように気軽に話しを、などということも全くありませんでした。

ある日、教官と雑談している時に出たことですが、FT C School に入ってくる若い水兵さん達が、毎クラス入校早々に決まって教官に真面目な顔で質問するそうです。 「教官、ここではどこへ行ったら若い女性と知り合うことができますか?」  彼等にとってもヴァージニア州というか、東海岸はそんな雰囲気、土地柄だったようです。


さて、週末の行動ですが。 これは一般的な観光にしても、私の個人的な興味としても、この周辺は見所が沢山あり、毎週末は結構忙しかった記憶があります。



( 元画像 : Google Earth より  ダムネックでの週末の行動範囲 )


古きウィリアムスバーグの景観保存地区やポーツマス市街、ニューポートニューズ造船所や海事博物館などの一般的な観光場所はもちろんですが、IDカードを有効に活用しての、空母や強襲揚陸艦、巡洋艦が桟橋にズラリと係留されているノーフォーク海軍基地、空母の艦載機や P-3C が翼を休めるオシアナ海軍航空基地、それに当時最新鋭の F-15 がエプロンに圧倒される数で並ぶ戦術空軍の本拠地であるラングレー航空基地、などなど。 特にリトル・クリークなどになると、これはもうマニア並ですね。


その他、少し遠出では、日帰りのアナポリスの海軍兵学校見学、及びワシントンへの一泊二日の観光旅行をしました。


アナポリスへは早朝出発し正午過ぎに到着。 しかしながらヴィジター・センターへ行ってみて愕然。 その日は Navy vs Army の恒例フットボール競技の日で、全学生・教官はニューヨークへ行っており校内はもぬけの殻。


このため案内人が付く一般見学ツアーは中止となっていましたで、IDカードを提示して一人で校内をブラブラ散歩することに。 誰もいないために、一段と広々として見えました。 グランドなどをグルッと一周しましたが、残念ながら屋内に入れたのは学生館メインのバンクロフト・ホールのロビーだけ。 折角ここまで来たのに〜、という思いでした。



   

( バンクロフト・ホール玄関前の広場にて )


( 元画像 : Google Earth より  現在のアナポリス米海軍兵学校の全景 )


ワシントンへの一泊旅行は、防衛駐在官の沖為雄一佐 (当時) のお招きを受けたことによります。 2日間、ワシントン市内のあちこちを案内していただき、夜は夜で学生街でもあるジョージ・タウンで食事、そしてもうクリスマスの電燈のデコレーションが施された洒落た住宅街の散歩、などなど。 そして駐在官のお宅に泊まらせていただきました。



   

( 左 : アーリントン墓地からワシントン中心部を望む    右 : ペンタゴンにて )


因みに、後年海将補になられた沖氏と会議か何かの席でお会いした時に、ワシントンでの事など色々お世話になったお礼を申し上げたところ、氏はこの時のことを覚えていてくれて 「礼には及びません。 いつか貴方が同じように後輩達に返してくれればそれで良いのです」 でした。 こういう先輩に接することが出来たのは、今でも幸せなことだと思っています。 




 いざ帰国、その前にちょっと寄り道


さて、約半年間の米国留学を終えていよいよ帰国です。


車は知り合いになった日本食堂のオーナーに譲ることになりました。 そして増えに増えた様々な物のうち、不用なものを処分して身軽にならなければなりません。 とてもスーツケースと手持ち荷物2個には収まりませんので。 この処分した中には、あとから考えると惜しいことをしたと思うものも沢山あったのですが ・・・・


海幕からの帰国指定は12月6日 (月) になっています。 そして課程最後の1週間は米海軍におけるミサイル関係の管理事項ですから、直接関係しない留学生の私は聴講扱いですので週末の試験はありませんで、木曜日で修業です。 ということは、日付変更線のことを考えても、帰国までに金・土の2日間の余裕があると言うことです。


ここでハタと気が付きました。 航空券はラウンド・チケットになっています。 それならば、帰りにハワイ経由に変更できるのではないか、と。 3年前の遠洋航海でハワイに寄港した時は実習幹部のためほとんど自由時間がありませんでしたし、自腹のドルに換金した分も少し残っていますのでこれも使えます。


近くの旅行会社に行って確認すると、チケットはもちろん無問題とのこと。 早速ハワイ経由に変更してもらいました。 そして窓口のお姉〜さんに 「貴女ならハワイはどこに泊まりたい?」  即座に 「私なら絶対にロイヤル・ハワイアン・ホテル。 もちろん新婚旅行で」 とのこと。


皆さんご存じのとおり、Royal Hawiian Hotel はピンク色の外壁で有名な、ワイキキで最も由緒ある高級ホテルです。 その場で2泊を予約。 ただ既に年末のクリスマス・シーズンに入っているので残念ながら良い部屋は取れませんでしたが。




ダムネックを離れる日は、小雪が舞う猛烈に寒い日でした。 車に荷物を積んで日本料理店のオーナーのところへ行き、そこで車を渡すと共に、そのままヴァージニア空港へ送って貰いました。


そこからローカル便に乗って懐かしのシカゴ・オヘア空港へ。 シカゴも寒波の最中でした。 そして乗り換えて一路ハワイへ。 寒い寒い東部から、今度は一挙に南国、常夏のハワイです。


2日間はそれこそワイキキ周辺を遊びまくりました。 楽しかったです。 ワイキキ・ビーチも、アラ・モアナも、ダウンタウンも、どこも良かったです。 そしてホテルは雰囲気も、設備も、サービスも最高でした。 ただ、ダムネック修業時にIDカードを回収されてしまったのは、当然のこととはいえ残念なことでした (^_^;


ホテルでは年末恒例のハワイアン・ディナー・ショーが行われており、これを予約。 ビーチに面したガーデン一杯に席が設けられており、中心にステージがあります。 約2時間、蒸し焼き料理などを食べながら、ハワイ諸島や南洋諸島の様々な踊りや歌を楽しみます。


このディナー・ショーの写真をご覧いただくだけでも、いかに楽しい2日間のハワイであったかをご想像いただけるかと。 何しろ40年前のハワイです。 まだ古き良きハワイが残っている時代でした。



(会場入口でレイを掛けてもらって)


      

      


日曜日の午前ハワイ発、日付が替わって12月6日の月曜日、羽田に戻りました。 実に楽しく、興味深い半年間であり、若い時代にこのような機会が得られたことは得難い経験となりました。 そして一生忘れられない良き思い出です。




翌日、帰国報告のため海幕に出向き、公用旅券を返納しました。 もちろん、ハワイに寄ってきたことなどは素知らぬふりで言いませんでしたが ・・・・ 米国出国がハワイのスタンプになっていたことは気が付いたかどうか (^_^)


これにて約半年間にわたる米国での一人旅が終わりました。 あとは報告書を書いて提出するのみです。


何かあってはいけないと、事前にワシントンの防衛駐在官にハワイに寄ることを相談しておきましたが、時の駐在官沖一佐は 「それは良いことだ、是非寄って帰りなさい」 と。 嬉しかったですね。




(第3-1話 半年間の米国生活 終わり)






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最終更新 : 30/Mar/2014