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第6話 錨地まで5マイル |
「呉水交会」 が毎年1回、1月1日付けで発行している 『呉水交』 という会報誌があります。 令和2年の同誌の中に、現在呉水交会事務局長を務めている 木津忠則氏 による標題の記事が掲載されていました。
「錨地まで5マイル」という艦内令達は、元々は旧海軍において機関指揮所に通報することを目的として、航海士 (副直将校) がその地点に達したことを艦長、当直将校に届け、艦内全般に知らしめるものでした。 この令達によって、機関科はもとより、甲板関係の乗員も間もなく入港準備作業にかかることを知るわけです。
その一方で、木津氏の前書きにもありますように、私達船乗りにとっては、この 「錨地まで5マイル」 の令達によって、特に長期行動の後に母港に戻る時などは、“あ〜、やっと帰ってきた” “もう少ししたら母港に戻って上陸 (外出) ができる。” “家に帰って家族の顔を見ることができる” などなど、一人一人で様々な想いが胸に上がってくる特別な意味合いがありました。
著者の木津氏は部内幹部候補生課程出身で、大変見識深く、かつウィットに富んだ記事をこれまで何度も 『呉水交』 誌 で披露されています。
今回の記事でも、呉、横須賀、佐世保、舞鶴、そして大湊と、5つの総監部所在地入港時のことを、それぞれでの思い出も含めて簡潔かつ私達海自OBにとっても大変に懐かしく、面白いものに纏めておられます。
それだけに一般の方々にも旧海軍及び海自艦艇部隊での様子の一つとして楽しんで貰える格好のものと考えますが、ただ何分、原文は文章のみですので、出てくる地名、場所などが海自OBにとっても運航関係の配置を経験したことがない人でさえちょっと分かり難いところがあろうかと思います。
そこで、ご本人の承諾を得て当該記事をご紹介すると共に、私の手持ちの海図などで少し補足してご参考に供したいと思う次第です。
はじめに |
呉 |
横須賀 |
佐世保 |
舞鶴 |
大湊 |
後書き ・ 墓地まで5マイル |
錨地まで5マイル |
木 津 忠 則 |
呉の桜も満開を過ぎた平成31年4月10日、Fバースにおいて練習艦隊の呉入港を待ちつつ行き交うフェリーや麗女島を眺めていると、ふと 「錨地まで5マイル」
という艦内号令を思い出した。
「錨地まで5マイル」 の語感には、あと30分もすれば長い航海も終わり、入港そして上陸だという解放感と、間もなく入港準備作業が始まるという緊張感が交錯する独特な響きがあり、海上勤務経験者にとって郷愁を感じる言葉ではないかと思っている。
呉、横須賀、佐世保、舞鶴、大湊入港時の 「錨地まで5マイル」 について回想してみたい。
私が 「錨地まで5マイル」 を強く意識したのは、昭和51年7月下旬、部内幹候卒業後のグアム島方面外洋練習航海を終えて呉入港前の出来事である。
呉入港約一週間前に、外洋練習航海後の人事が発表された。 私の幹部自衛官としての初めての配置は、第一護衛隊群隷下の第二十二護衛隊護衛艦 「なつぐも」
通信士であった。
「なつぐも」 の定係港 (母港) は呉であり、広島湾及び呉港の地形を覚えようと、実習護衛艦 「によど」 艦橋トップで目を凝らしていた私に、呉勤務の長い潜水艦
(航海) 出身の同期が、「呉港は江田島切串沖の二ツ小島正横が錨地5マイル前である」 と教えてくれた。
横付け場所によって正確な距離は異なるが、呉を定係港とする艦船の不文律となっているとのことであった。 その言葉は、これから迎える不安一杯の 「なつぐも」
通信士勤務に、一筋の光明が差し込んだような天の声に聞こえた。 通信士の主たる勤務場所は艦橋であり、艦橋副直士官として陸測艦位の測定は最重要と言って良いほどの主要な業務の一つである。
幹部候補生学校に入校までは、護衛艦には乗組んでいたものの電信員としての勤務であり、当然ではあるが陸測艦位の測定の経験もなく、幹部候補生学校期間中に練習船実習や乗艦実習を通じて、積極的に艦位測定訓練にトライするも、陸上の目標三点の方位を測定して位置を決定するのは容易ではなかった。
特に広島湾は島が多く水路も狭隘で、しかも海図上の平面地形と実際の立体地形がマッチせず、どれも同じような島に見えてしまい陸測艦位を入れる事が難しかった。 それが呉入港時にはたとえ艦位が入っていなくても、二つ小島正横になれば
「錨地まで5マイル、となりました」 と報告できることを教えてくれたのである。
「なつぐも」 通信士勤務期間中、「二ツ小島正横は錨地まで5マイル」 の情報を十分活かし、「錨地まで5マイル」 が下令された以降の入港に係る艦橋での諸作業、港務隊に対する錨地の指定や曳船の手配依頼、入港準備作業下令時期のリコメンド等、スムーズに行うことができた。 不思議というか、所定の時機に所定の報告ができると、艦位測定にも余裕ができて陸測艦位も入るようになってきた。
呉湾の南にある音戸瀬戸と早瀬瀬戸は狭いために護衛艦は通りませんので、岩国沖 〜 宮島 (厳島) 沖 〜 那沙美瀬戸 〜 大須瀬戸というように、能美島・江田島を反時計回りにグルッと回って入港することになります。
( 元画像 : Google Earth より )
江田島北側の大須と似ノ島間の大須瀬戸を抜けると、切串の北に突き出た岬の先の屋形石という小島 (岩礁) にある屋形石灯標 (これは顕著な陸測目標です) を右に見て南に変針し、呉湾に向かいます。
( 元画像 : 海図 No.142 昭和27年版 より )
( 屋形石灯標 元画像 : ネットからお借りしました )
その南に変針してしばらくのところ、左側の呉市天応の反対側、江田島側の陸地近くに2つの小さな島があります。 現在の呉弾薬整備補給所の桟橋の丁度向かい側です。 これが上記に出てくる 「二ツ小島」 という目標です。
( 元画像 : 海図 No.142 昭和27年版 より )
( 二ツ小島 元画像 : Google Earth より )
横須賀は、第二海堡正横付近の浦賀水道西端を過ぎたところと記憶している。
横須賀入港時は、まず浦賀水道に入る手前の剱崎灯台沖付近において東京湾海上交通安全センターに浦賀水道に進入する旨通報し、浦賀水道航路を北上する。 私が現役の頃は、第三海堡の岩礁が存在していたので、浦賀水道最狭部通過時は
「航海保安部署」 が発令されていた。
第三海堡最狭部2千メートル前にて 「浦賀水道最狭部を通る、航海保安配置に着け」、最狭部を通過し、第二海堡正横付近にて浦賀水道航路を横断し、航路外に出たところで
「水道を出た、航海保安用具納め」 「錨地まで5マイル」、用具復旧後、「別れ、入港準備 ・・・ 」 の流れであったように記憶している。 第三海堡は平成19年に撤去されており、今は浦賀水道航行時に航海保安部署を発令する艦はないと聞いている。
横須賀入港時の 「錨地まで5マイル」 が、「錨地まで8マイル」 になってしまった苦い経験がある。
音響測定艦 「ひびき」 船務長勤務時 ( 「ひびき」 には航海長配置がなく、狭水道等、船務長が操艦する) 海洋群集合行事のため、1600横須賀入港の予定で、1530頃
「錨地まで5マイル」 を令し、第二海堡正横付近から浦賀水道を横断して横須賀港外に向かおうとするも、東京や横浜で日中に積荷を終えた貨物船やタンカーが浦賀水道航行時の制限速力12ノット
(時速約22km) で途切れなく南下しており、最大速力11ノットの 「ひびき」 では増速してその列線を横切ることができないため、やむなく北上を続け、浦賀水道北端の横浜根岸沖において反転南下し、横須賀港に向かった。
「錨地まで5マイル」 が 「錨地まで8マイル」 となってしまったのである。 速力の出る船がうらやましかった。
日々東京湾に出入りする船舶の量は大変に多く、かつ浅瀬や暗礁なども多いため、特に横浜 〜 浦賀の間は難所の一つとなっており、このため 「浦賀水道航路」 が設けられて航行区域や速度制限が定められております。 そしてこの浦賀水道航路を通る船舶は、事前に観音崎にある海上保安庁の 「東京湾海上交通センター」 に通報することが義務付けられています。 これは海上自衛隊の艦船といえども例外ではありません。
( 元画像 : Google Earth より )
特に、観音崎 〜 第二海堡 〜第一 海堡 〜 富津洲崎にかけては地形及び水深から小型船以外の航行可能範囲は極めて制限されており、浦賀水道航路北端及び同水道から中ノ瀬航路へ抜ける船舶が輻輳する場所でもあります。
( 元画像 : 海図 No.1062 昭和54年版 より )
浦賀水道航路を北上して横須賀港に入港する艦船は、上の海図にある赤色で囲まれた航路横断禁止区域を出た以降、適宜のところで左へ大きく回頭してこの航路帯を抜け、横須賀港外に向かわなければなりませんが、原文にあるように、時刻帯及び潮流の状況によっては、東京・横浜方面を出港して浦賀水道航路に入ろうする船舶が数珠つなぎになって南下してくることになります。
このような時には、後続の船舶にお尻をせかされないように12ノットのまま横浜方面に北上しつつ、南下する船舶の切れ目を伺うことになります。 そして “この船とこの船の間を” と判断した時に、増速してそれら南下船舶の間を横切ることになります。
南下する両船の間があまり広くない場合は、それら前後の船舶に不安を感じさせないように、国際VHFにて両船に “本艦、XX丸の後ろを回って横須賀方面に出ます” などと通報することもしばしばです。
( 元画像 : 海図 No.1062 昭和54年版 より )
この航路横断禁止区域の北端の目安が、原文にある第二海堡を正横に見るところです。
( 元画像 : Google Earth より )
( 元画像 : ネットからお借りしました )
以前は、浦賀水道航路を通るときにもう一つ注意しなければならないのが 「第三海堡」でした。 この第三海堡は、東京湾防備のために、この浦賀水道の最も狭いところにわざわざ設置されたものですが、完成から僅か2年後の大正12年の関東大地震で崩壊、ほとんどが水没してしまいましたが、以降これがまさに浦賀水道航行時の大きな障害となってきたのです。
特に霧中航行時など視界が悪い時には、結構この第三海堡の残骸に座礁する船舶があったのです。 かつて米海軍の巡洋艦がここにのし上げ、ソーナー・ドームを損傷したことさえあったくらいです。
そこで、平成12年から19年までの7年間をかけてこの第三海堡の撤去作業が行われ、今ではすっかりその姿を消して、航行の安全が大きく確保されることとなりました。
原文にもあるとおり、海上自衛隊の艦船は、従来この第三海堡と第二海堡の間を通る時には、出入港部署のような 「航海保安部署」 としていましたが、今ではこの必要は無くなったわけです。
(在りし日の第三海堡の残骸 元画像 : ネットからお借りしました )
立神地区に入港するのか干尽地区に入港するのかで錨地までの正確な距離は異なるが、佐世保入港時の 「錨地まで5マイル」 の目安は向後ア通狭時であったと記憶している。
佐世保の 「錨地まで5マイル」 で思い出されるのが、向後崎通狭後、佐世保側の山の中腹の家から必ず軍艦旗を振ってくれる人のことである。 家の庭には
「歓迎」 の意味の旗流も掲揚されていたように覚えている。 今でも旗を振ってくれているのだろうか。
いずれにせよ、佐世保入港と聞いただけで心がわくわくしてきた。 四ケ町アーケード街をもう一度歩いてみたい。
佐世保港に入るには狭い向後崎 (高後崎) の水道を通らなければなりませんので、その前に 「航海保安部署」 とし、そして通狭後に 「水道を出た、錨用意そのまま、航海保安要具収め、解れ、錨地まで5マイル、入港準備 ・・・・」 と一挙に続くことになります。
( 元画像 : Google Earth より )
( 向後崎水道進入前 昭和49年度内地巡航時管理人撮影 )
( 元画像 : 海図 No.1232 昭和35年版 より )
向後崎の水道は、狭いことはもちろんですが、2段に折れ曲がっているため両側の陸地で見通しが良くないことと、進入直前に 「洗出シノ瀬」 があるなど、結構通狭に気を遣うところです。
( 元画像 : 海図 No.1233 昭和53年版 より )
原文にもありますように、この向後崎を通る時にはいつも中腹の一軒家から総出で自衛艦旗 (軍艦旗) を振ってくれていました。 しかし現在の衛星写真を見る限りではこの一軒家が見当たらないようですが ・・・・ 今でもまだ振ってくれているのでしょうか?
ところで、著者の木津氏は “四ケ町アーケード街をもう一度歩いてみたい” と言っておられます。 確かにこのアーケードは三ヶ町アーケードと繋がっており、直線のものとしてはいまだに日本一で、人通りも多く賑やかなところです。
( 四ヶ町アーケード街 元画像 : ネットからお借りしました )
しかし、ひねくれ者の私などは、このアーケード街そのものと言うより、この通りから 「夜店公園通り」 に到る付近一帯の夜の繁華街の方がわくわくしてきます。 佐世保の夜は独身や単身者赴任者などにとっては大変に楽しいところで、一見さんであろうと常連さんであろうと区別無く歓待してくれ、しかもお店にボトルのキープがあればその都度はほとんどお金のかからないところが多かったですね。
第3護衛隊群などは群訓練のために司令部以下舞鶴を出港すると、まず佐世保に入港してここを母港とする残余の部隊と合同し、事前研究会などを行った後改めて出港します。 その舞鶴部隊の乗員は群訓練が近くなると舞鶴の飲み屋さんにはほとんど行かなくなるそうです。 それを不思議に思った舞鶴のママさん達が一度揃って佐世保に偵察に来たことがあるそうですが、その感想はただ一言 “これはとても敵わないわ” だったと。 それくらい佐世保の夜は楽しいところでした。 (あっ、観光地の長崎はまた別格ですが)
おそらくそういう意味ですよね、木津さん (^_^)
舞鶴の 「錨地まで5マイル」 は、博打岬を過ぎた現在の舞鶴火力発電所付近であるが、私が 「みねゆき」 船務長であった平成3年から平成6年頃は火力発電所も存在せず、博打岬をかわったら
「錨地まで5イル」 と認識していた。
当時の 「みねゆき」 の行動パターンは、舞鶴を出港して佐世保に回航、所属していた第三護衛隊群の 「はるな」 や第四十五護衛隊 「せとゆき」、「あさゆき」、「しまゆき」
と会合し、事前研究会等を実施して出港。 大隅海峡を経由してL海面で射撃や発射、対潜訓練を実施し、横須賀に入港。 帰途、太平洋側で訓練、佐世保経由舞鶴に帰港することが多かった。
佐世保を経由するのは、艦載ヘリコプターの搭載解除及び第三護衛隊群旗艦 「はるな」 に乗艦している司令部要員の輸送のためであった。
群行動は1カ月以上にわたる場合が多く、博打岬をかわり舞鶴湾に進入していくと、山深い若狭の山々は出港時には夏の深い緑であったものが、入港時には秋の黄色や紅色に色づいている等、季節の移ろいを山肌の色で感じることができた。
また、舞鶴入港時には若狭湾に入っても行合船が少なく、「錨地まで5マイル」 直前まで占位運動やサンドレッド投擲訓練のように、艦の運動を伴う訓練ができた。
呉入港時には考えられないが、「サンドレッド投擲訓練終了、用具納め」 「錨地まで5マイル」 と一連の号令が、艦内マイクから流れていた。
海上自衛隊の基地 (桟橋) がある東舞鶴に入港するには、博打岬を過ぎて金ヶ埼との狭い水道に入る前から東舞鶴湾の広いところへ出るまでは 「航海保安部著」 で、しかも大型艦は速力半速以下で通る必要があります。
( 東・西 舞鶴港 元画像 : Google Earth より )
( 五老岳山頂より見た3枚の合成写真による舞鶴港 平成21年NHK 「坂の上の雲」 ロケ時管理人撮影 )
( 博打岬付近から見た舞鶴の水道入口 同 上 )
そしてこの水道を抜けてからの東舞鶴湾での選定航路にもよりますが、5マイル前はだいたい現在は関西電力の火力発電所となっている裏入 (上の写真で左側にタンカーの後部が見えるところ) の黒鼻 〜 松ヶ埼くらいになります。
したがって、原文にあるとおり、各艦で水道に入った時、あるいはこの前後の適宜の位置を5マイル前としているようです。 場合によっては、下の海図の赤点で示す、現在は船の形をした関西電力の広報館 「エル・マールまいづる」 正横付近となることもあります。
( 元画像 : 海図 No.1166 昭和35年版より )
( 「エル・マールまいづる」 平成21年NHK 「坂の上の雲」 ロケ時管理人撮影 )
大湊には 「錨地まで5マイル」 の顕著な横目標はないと記憶している。
大湊航空隊を概ね左45度に見た頃、レーダーで艦首陸岸までの距離8千ヤード (4マイル) が目安となる。
平成10年5月、宗谷海峡での任務行動を終え、大湊帰投のため陸奥湾を相変わらずの刺し網に悩まされながら東航していると、「錨地まで5マイル」 付近で艦首方向に巨大な黄色の絨毯が広がった。
大湊の乗員にあの眩しい黄色は何かと尋ねたところ、陸奥横浜町の丘陵地帯の菜の花畑であった。 黄色に輝く菜の花畑の絶景は忘れられない。
菜の花畑の遠景を右に北上のコースを続けると、釜臥山山頂のレーダーサイトがはっきりと確認できるようになり、さらに北上を続けると、芦崎湾進入の際の向首目標となる一本杉が見えてくる。
大湊入港前の 「錨地まで5マイル」 付近の良い思い出である。
ご存じのとおり、海上自衛隊の大湊基地は津軽半島と下北半島で囲まれた広い陸奥湾の東側最北端にあります。 津軽海峡から陸奥湾に入って、下北半島をグルッと回りますが、途中は他の4基地と異なり地形的には特に難しいところはないものの、原文にもあるとおり昔から刺し網が非常に多いため、これを避けながら航行するのは結構大変です。 特に視界があまり良くない時には面倒なものです。
( 元画像 : Google Earth より )
黒崎を回って北東に針路をとってからは特にこの刺し網が多かったように記憶しています。
( 元画像 : 海図 No.143 昭和24年版 より )
私は大湊勤務がありませんし、また春の時期に入ったこともありませんので、残念ながら原文にある菜の花畑の黄色のジュータンにはお目にかかったことがありません。 しかしながら、陸奥横浜付近というのは他にほとんど何もない (失礼) ところですので、この菜の花畑というのはさぞ綺麗なものであったろうと思います。
釜臥山山頂のレーダーサイトは、以前は通常の球形ドーム型のもので、これも遠くからよく見えたものですが、平成23年には俗に 「ガメラ・レーダー」 と呼ばれる現在の無骨な J/FPS-5 に換装されています。
( 左 : 元の球形レーダー・ドーム (昭和50年の国土地理院航空写真より)、 右 : 現在のレーダー・ドーム (ネットからお借りしました) )
大湊の総監部前の桟橋に着けるには砂州の先端の芦崎を回って内港に入りますが、狭いのと浅いので 「きりしま」 などのような大型艦は入れませんので沖に錨泊となります。
( 元画像 : 海図 No.1157 昭和37年版 より )
この内港に入るときに芦崎先端を回るための針路の向首目標となるのが、原文で出てくる 「一本杉」 です。 この一本杉はむつ市立大湊小学校の海岸側にありますが、昔からよく目立つ目標でした。 小学校の校舎は新しいものに建て替えられていますが、この一本杉は今でも残されています。
( 元画像 : 海図 No.1157 昭和37年版 より )
( 元画像 左 : Google Earth より、 右 : ネットからお借りしました )
( 釜臥山と一本杉 平成11年 「きりしま」 寄港時管理人撮影 )
なお、現在 Google Earth などのネット検索をしますと、恐山への山道の途中にあるものが表示されますが、こちらは私は聞いたことがありません。 大湊で 「一本杉」 と言えば、この大湊小学校の海側にあるものです。
( 元画像 : Google Earth より )
練習艦隊が4月呉に寄港する際の係留バースは例年Eバースであったと記憶しているが、今年はFバースであった。
呉水交会事務局長として水交会活動に積極的に関わるようになった平成25年から練習艦隊入港歓迎行事には毎年参加しているが、Eバースで出迎え時には思い出しもしなかった 「錨地まで5マイル」 が、Fバースでは何故思い出されたのか考えてみた。
私の海上勤務は呉が多かった。 昭和51年の 「なつぐも」 通信士を皮切りに、「みねぐも」 飛翔長、「くまの」 航海長、「やまゆき」 航海長、「ひびき」 船務長、そして平成12年までの 「あおくも」 艦長である。
「ひびき」 以外の艦においては、Fバース入港、それも今回 「かしま」 「いなづま」 が入港したF2・F4バースが圧倒的に多かった。
呉湾や遠くに見える古鷹山山頂を眺めているうちに、Fバース入港前の現役の頃の血が騒いだのかと一人納得し、Fバースを後にした。 「墓地まで5マイル」
になる前に ・・・・。
Eバースは元々は小さな短い突堤でしたが、これに昭和50年頃までは小さなポンツーンを繋いだだけの貧弱なもので、掃海艇程度しか繋留しませんでした。 その後140m程の細長い浮き桟橋となり、掃海艇の他、一時潜水艦の繋留用としても使用しました。 そして平成20年頃には更に延長され現在の360mの本格的な桟橋となっています。
このため、現在輸送艦などが使用している係船堀岸壁が駐車場などとして利用できる利便性もあって、遠洋航海出発などの行事関係はEバースが使用されることも多くなっています。
一方で、Fバースは元々は 「大和」 の艤装で知られる旧海軍の220mの浮き桟橋でしたが、昭和60年頃に240mの新たなものに換装され、更に平成20年代に入って現在の420mに延長されています。
( 現在の呉の艦隊桟橋 元画像 : Google Earth より )
( 昭和49年 (左) と同53年 (右) の艦隊桟橋 元画像 : 国土地理院の航空写真より )
最終更新 : 12/Jan/2020