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2-4-12.ペナン


 ポートルイス → ペナン


モーリシャスのポートルイスで補給を主目的とする3日間の寄港を終え、10月25日(金)朝9時に出港、インド洋を横断して、遠洋航海最後の寄港地マレーシアのペナンに向かいます。


ただし、モーリシャスから真っ直ぐマラッカ海峡に向かうのではなく、一旦北上してセーシェル(Seychells、Sesel)諸島手前まで行きそこから東への航路をとります。 そしてモルディブの南側を通って大ニコバル島と北スマトラ島の間からマラッカ海峡に入ります。


この一旦セーシェル諸島手前まで北上する航路をとった理由は良く判りません。 インド洋横断で何かあった時のためにできるだけ島嶼など陸地に近いところを通ることとしたのか、あるいはセーシェル諸島近くにあるソ連海軍の錨地を確認する為なのか ?





因みに、このソ連海軍の錨地には深海浮標が2基設置されており、私などは “もしここにソ連艦が停泊していなければ浮標を3インチ砲で沈めてしまおう” と主張したのですが、もちろんそのようなことは受け入れられるはずもないことで。  もしこのソ連海軍の錨地がどこなのかをご存じの方がおられるのであれば、それはかなりの情報通ということですね (^_^) 



インド洋横断中は気象、海象ともに比較的穏やかで、10月30日(水)にはハイラインにて司令官が「あおくも」に移乗して一日訓練視察、10月31日(木)午後には香取神社祭、続いて南半球から北半球へ戻る2度目の赤道祭、11月1日(金)午前にはボフォースの訓練発射を実施し、その他の訓練等も予定通りに経過しました。


10月31日(水)の赤道祭は2度目のことでもあり、また南半球から北半球に戻るということでもありますので、9月30日(日)の最初の時ほど盛大には行われず、実習員の参加も手空のものであったと記憶しており、私も参加しません (できません)でした。


そして11月4日(月)午後14時、ペナン島ジョージタウン沖に仮泊しました。 この仮泊中には私達実習幹部はマレーシアやペナンの情勢に関する講話などは無く、その他も特に何も無かったと記憶しています。


昔から単に 「ペナン」 と言った場合には、マレーシア半島側も含む 「ペナン市」 で はなく、旧海軍時代からその基地が置かれた 「ペナン島」 (Pulau Pinang)のことを言い、特にその北東部の大都市である市都のジョージタウン (George Town) のことを意味します。




( Google Eartj より )


 ペナン寄港


11月5日(火)朝7時に仮泊地を抜錨、登舷礼により礼砲を交換しつつ、8時半ジョージタウンの指定桟橋に横付けしたのですが、実はここがどこであったのかハッキリした記憶がありません。


しかしながら、ジョージタウンにはその北東のコーンウォリス要塞(Fort Cornwallis)跡の脇にあるスウェッテナム桟橋(Swettenham Pier)が代表的なところであり、またここしか他に横付けできるところがありませんので、ここであったと考えられます。


このスウェッテナム桟橋は、今では大規模に近代化されており、外航大型客船などの横付け用及び近郊フェリーの桟橋となっていますが、当時は未だ第2次大戦中に旧海軍が潜水艦桟橋として利用した状況のままに近いものであったと思います。 また、すぐ対岸の大きな桟橋もまだありませんでした。


ここが第2次大戦時の日独海軍の重要な潜水艦基地であったことなどは当時全く話も出ませんでした。 練習艦隊司令部も「かとり」士官室も多分誰も知らなかった ?




( Google Earth より  赤丸 が近代化されたスウェッテナム桟橋 その左側がコーンウォリス要塞跡 )




( 現在では桟橋は北側に延長され(色の明るい部分)、元々の桟橋部分には旅客ターミナルの二階建ての屋根が出来ています)



( 昭和17年撮影とされるスウェッテナム桟橋  潜水艦などが横付けしています )



(上:昭和17年の日本潜水艦 下:昭和19年のドイツ潜水艦2隻 それぞれスウェッテナム桟橋横付け時の状況 )


この遠洋航海最終寄港地であるペナンも、11日間をかけてインド洋を横断し、次に12日間をかけて日本に帰国するための補給地としてがその寄港目的の大きな部分です。 このため寄港は僅か2日間であり、私達実習幹部も入港時の諸行事などの他は研修などは全くなく、2日間とも自由上陸でした。



 ペナン島内散策


寄港した11月5日(火)はペナン寄港に伴う諸行事が終われば後はフリーでしたので、昼食を摂ってから先ずはジョージタウンの市内散策に出掛けることに。


上陸してくる練習艦隊の乗員を客待ちしている(待ち構えている)トライショーと呼ばれる三輪の人力車が桟橋の手前に沢山おり、これに乗って市内の目ぼしいところを回ります。





そして極楽寺(Lek Lok Si Temple)やペナン・ヒル(Panang Hill)に行ってジョージタウンを眼下に眺めます。








夕方にはトライショーの運転手さんの案内で街中のクラブへ。 広いフロアーに多数のボックス席があり、日本のようにホステスさんが数人ずつついてお酒や話しの相手をしてくれます。 周りは全て練艦隊の乗員や実習幹部のグループばかりで一杯でしたが (^_^)


ママさんらしい女性は日本語はペラペラで、ホステスさん達の中には片言の日本語も話せる人も結構いたようですが、私達のボックスについた二人とは英語のみ。 ところが、この英語が互いにほとんど通じませんで ・・・・ 2時間ほどいて引き揚げることに。



翌11月6日(木)は、2課程出身(一般大出)の同僚が “レンタカーを借りて島内を回ろうよ。国際免許証を持ってきたから俺が運転するよ” と。 これは願ったり叶ったりで、レンタカー屋さんに行きまして4人で1台借りて。


このレンタカー屋さんの窓口には中国系の大変に可愛いお嬢さんが。 夕方返しに来た時に “もしもう仕事が終わるなら、一緒に食事でも?” と誘いたくなるような笑顔がステキな人でしたね。




( どこかの海岸で )


( ちょっと郊外に出るとこういう家並みの部落が点々と )


島を反時計回りに回ったことは覚えていますが、どこをどう回ったのかは ・・・・ ?  何しろ、ず〜っとワイワイガヤガヤでしたので (^_^)



夕方レンタカーを返却してから揃って街中の中華街にある中華料理店へ。 建物の2階にある結構有名なところのようでしたが、店名などは失念。 


ここでは4人に一人ずつウェートレスさんが横について食べ物を取り分けてくれたりお酒を注いでくれたりと至れり尽くせりのサービスぶりでした。


料理は4人で色々注文しましたが、どれもなかなか美味しかった記憶があります。


ただ、勧められたスッポンの料理だけは皆ちょっと口に合わなかったようです。 特に一緒に出てきたスッポンの生き血は生臭くて、とても私は飲めませんでした。 ウェートレスさんは “精力がつくのに” と笑っていましたが (^_^;


で、夕食の後、明日からの帰国に向けての最後の長い航海に備えて早めに艦に戻ることに。


帰り道に夜まで開いている土産物屋さんなどが並ぶ通りを歩いていまして、“もうこれで最後だから、残ったドルを全部使ってしまおう” と思い、さる土産物屋さんでワニ皮の小さなハンドバックを見つけてこれを “まだ見ぬ未来の伴侶に” と買いましたが、かなり安かったような。


ブログの方でもご紹介しましたが、このハンドバックは帰国後に母に召し上げられてしまいましたが、今ではその形見として目出度く家内の手許に戻ってきました (^_^)  でも、確かペナンでは残りのドルを使い切ってしまおうと同じものを2個買ったように覚えていますが ・・・・ 帰国してから1つを母に召し上げられたものの、もう一つの記憶がありません。 遠洋航海の土産物は全て長いこと家に置きっ放しでしたので、母が誰かにあげたのかな ?




結局のところ、実習幹部に対しては寄港地についての講話などがあるわけではなく(当直実習以外で暇のある者は科員食堂での乗員達による寄港地講和(情報交換)に出た者もいたようですが)、いつも通り制服を着て単に “自由に見てこい” ということで、目の前にある現在では世界遺産の一つになっている 「コーンウォリス要塞」 跡などは(知らずに)見ないままで終わってしまいましたし、横付けした桟橋が旧海軍の潜水艦基地として使われていたものであることなどは当時は教えても貰えませんでした。 せめて市内の主だったところくらいだけでも事前に説明があれば、と。



 ペナン出港


ペナン寄港は僅か2日間で、11月7日(金)朝9時に出港、ペナン島を反時計回りに回って(スウェッテナム桟橋からそのまま南に下るのでは浅くて狭いので)マラッカ海峡を通りシンガポール沖を通過して南シナ海、北太平洋に入り、世界一周の遠洋航海を終えて横須賀に向かう帰国の途に就きます。







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最終更新 : 26/Nov/2023