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2-1-1.帝国陸軍内務班かくありき



 着校はしたけれど


昭和44年3月30日、防衛大学校第17期生予定者として着校しました。 「予定者」というのは、4月4日に入校式が行われ、そこで任命・宣誓があって初めて正式な定員外の特別職国家公務員たる防衛大学校学生となるからです。


校門を入ったところに設けられた受付で着校の届けを済ませると、配属の小隊が指定されます。 第123小隊でした。 そして第1学生舎の2階、則ち第12中隊へ行くと、そこで何やら親しく、親切にしてくれる学生が待っていました。 この学生が新入生たる私の2学年の「対番」で、これから1年間学生舎での生活などの面倒を見てくれる人になります。


その対番学生の案内で、私の起居する自習室と寝室、そしてこの部屋の各学年2名ずつの上級生を紹介され、そして対番学生に引率されて医務室で最終的な身体検査を受け、合格すると制服などの被服一式を受領に行きます。 帽子や制服、作業服の上下、それに短靴や半長靴などが体に合うかを試着して確認し、全てを真新しい衣嚢に詰めて元の学生舎の部屋に戻ります。


さてここでハプニング。 制服を着た幹部(後で知りましたが、大隊指導官と中隊指導官)や上級生達が私を待ち受けており、“申し訳ないけど、4階に換わってくれるかな?”と。


新入生となる第17期生予定の着校者数が予想より遙かに多かったのと、合格後の書類手続きはしたものの結局着校しない者が出るなどで、各中隊毎の人数にかなりのばらつきが出てしまったことから、その調整がなされたためでした。


既に私の対番に決まっていた2年生は、見るからに優しい顔つき、物腰の人でしたが、結局自分の新入生の対番が貰えなくなってしまいますので、非常に残念な表情をされていたのが印象に残っています。


で、制服類一式が入った衣嚢を担いで4階へ。 第143小隊です。 しかし何故か、私の指定された部屋には既に他の新入生が2名おり、それぞれ2学年の対番も決まっていました。 後は部屋長の4学年1名と3学年2名。 このため当初の予定外で3人目の新入生となる私の対番はこの3学年の一人が(^_^)


ともかく指定された部屋で自習室の机と寝室のベット、ロッカーなどが割り当てられ、作業服に着替えます。 そしてこの日以降、防大の中では私服を着て歩くことはできなくなりますので、着てきた衣類は持参のバックに詰めて全て家に送り返すように荷造り。 


あとは3日間、ともかく入校式までに見かけだけは何とか防大生らしくなるように、立ち振る舞いや入校式のリハーサルです。 部屋の2学年以上もやさしく丁寧にこまごま色々とアドバイスしてくれます。 これが入校式が終わるまでとは思ってもいませんでしたが(^_^;


第14中隊は2学年以上の第141小隊及び第142小隊ともに陸上要員で編成される、いわゆる陸・陸中隊でした。 (で、何故か中隊指導官は海の村上3佐(^_^;) これに新入生34名の第143小隊が加わって、学生総勢91名と指導教官4名でした。



( 昭和44年の第14中隊の学生と指導教官 )


 入校式が終わると


入校式が終わると、最初の1ヶ月間は入校訓練があります。 ほとんどが基本教練で、個人、分隊、小隊の基本動作までができるようにします。


因みに、1大隊指導官付陸曹に日3曹という人がいました。 ちょっと小太りながら、一挙手一投足大変に立派な、まさに下士官の見本の様な人で、彼がこの基本教練の助教(実際には担当指導教官の代わり)としてかなりの時間を受け持ってくれたのですが、その日3曹が何かにつけ私のところへ来て “堤学生、あなたは陸にピッタリ。絶対に陸に進みなさい” と言ってくれました。 私もちょっと本気で “将来、彼のような陸曹がついていてくれるなら、陸も良いかも” と思ったことがある程の人でしたね。


そして入校訓練が終わると、そこから大学生らしく普通学の授業も始まります。


1年間、普通学の授業を受ける教務班も、そして陸海空の基本的な訓練を受ける訓練班も、143小隊の1学年全員で同じ1個班を編制し、日中の課業はほぼこの班で行動することになります。



( 昭和44年の第1学年第7班 34名 )


これでようやく防大生らしい生活に入れると思ったのですが ・・・・


ところが、昼間の課業はともかくとして、朝・夕・夜の学生舎生活は激変したのです。 それは入校式が終わった瞬間からでした。 それまで、優しく丁寧に接していた中隊の2学年が豹変したのです。 別の言い方をすれば、ある意味で正式に防大生となった以上は、士官学校らしい“厳しい躾け”に戻った、と言うべきかもしれません。


しかしながら、14中隊は第1大隊の他の中隊の様子と比較しても、それはちょっと度が過ぎていると感じずにはおられませんでしたし、まさに “躾け” に名を借りた “いじめ” “しごき”、現在で言うところの酷い “パワハラ” であったと今でも思っています。


このことはちょっと長くなりますので、どの様な14中隊1学年の学生舎生活であったかは、別項でお話しすることにします。


ともかく、船乗りたることを志して、そして高校の時に現役防大生の先輩(海上要員)から学生舎生活の話も色々と聞いていて防大に入校した私にとっては、それはまさに “帝国陸軍内務班かくありき” でした。


2学年への進級時に陸海空要員の選考が行われ、人数枠や能力の均等配分などの点から必ずしも本人の希望どおりには行かないかも知れないことがあることは入校前から聞いていましたし、また入校後には指導教官達のガイダンスなどでも何度となく聞かされましたが、現実に陸・陸中隊の学生舎生活での新入生に対する扱いを身を以て味わうと、このような “1期違えば・・・・” という関係と雰囲気がそのまま卒業後20年、30年続くのかと思うと、絶対に陸上要員、そして陸自幹部自衛官だけはなりたくないと思ったわけです。


これは決して陸さんの悪口ではありません。 陸には陸の文化・伝統があり、風習・習慣があることは確かです。 ですから私にとっては、いわゆる “肌が合わない” ということなのです。 実際のところ、それでも同期には陸を志願する者もいたわけですから。


その一方で、14中隊においても4学年や3学年は特に厳しいとか口やかましいと言った人はおらず、その雰囲気もありませんでした。 これは2学年のやり方を容認していたというか、意図的にやらせていた、からとも思いますが・・・・


後から思い出せば、中隊配属の指導教官達もこの2学年のやり方を見て見ぬふりをしていた、というか、多少厳しくしてそれが合わない新入生が我慢できずに何人か退学したとしても、本来の定員より遙かに数の多い1学年ですから特に問題はない、と考えていたフシがありましたね。



 外出と外泊


土曜の午後と日・祭日は外出が許可されます。 しかしながら、新入生には入校訓練が終わるまでは外出は許可されません。 外に出て、制服を着た防大生として人前で恥ずかしくない行動ができるようになるまでは、ということです。


そして入校訓練が終わると、まず引率外出というのが行われます。 最初は小隊学生長以下4学年数名が小隊の1学年を引率して近場へ、2回目(1週間後)に部屋毎揃って横浜、鎌倉などへ出かけます。


この引率外出が終わってから、初めて新入生は個人で外出ができるようになります。



第1回引率外出 観音崎 前列中央が学生長徳永さん 第2回引率外出 鎌倉 最右翼が部屋長村山さん


もっとも、私の場合部活が短艇委員会ですから、ほとんど外出はできず、土日・祭日も橈漕に明け暮れましたが (^_^)


では何でそんな部活を選んだのかといいますと、最大の理由は海上要員に進める可能性が高いこと、そして2つ目が夏期休暇(8月の約1ヶ月)中の部活の合宿が3日間しかないことでした。


また、外泊は2学年以上は土日又は連休時に1ヶ月1回許可されましたが、1学年には1年間許可されませんでした。 このため、5月のGWなどは2学年以上はほとんど学生舎におりませんでしたので、部活で僅かに残る上級生と1学年のみ。 この時は、いろいろ悪さをした記憶があります (^_^) 


あっ、でも防衛学館前に飾ってあった旧海軍の魚雷を夜中にプールまで運んで沈めたのは本当に私達ではありません。 その代わり、夜中に中隊の廊下にある各部屋の靴箱の一番上に並べてある半長靴の靴紐を端から端まで繋いだりはしましたが。 朝、起床ラッパで起きて誰かがまず寝室から出ると、これに引っかかって廊下中に半長靴がバタバタと (^_^;



 乗艦実習 (大島沖展示訓練)


5月に入って1学年に対する乗艦実習が1日行われました。 これは1学年が将来陸自、海自、空自のいずれの幹部自衛官の道を歩むのかを決める2学年に進級する時の陸上・海上・航空要員を選ぶ参考とするための一つでした。


したがって、現在の様に展示訓練と言えば一般市民に対するものとなっておりますが、当時のこの5月の大島沖展示訓練は、乗艦者は防大1学年のみでした。


この大島沖展示訓練の時の写真は 『懐かしの艦影 戦後編』 で公開しておりますので、そちらをご覧下さい。


なお、1学年に対するこの種の研修としては空自の入間基地見学がありました。 陸自については、1学年の訓練のほとんどは陸式の基本教練や射撃訓練で、また後でお話しするように秋季に滝ヶ原駐屯地での1週間の訓練がありましたので、特に基地見学的なものは無かったと記憶しています。


それにしても、入間ではボロボロの DC-3 の貨物室に押し込められての体験飛行では・・・・と思いますが、当時は(今でも?)パイロットに憧れての空自志望が多かったので、要員選考上はこれでも問題無かったのかと(^_^;



 肝試し


毎年6月になると各中隊で日にちの調整をして、平日の夜にそれぞれの中隊で1学年に対する肝試しを行うのが恒例になっていました。 梅雨の時期でジメジメしており、できれば小雨でも降っていればベストです。


学校〜花立砲台跡訓練場〜旧陸軍弾庫跡〜インディアン・ブリッジ(関東大震災で半崩壊したコンクリート製の橋)〜1軒屋〜観音崎灯台下の公園、というのが一般的なルートでした。 現在ではかなり開発が進んでおり昔の面影はほとんど残っていませんが、当時、このルートは周囲近くに民家などはなく、明かりなども全く無く真っ暗で、かつ獣道のような樹木や草が鬱蒼と生い茂っていました。 そしてあちこちに昔の要塞跡が残っています。 そこを1学年が一人ずつ順番に懐中電灯を片手に歩いて行くのです。


そして途中で4学年があちこちで待ち受けており、1学年を脅かし、怖がらせるための悪さを色々します。 例えば、草木をガサガサさせたり、ローソクの明かりで亡霊の気配を作ったり、あるいは獣の唸り声をするなどはまだまだ序の口で、コンニャクを糸で吊しておき、1学年が通りかかると顔めがけてペチャッとやったり (^_^)


この肝試しの日が近づいてくると、消灯後に寝室でベットに寝ながら上級生があること無いこと様々な話しを聞かせるのです。 夜、明かりの消えた○○館の3階を歩いて行くと、ヒタヒタと誰かが付いてくる足音がするけど、振り向くと誰もいない。 そこで歩き出すとまたヒタヒタと足音がする。 とか、あそこの要塞跡はこの時期は人魂が飛び交う、などなどですが、場所柄このような話しには事欠きません。


そして、この様な話しを散々聞かされてから、当日実際に決められたルートを歩くと、大の大人でも本当に薄気味悪く感じる場所でした。


実は後から判ったことですが、本当に怖いのは1学年を途中途中で一人で待ち構える4学年の方なのです。 ですから、1学年が歩いてくると、却って安心するというか(^_^; 



脅した4学年に思わずしがみつく1学年(右) 無事終了して


 中隊幕営(和田長浜海岸)


何時だったかは忘れましたが、ある週末に中隊で1泊の幕営(キャンプ)が行われました。 天幕設営や食事などは部屋単位で、残っている写真の顔ぶれを見ると9月までの前期で、服装や周囲の様子などからは5〜6月頃ではなかったかと思われます。 


土曜の午後、中隊揃って三浦半島和田長浜の海岸に進出。 少し高台になっているところに各部屋単位で自己の天幕を使って2名1組のテントを設営。 そして部屋毎で夕食の準備。 もちろん飯盒炊飯です。 出来上がったところで室員揃っての夕食ですが、大隊指導官を始め指導教官達も各部屋を順に回ります(^_^)


夕食後は下の広い浜辺で中隊揃ってのキャンプ・ファイヤー。 歌や即興が次々に披露されますが、未成年がおりますので酒類は禁止で、まさに“酔わずに踊れる防大生”です。


翌朝はゆっくり起きて朝食の準備。 そして部屋毎に揃って食事をしてから後片付けと撤収準備、撤収、帰校します。 1〜4年揃ってのワイワイですから、学生舎でのような堅苦しさなどは全く無く、これはこれで大変に楽しい週末でした。



天幕設営中 大隊指導官も混じっての夕食

キャンプ・ファイヤー 円陣を組んで (遊びに来ていた子供達も)

大隊指導官も一曲 これぞ酔わずに踊れる防大生!

朝食の準備 小隊指導官も混じって  あれっ、部屋長はまだ?


 夏期定期訓練と夏期休暇


毎年7月は約1ヶ月間全学年とも定期訓練が行われます。 1学年はまだ要員別ではありませんので、学校において1学年全員で同じ訓練内容です。 基本教練、プール及び小原台下の伊勢町海岸での水泳訓練、走水の海上訓練場でのカッター訓練、などなどでした。


因みに、水泳はプールはまだしも、伊勢町海岸では遠泳練習を兼ねて隊列を組んでの平泳ぎで泳ぐのですが、当時の東京湾は大変に汚く、泳ぐ自分の手先が見えないほど濁った茶色い海でした(^_^; そして最後の遠泳は猿島近くまでぐるりと回る4マイルのコースでしたが、当日は風があって小波があり、これが顔にかかってしばしばこの汚い水を飲んでしまいました。


しかしながら、2学年以上はほとんどが校外訓練に出て不在となりますので、学生舎はほぼ1学年のみでの1ヶ月の生活となります。 それに部活は平日はもちろん土日もありませんので、大変に気楽で自由な期間であったと。



そして定期訓練が終わり2学年以上も帰校すると、防大は8月の初旬から約1ヶ月間の夏期休暇に入ります。 入校後のGWでも外泊ができなかった1学年にとっては、初めての休暇となります。 しかしその1学年も含めて、多くの運動部は秋季競技に備えてその大半を校内や部外施設での合宿に費やします。 私が短艇委員会に入った大きな理由はもちろん海上要員になるために有利なことですが、もう一つは夏の合宿が休暇の始めに校内でたった3日間しか無いと聞いていたからです。


ただし、その3日目の最終日は、カッター2隻にメンバー総員が分乗して、三浦半島先端にある三崎港まで往復26マイルの橈漕でした。 朝、走水のポンド(海上訓練場)を出て、久里浜沖まで2時間、小休憩のあとまた2時間かけて三崎港まで。 そして昼食を兼ねた休憩の後、また走水まで漕いで戻ります。 夏の炎天下の海の上、きつい上に大変な暑さですので、交代で予備員になった者は垢汲み(木製の水受け)で海水をすくっては漕ぎ手の頭からジャバジャバかけて回るのが役目でした。



そして聞いていたとおり、3日間の合宿の後は、残りの約3週間まるまるの自由です。 これを利用して私は1学年の時は九州をぐるりと回る一人旅に出ました。 その途中、ついでに部屋長の帰省先である種子島の実家まで遊びにいったり(^_~)  村山先輩、その節は大変お世話になりました。



 秋季富士訓練


確か10月頃だったと記憶していますが、1学年総員による1週間の富士訓練が行われました。 陸自のトラックの荷台に乗ってゴトゴト揺られながら防大から御殿場の陸自滝ヶ原駐屯地へ。


1週間は、実弾射撃あり、昼間・夜間の戦闘訓練あり、そして青木ヶ原の樹海の中を通っての30km行軍あり、などなどで、これはこれで大変に面白かったですし、何よりも陸自の訓練支援教官以外は1学年の同期だけであり、夜の隊舎内でも訓練上の規則などによる制約以外はありませんでしたから(^_^)



訓練班第7班と教官との記念写真 30キロ行軍出発前の西湖湖畔?

30キロ行軍途中の小休止 戦闘訓練

帰校前? 山中湖畔?


 開校祭


防大の開校祭は毎年11月に行われ、前夜祭、各種行事や文化部・同好会の展示など、そして最後の後夜祭と続きます。


昭和44年の前夜祭は特に盛大で、11月7日(金)は確かこの日の午後に横須賀市のホールを借り切って、第1部・第2部に分けて行われたと記憶しています。 森山良子、山本リンダ、赤い鳥・・・・などなどの芸能人がメインのゲストでした。



森山良子さん 山本リンダさん

赤い鳥さん お名前失念 m(_ _)m

8日(土)は主として文化系クラブの発表・展示会や大隊対抗演劇などで、9日(日)に行事、観閲式、棒倒し、模擬戦など、そして夜になって後夜祭とイベントがずらり。


1学年にとっては日頃の学生舎生活の束縛から解放されたような気分になり、大変に楽しい3日間を過ごせた記憶があります。


ただし、3日目に行われた観閲式では、学生隊がグランドに整列を終えた頃に雨が降り出し、次第に本降りになりましたが、肝心な観閲官の防衛庁長官は待てど暮らせど到着せず。 途中で一度 “長官は先ほど赤坂の○○交差点を通過” との放送が入りましたが、その後も学生隊は雨の中を「整列休め」のまま。 帽子の後ろから垂れた雨水が襟首から制服の背中を流れ、下着までビショビショ。 結局、長官は1時間以上遅れて到着し、そのまま観閲式を実施しました。

当時は訳も判らず、そんなものなのか、と思いましたが・・・・・雨が降り始めた時点で一度学生は学生舎で待機させ、長官到着後に学校長応接室などで休憩している間に再度整列させる、などの配慮は、学校側職員は誰も考えず、言い出しもしなかったんでしょうね(^_^;


( 降りしきる雨の中での観閲式 )



 中隊対抗断郊競技


12月に入った頃と記憶しています、毎年の恒例行事である学生隊の中隊対抗断郊競技がありました。 作業服に背嚢、弾帯、半長靴で、校内からスタートして学校周囲の山道を走り、ゴールのグランドまでのタイムを計測します。 競技は、各中隊を10個グループに分け、各グループの成績は最後にゴールした者の時間で、中隊全グループの総計タイムによって決まります。


各中隊では、約1ヶ月ほど前からまず個人での事前訓練から入り、期間途中でタイム測定をして早い者から順にグループ分けして、以後はこのグループ単位でになります。 私の1年の時は第3グループではギリギリ、第4グループなら何とか、というところでした。


競技本番ではそれこそ皆全力を出しますので、当日もし第3グループで走ってその早さについて行けずに途中でバテてしまったら、それこそグループ全員の足を引っ張ることになり兼ねません。


実際、途中でバテバテになってしまう者が出ると、グループ内のまだ余裕のある者がその背嚢を受け持ち、他の者がベルトを掴んで引っ張って走るなどは普通のことでした。


中隊4学年によるグループ分け会議で、安全パイを採って私は第4グループで走ることに。 それでも陸・陸中隊ですから、決して遅いグループではありませんが。


本番は下の写真のとおりで、何とか完走しました。 中学、高校と運動系の部活をしたわけでもありませんので、これに堪えられるならまあまあかと (^_^)



ゴールまであと少し 左手前が私 ゴール後の第4グループの記念写真


 大隊別中隊対抗カッター競技


年が明けての3月、4学年は卒業を前にしてソワソワしている中、3学年が指導する大隊ごとの中隊対抗カッター競技が行われました。


14中隊は陸・陸中隊ですが、3年生に短艇委員会の先輩がおり、彼が指導係兼艇指揮、そして1学年選抜クルーには私も含めて3名の短艇委員会メンバーがおり、1大隊内では前評判も上々でした。


そして約1ヶ月間の事前訓練を経て本番。 予想に違わず余裕を以ての優勝でした。 (何故か14中隊艇が競技のためポンドを出る前に大隊指導官までがやって来て檄を(^_^))


大隊指導官は刀禰2等陸佐でしたが、海兵75期で戦後陸自に入った人。 中隊指導官は村上3等海佐、海兵76期。


大隊指導官が乗ってきての檄(^_^) 何故か3学年の艇指揮・艇長二人はずぶ濡れ(^_^)


 夜の雨音が嬉しい


若い頃、特に子供の頃は、皆さんも雨の日は外に遊びに出られず、教室や家の中でつまらなかった記憶があると思います。 私もその一人でしたが、防大に入校したら夜中に雨音がし出すと嬉しくなったものです。


朝の起床は、夏期日課が6時、冬季日課が6時半でした。 起床ラッパで飛び起きて、作業服に着替えて学生舎前に並び、上半身裸になっての乾布摩擦、号令調整、そして点呼が続き、それが終わると1学年は各部屋と中隊公共場所の清掃があり、その後に食堂で朝食。 朝食後は学生舎に戻って制服(訓練や体育の時はその服装)に着替え、7時45分には学生舎前に整列しての朝礼、8時に国旗掲揚があり、その後班ごと隊列を組んで教場へ、となります。


しかし、雨の場合は起床時間が30分ずつ遅くなり、起床後の点呼は学生舎前ではなく各階廊下での整列点呼、そして部屋以外は廊下や公共場所などの清掃もありません。


更に嬉しいことは、雨が降ると夜中に行われる非常呼集訓練や火災訓練が無いということです。 特に前者は私は大嫌いでしたし、全く無意味と思っておりましたので。


夜中に突然非常呼集ラッパで叩き起こされ、完全武装・執銃で学生舎前に整列し、点呼、服装などの点検。 そしてそれだけで終わるわけでは決してありませんで、その姿で銃を持ったまま隊伍を組んで学校の周りを走り回ります。


終わって学生舎に戻って解散となりますが、夏は勿論冬でも汗をかきますがシャワー設備があるわけでもなく、洗面所で水をかぶることも許可されません。 ただ汗を拭いて乾いた下着に着替えて、まだ起床までの時間が残っていればまた寝るわけです。 しかもこの訓練によって就寝時間が短くなったとしても、朝の起床時間やその後のことは変わりません。


これらの訓練は、学生隊一斉に又は各大隊単位で行われますが、学生隊学生長や大隊学生長が陸上要員の時には特に多かったですね。


この年のある日の学生隊非常呼集訓練。 いつもと同じく完全武装で銃を持ったまま走った後、更に花立訓練場に集結して、天幕による設営訓練も。 もちろん、撤収した後の朝食時間など以後は日課表どおり。 こんなことをさせておいて、午前一番の普通学の授業中に居眠りはするなといわれてもねえ (^_^;



そして使った個人装備品の天幕は可能な限り早期(数日以内)に洗って泥を落として乾燥させ、畳んで背嚢に括り付けて寝室ロッカー上に置き、いつでもまた使えるようにしておかないと、当然、2学年による連帯責任のお小言(屋上)の対象に。


これらに加えて、春の全日本と秋の新人戦の前になると度々行われる短艇委員会の早朝練習も雨の場合はありませんので、普段どおりの起床時間まで寝ていられます。


この防大での4年間の生活以降、昼間の雨でも楽しく感じるようになったのは自然ですね(^_^)



 一年間が過ぎて


そんなこんなで、中隊対抗カッター競技が終わると、その後は4学年14期生の卒業式、1〜3学年の学年末試験、1学年の陸海空要員決定、春期休暇と続き、学年末試験にパスした1学年は晴れて“作業員”のお役ご免となり、次の新入生(18期生)の入校を待つことになります。



と、ここまで1学年(17期生)としての1年間を振り返ると、それなりに面白いことや楽しめることなど色々あり、充実したものであったと言うことになるでしょう。


そう言えば、こういうこともありましたね(^_^)


(ある日の某女子大1年生との合コン)



勿論それは、過ぎ去った後になってだからこそ言えることではあります。


そしてそれは学生舎生活における2学年(16期陸上要員)とのことを除けば、です。 当時の私達143小隊の1学年にしてみれば、学生舎生活はまさに “帝国陸軍内務班かくありき” だったのですから。


これもあってか、結局143小隊の1学年34名の内、2/3を越える者が海上及び航空の要員に進みました(希望者はもっと多かったのですが)。 標準的な定数比率から言えば1/2弱ですから、いかに海・空希望が多かったか、言い換えれば16期生の1期後輩としての陸上要員、そして将来の陸自幹部に繋がることを嫌ったか、の結果であったと思っています。







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最終更新 : 22/Mar/2020