射法の沿革 |
日露戦争当時まではまだ後の世に言う 「射法」 という程のものはなく、帆船時代の射撃と五十歩百歩のものでした。
近代射法をもたらす起爆剤となったものが 「測距儀」 「距離時計」 及び 「変距率盤」 の三種の神器です。
旧海軍にこの三種の神器の内で最も最初に導入されたのは 「測距儀」 で、明治26年に英国で建造した 「吉野」 に装備のバー・アンド・ストラウド式1米半測距儀がその始まりです。
しかしながら、導入当初は測距儀の真価に関してはあまり注目されず、これを砲術に積極的に取り入れることはありませんでした。 これは日露戦争当時、中でも日本海海戦においてさえ、単に測距離の道具として使われただけで、このデータを元にした測的に進むところまではいきませんでした。
その原因は、「吉野」で導入された1米半、次いで明治39年に「鹿島」で導入された2米半の 武式測距儀 の精度を持ってしては、まだまだ射撃に活用できるような精度が得られなかったこともその一つです。
明治40年に 「距離時計」、次いで明治41年に 「変距率盤」 が英国より渡来して、これらが兵器に採用され、この両者を射撃に活用する 「時計射撃」、後に 「変距射法」 と呼ばれるものが生まれました。 これが旧海軍における 近代射法の始まりです。
測距儀は大正2年に 「金剛」 に4米半及び3米半のものが導入されるに至って漸くその精度も射撃に活用できるものとなり、この測距儀を全幅活用した射法が「測距儀射撃」です。 この 「測距儀射撃」 はその後 「測距射撃」 と呼ばれるようになり、更に昭和12年には 「測距射法」 と改称されることになります。
ここに以後旧海軍の 「射法」 の中心をなした 「変距射法」 及び 「測距射撃」 という 2大射法の基礎が誕生 しました。
そして、大正5年頃まで盛んに 「時計射撃」 「測距射撃」 のどちらが良いかのが競われてその優劣論に花が咲き、これに伴って両射法も発達していきました。
ところが、第1次世界大戦における英・独両海軍による海戦の教訓は、射距離の益々の延伸に拍車をかけました。 その結果として、当時の測距儀の精度では要求される遠距離射撃に応ずることができず、遂に大正6年頃からしばらくの間は 「測距射撃」 を取りやめざるを得ない状況になったのです。
しかし大正10年には 「長門」 に10米測距儀が搭載され、以後相次いで長基線の測距儀が導入されるに至って 「測距射撃」 復活の兆しが現れました。
大正14年には 「山城」 が当該年度の戦闘射撃において測距射撃が課せられてこれを実施したのを初め、以後主力艦の主砲、副砲で、あるいは軽巡において測距射撃が課せられて、その研究が本格化しました。
その結果として、昭和12年の 「艦砲射撃教範」 の全面改訂時には、それまでの 「時計射撃」 が 「変距射法」 に、「測距射撃」 が 「測距射法」 となり、ここに 旧海軍の2大射法がほぼ完成する に至りました。
以上のことをもう少し時系列的に整理すると、下の表に示す 「射法沿革一覧」 のようになります。
昭和12年頃に旧海軍の2大射法がほぼ完成したといっても、太平洋戦争期においても艦隊においては 「変距射法」を主とし「測距射法」を副 とする思想が主流を占めていました。 これは射撃指揮・射弾指導のやりやすさから来ています。
戦争が進むにつれ、米海軍ではレーダーによる測距を活用した所謂 「レーダー射撃」 を実施しているらしいことが判明し、実際にこれによる夜間戦闘で一方的な被害を被る事態が生ずるに至って、旧海軍でもこれの研究の必要性を痛感させられました。
そして 昭和18年の横須賀海軍砲術学校における研究結果 を受けて、当時の旧海軍の電波探信儀を持ってしても相当有効な射撃を実施できる見込みが得られたことから、艦隊においてもこれを活用した射撃実施の研究・演練を開始しました。
その成果として、昭和19年7月の サマール沖海戦においては艦隊のほぼ全艦艇において 「電測射撃」 を実施 するまでに至りましたが、本格的な水上戦砲戦はこれを持って終わり、そして旧海軍は終焉を迎えることになりました。
昭和27年の 海上警備隊 創設に当たり、その艦艇はほぼ全面的に米海軍から供与又は貸与されたもので占められ、また旧海軍の復活と見なされるのを避けるためにも、その運用法、教育訓練方法等の全ては米海軍方式が採用されることになりました。
しかしながら、米海軍は砲、射撃指揮装置やレーダーの操作法などについては教えてくれましたが、砲術に関してはほとんど教えてくれませんでした。 というより、米海軍には 「射法」 などについては旧海軍に比べて見るべきものが無かったというのが実態でした。 これは昭和29年に海上警備隊が 海上自衛隊 に移行してからも同じでした。
したがって、米海軍の射撃指揮装置やレーダーを使用するものの、砲術については全面的に旧海軍のものを継承 し、これを近代の戦闘様相に適合するように運用することにより、海上自衛隊の砲術は発展してきたのです。
このため、少なくとも 「あやなみ」 型 (3吋砲X6門) や 「やまぐも」 型 (3吋砲X4門) 等が護衛艦隊の主流を占めていた間までは、「射法」 を含めその砲術は旧海軍のものが色濃く残っていました。
年 代 | 射 法 | 射 距 離 (米) | 備 考 | ||||||||||||||||||||||||
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帆船時代 ~ 日清戦争時代まで | 試射本射の区別は不明確 方位盤一舷打方 (予め各砲の指向を定め、別に照準装置をこれに相当して固定し、艦の操縦により目標を照準線内に導き、各砲に発射を令する程度のもの) 基準砲打方 (主に主砲に用いられたもの) 独立打方 逐次打方 |
日清戦争前 1000 ~ 2000 日清戦争前後 1500 ~ 3500 |
帆船時代は戦闘距離は至近であり、舷々相摩て理想とする時代であったため、射法としての形態をなさず 明治19年発布 『艦砲射撃規則』 中 「方位盤及び電気発砲機を備ふる艦に於いては必ず一舷打方を行ふべし」 ただし、日清戦争前に速射砲が出現し、方位盤打方は一時影を潜める 明治26年 「吉野」 に1米半測距儀採用 |
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日露戦争時代 | 試射法 指命打方 夾叉法 逓加法 混射法 基準砲打方 本射法 独立打方 本射の修正法 射手自ら又は砲台長が照準を変更、砲術長又は砲台長が照尺を改調する 対駆逐艦、水雷艇射撃 極限射法 |
3000 ~ 5000 | 明治37年12月 『聯合艦隊艦砲射撃教範』 制定 明治38年9月 海軍砲術練習所編纂 『艦砲射撃心得』 発布 「基準砲は砲火指揮所付近各舷2門以上とし、最も優秀なる射手を配置す」 |
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日露戦争後 ~ 第一次大戦前 |
試 射 一斉打方 一斉打方 級梯打方 逐次折半法 逓加逓減法 ただし、大口径砲は指命打方をも使用 本 射 一斉打方 独立打方 級梯独立打方 |
6000 ~ 9000 | 明治40年 距離時計出現 同 上 机上射撃演習実施 同 上 整度射撃規則制定 明治41年 編隊射撃開始 同 上 変距率盤渡来 明治42年 戦闘射撃実施規程発布 同 上 検定射撃実施規程発布 明治44年 夜間戦闘射撃実施規程発布 同 上 戦闘射撃に動的使用開始 同 上 戦技褒賞令発布 大正元年 外洋射撃開始 同 上 以後測距手には下士官を配員 大正2年 『艦砲射撃教範』 発布 同 上 2米半測距儀出現 同上頃 測距儀射撃と時計射撃の優劣議論さる |
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第一次大戦以降 | 試射の種類 前 期 逐次折半法 逓加逓減法 後 期 初弾観測数段打方 緩斉射 初弾観測急斉射 本 射 急斉射 射法の種類
発射の種類
打方の種類
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太平洋戦争前の戦闘射撃実施距離 大口径砲 20000 ~ 35000 中口径砲 10000 ~ 25000 夜間射撃可能射距離 10000 以上 |
大正5年 砲員検定実施規程発布 (検定射撃廃止) 同 測距儀検定実施規程発布 大正7年 副砲長を創始 大正8年 『艦砲射撃教範』 改訂 大正10年 係留気球を補助観測に使用 大正11年 飛行機を補助観測に使用 大正12年 星弾研究射撃 (艦隊) 同 上 測的分隊を創始 大正13年 照射検定実施規程発布 大正14年 『艦砲射撃教範』 改訂 同 上 『高角砲射撃教範草案』 発布 同 上 測距射撃再興 (山城) 大正15年 高角砲検定射撃 (艦隊) 同 上 対潜水艦研究射撃 (艦隊) 同 上 陸上掩護研究射撃 昭和2年 『測的教範草案』 試行 同 上 上陸掩護研究射撃 昭和3年 艦内編制訓令改正され、探照部を照射部と改称、高角砲分隊独立 同 上 『艦砲射撃訓練規則』 改正され、戦闘射撃実施要領を艦隊司令長官に委任 同 上 弾着側方写真機実験 (砲校) 昭和6年 『砲戦操式』 制定 (従来の 『射撃操式』 を廃止) 同 上 観測修正分離研究射撃 (砲校) 同 上 煙幕超過研究射撃 (砲校) 同 上 偏弾射撃 (砲校) 昭和7年 主力艦二隻統一、四隻集中射撃に成功 (艦隊) 同 上 射撃盤研究射撃 (砲校) 同 上 主力艦主砲用射撃盤 (九二式) 装備 (距離時計に換わる) 昭和8年 主力艦射撃盤射撃 (艦隊) 同 上 主力艦煙幕超過研究射撃 (艦隊) 同 上 二十糎砲以下において方位盤独立打方を盛んに実施 (艦隊) 昭和9年 新型駆逐艦に方位盤装備 昭和10年頃 全部の大巡以上に射撃盤装備 昭和12年頃 軽巡及び主力艦副砲に九四式射撃盤装備 同 上 新型駆逐艦に距離苗頭盤装備 昭和12年 『艦砲射撃教範』 改訂 昭和13年 主力艦主砲に一斉打方採用 |
最終更新 : 23/Dec/2005