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軍艦発達の歴史



   第一節  太古より近世迄の軍艦発達の歴史
        第一項  軍艦の起源
        第二項  太古「フェニキア」人の海上活躍
        第三項  軍艦の種別と橈列 
        第四項  古代軍艦の戦闘法
        第五項  中世紀に於ける発達
        第六項  戦略目的の変遷
        第七項  駛走原動力の変遷
   第二節  近世軍艦の変遷
        第一項  戦  艦
        第二項  巡洋戦艦
        第三項  巡 洋 艦
        第四項  航空母艦
        第五項  駆 逐 艦
        第六項  潜 水 艦



英人 「Sir Walter Raleigh」 曰く、「海を支配するものは、また貿易を支配す。 世界の寶と従而世界そのものが彼らに属す。」 と。 抑も軍艦及び商船の発達は相互に関連するものにして、往時より商船の発達は貿易植民の保護及び利権獲得等の見地よりして、必然軍艦の進歩発達を促し、また軍艦の発達、即海上武力の優越は自ら商船の発達を促進するものなり。 是等海事上の発展に関しては諸種の原因存するならんも、其の主なるものを挙ぐれば概略次の如し。

(イ) 位置の優越なること

(ロ) 良港湾に富むこと

(ハ) 造船材料豊富なること

(ニ) 国民が外界の有様に反応し、之を利用する特性を有する事。 即ち冒険進取の気性に富み、困苦欠乏に打ち克ち、自然を利用するに足る特性を有すること。


即ち如上の特性を具備せる国民は、期せずして造船、航海貿易、植民等に於いて漸次他国民を凌駕するに至ること太古より洋の東西を問わず略ぼ其の軌を一にせり。 従而軍艦発達の歴史とも密接なる関係を有するものと言うを得べし。 以下、軍艦発達の径路に就き其の概要を述べん。


 

第一節 太古より近世迄の軍艦発達の歴史

 

第一項 軍艦の起源


海上の発展を試みんとする国民は、特に暴民に襲われ、或いは海賊の掠奪に遭い、又は権利剥奪等のため必然武力の保存をなせしなるべく、従って自国民発展、自営、国防の見地よりして遂に船舟に武装を施すに至れり。

之れ即ち海軍の始まりにして、遂に現今の如き軍艦を建造し、之を戦闘に用いるに至れり。

「エジプト」 に於いては既に紀元前千七百年頃 「ヒクソス」 駆逐の際軍船を使用し、其の後北方より海賊の来寇を防ぐため 「ナイル」 (Nile) 河口に小艦隊を設置せりと言う。

 

第二項 太古「フェニキア」人の海上活躍


太古の時代、航海業者として前記四要素を具備し盛んに海上に活躍せしは 「フェニキア」 人にして、彼等は地中海方面に於いては 「エーゲ」 海の諸島、「ギリシャ」 沿岸、小亜細亜の南岸、黒海、地中海の西方、亜弗利加の北海岸、「シシリー」 島、「コルシカ」 島、「イスパニア」 半島、更に紀元前千百年頃 「ジブラルタル」 海峡を通過して大西洋に進出し、更に 「イギリス」 の 「コーンウォーリス」 地方より 「オランダ」 「ドイツ」 の北西岸に往来し、また 「スエズ」 を越え、紅海沿岸及び 「セイロン」 島に達せり。 

尚又、埃及王 「ネコ」 が 「フェニキア」 人に亜弗利加一周を命じせしに、彼等は紅海を出発、亜弗利加東海岸より西海岸を経て地中海に出て、無事帰来せりと。 以て航海運用術の技倆の如何に優秀なりしかを証するに足る。

而して此の間に於いて、構造上に於いても軍艦と商船との区別を有するに至れり。

比較項目 軍          艦 商          船
船   型

比較的細長くして、前後部に各一個宛の船室を設け、全部のものは見張員、後部のものは舵手之を使用せり。 尾材両側には舵として各一本宛の「スティアリングオール」の如きものを装備し、之を一本の横木にて接続し、横木に舵柄を装着せり。

一般に幅広く丸味がかり、中央甲板低く、船首尾高し。 後に小型にて速力大なる商船と運送船を作り、是等の船首に馬頭を置き、之を 「イッポイ」 (Ippoi) と名付けたり。

駛走原動力

櫂を主用し、帆は単に補助として使用せり。 (横帆一本檣)

帆を主用し、必要に応じ櫂を使用せり。

造船材料

船体、帆柱は檜 (Cypress) にして、装板に銅釘を用い錆の発生を防ぎ、且つ船底に薄き銅板を張り強みとせり。 索具は最初蘆製、次いで 「パピルス」 (カリカヤツリ) 若しくは麻製のものを使用せり。

船体、帆柱等は総べて 「セダル」 (Ceder)、櫂は樫を使用せり。

乗   員

橈手は三十人乃至五十人

乗組として優に五百乃至六百人を収容するに足る余積を有し、且つ自衛の見地よりして兵士を乗組ましむることとせり。



 

第三項 軍艦の種別と橈列


紀元前五百年頃迄は戦闘艦は 「モネーレ」 (Monere) と称し、総べて一列の櫂を用い、次の如き種類の軍艦を有せり。

(イ) 小 艦 : 片舷十五挺の櫂を有し、之を 「トリヤコントル」 (Triacontor) と称す。

(ロ) 大 艦 : 片舷に二十五挺の櫂を有し、之を 「ペンテコントル」 (Pentecontor) と称す。


其の後漸次完全なる戦闘艦製造され、二段櫂 (二橈列船) 「ディエル」 (Diarre) は専ら前衛又は報知の任務に従事し、次いで三橈列船 「トリエール」 (Trinerre) 及び五橈列船 「ペンチエール」 (Pentieren) の出現を見るに至れり。

 

第四項 古代軍艦の戦闘法


古代軍艦は総べて吃水下に衝角を有し、戦闘員が乗り込み、其の周囲には楯を並べて胸壁となし矢又は投槍等を防げり。 衝角法は古代の軍艦に適用せられたる重要戦術にして、時として攻撃艦の損害も多大にして、被攻撃艦より稍々少たるに留まりたる事あり。 

紀元前四百八十年 「サラミス」 海戦 (The Battle of Salamis − 希臘人対波斯人の戦) には百隻を下らざる三橈列船参加し、又同紀元前二百四十一年の所謂 「ポエニ」 役 (Punic War −「カルタゴ」 人対羅馬人の戦) に於いて羅馬人は百隻の五橈列船と二十隻の三橈列船よりなる艦隊を以て 「カルタゴ」 の艦隊を撃破せり。

尚該戦役中、羅馬側に於いては 「コルビイ」 (Corvie) を発明し、之を利用して大いに 「カルタゴ」 の海軍を悩ましたり。

当時羅馬の新造艦隊には最も必要とする船の操縦十分ならず、寧ろ陸戦の経験を応用し敵船に乗り込み勝負を決せんとせり。 戦闘員を百二十人位乗組ましむるため、此の機械の発明となりたるを以て、最初は舳に装備せしやも知らざれども、少なくとも後には船尾に仕掛け、必ず船の進行を軽快ならしめしものと推定さる。

五段櫂の船員は、戦闘員百二十人、水夫三百人、三段櫂の船は総員二百人位なり。

初期に建造されし軍艦は総べて無甲板なりしも、前後の昂起、即ち現今の前後部最上甲板 (Fore-Castle, Poop) の出現となり、次に之等を連結する中央の台を造設し之を艦長、士官等の私室とせり。

爾後、船は漸次大きさを増すと共に完全なる甲板船となり、戦闘員は戦場となるべき甲板上に駐屯し、橈手は下甲板にありて専ら橈漕に任ぜり。 「ポエニ」 役に於いては羅馬人の軍艦は甲板を以て張り結められたる恐るべき大きさのものとなり、且つ戦闘檣楼を有する単檣を樹てたり。

而して、当時の航海は天体を肉眼にて観測し、又陸岸島嶼等を目標として航海せり。

紀元前四百十三年、「アテネ」 (Athen) 対 「シラクサ」 (Ayracusa) の海戦に於いて、「アテネ」 側は特に工夫を凝らし 「トリエール」、即ち三段櫂船の先を堅牢にし之より丸太を出して敵の衝角を防ぎ、一方之を利用して敵を衝かんとせり。

「シラクサ」 はまた小老朽船に瀝や薪を積み込み、之を風上に置き火を放ち以て敵艦を焼打せんとするに対抗して、「アテネ」 軍は小船を放ち 「シラクサ」 の小船を焼き、或いは之に孔を穿ち沈めんとせり。

或いはまた戦捷の栄を得たる 「シラクサ」 軍は 「オルチギャ」 (Ortygia) の浅瀬より 「プレンミリアム」 (Plemmylium) の間に小船と軍艦とを一直線に配列投錨せしめ、各艦船間は板を以て連結し、不動的閉塞を結構せり。 之れ港湾閉塞の史上に顕れたる初めなり。

西暦紀元前三十六年、羅馬に於ける艦隊には速射投石機、矢を迅速に発射する器械等を搭載すると同時に、船体の構造も大いに堅牢となり、甲板も高く塔(塔より速射投石機を用いて敵の艦上にあるものを射倒す)もあり、且つ砲 (弩砲) も多数搭載するに至れり。

尚、当時は敵艦船に突入を試み、船腹及び衝角を以て敵の櫂を折損するの戦法を用いしを以て、次いでこれを防止するため水準線付近の装板を厚くし、所謂現今の装甲帯に類する如きものを施せり。

 

第五項 中世紀に於ける発達


千二百十七年八月二十四日、「サウスフォアランド」 (South-fore-land − 英仏戦争) 沖の海戦に於いて、英海軍は風上より敵艦の背後を襲い、次いで敵船に乗り込み 「クロスバウ」 (Cross bow) を射ち、目つぶしをかけ、斧にて帆柱を切りて急に接戦し、或いは又鉄の衝角にて敵艦の船腹を破り、約二倍の敵に対し大勝を得たり。

千五百七十一年十月七日、「レパント」 の海戦 (土耳其人対同盟軍 − 「イスパニア」 「ローマ」 「ベニス」 ) には大 「ガレー」、大小帆船、「フリゲート」 等多数参加せり。

大 「ガレー」 は幅と長さの比一対六、櫂は三十乃至五十本を有し一本の櫂には五乃至八名の橈手を付し、重量六百乃至千屯帆柱三本を有するも、「ガレー」 より吃水深く速力鈍にして操縦不便なれども、前後には砲塔ありて之に重砲を載せ、上及び舷側の櫂の間には軽砲を備え、武装は優に 「ガレー」 五隻に匹敵し宛然浮砲台の如き観を呈せり。 船としては 「ガレー」 及び風帆船の中間に位す。

「フリゲート」 (Frigate) は十八世紀末より十九世紀の初めに最も多く行われたるものにして、船型装帆面積共に広く、速力操縦其の軽快なるを特色とす。 此の船に砲を備えたる軍艦は今日に於ける軽巡洋艦の起源にして、商船にも此の型少なからざりき。 而して其の帆装様式は区々にして制規のものなし。

千五百八十八年の英西戦役の際、彼の有名なる 「アルマダ」 艦隊 (無敵艦隊 − Invincible Armada) は、次の如き勢力を有せり。

種  類 噸  数 備  砲 乗組人員 隻 数
戦闘艦  1000 以上   48 〜 50   400 〜 500  7
  800 以上   22 〜 50   300 〜 500  17
  500 以上   12 〜 34   180 〜 400  32
  500 以下    6 〜 20    40 〜 220  19
「ガレー」 4 4
大「ガレー」 50 4
小 船 22
運送船 23
総  計 2430 29422 128

十七世紀の英蘭戦争中は幾多の海戦行われ、戦闘艦 (100門艦を最大とす)、「フリゲート」、火船、武装商船、運送船 (弾薬糧食船等)、偵察用 「ヨット」 等多数参加せり。 此の戦役中次の如き戦法行われたり。

(イ) 和蘭 「ファンガーレン」 は英国艦隊の一半を 「ポート・ロンゴーネ」 に追い込み、八ヶ月間封鎖せり。

(ロ) 英国の 「ローン」 は軽快なる 「フリゲート」 を用い敵艦数隻を貫通せり。

(ハ) 火船盛んに利用されたり。
但し終期に於いては砲術の進歩、艦の運動巧妙となりし結果比較的遠距離に於いて砲戦行われ、又艦の速力も漸次大となり火船使用の機会減少せり。

(ニ) 英国の三層艦は大いに其の功績を発揮し、一部の格闘にも堂々たる戦線に於いても等しく大なる効果を収めたり。


 

第六項 戦略目的の変遷


要するに十六世紀頃迄は、

(イ) 海上貿易が一国の富の大部分ならざりしこと

(ロ) 漕船又は旧式の帆船にては久しく海上に止まること不可能


等の理由により、軍艦の発達、海戦の結末等に於いて物足らぬところありしも、十七世紀頃より軍艦は漸く巨大且つ堅牢となり、戦術上にも一新紀元を見るに至れり。

然れども尚過渡時代のこととて貿易攪乱も不規則且つ局部的、偶然的なるを免れざりき。 而して海軍の活動も多く海賊的遠征にして、其の他は以前陸軍及び軍需品輸送を主なる目的とせり。 従而組織的、連続的戦闘により敵艦を海上より掃蕩し、之を全然屈服せしむる如き徹底的方法に出でざりき。

即ち英蘭戦争の初期に於いては「コンヴォイ」の破壊と其の防御が主目的にして、双方戦略上其の勝利を十分利用することをなさざりき。 従而勝利の結果は一時的に止まり、敗戦国も漸次勢力を恢復せり。

英蘭戦争第二期に入りて、先ず海上より敵軍を掃蕩し、確実に制海権を獲得する如き方法に出でたり。 而して英蘭第二回戦後は漸次艦数及び艦質等に於いても大なる進歩発達を遂ぐるに至れり。

 

第七項 駛走原動力の変遷


木造帆走船は千八百十五年頃迄続きしも、一度 James Watt が吸鍔式機械を創造するや世は競って其の進歩応用に腐心し、遂に千八百七年 Robert Fulton は Hudson 河にて初めて汽船を運転し、次いで千八百十九年には帆船の補助として之を使用し (帆を主用、機械を副用) 二十五日間に Georjia 州北部の Port Savannah より英国 Liverpool 迄大西洋約三千七百浬を横断せり。 次いで千八百三十七年、初めて大西洋定期航路に之を利用するに至れり。

米国にて製造せし蒸気軍艦 (Steam Frigate) 「ハートフォード」 (Hartford) は亜米利加南北戦争中大なる貢献をなせり。 之より以降、軍艦は舶用機関の進歩 (千八百八十四年英人 C.A. Parson は実用的蒸気 「タービン」 の製作に成功せしため、漸次之を舶用機関に採用するに至れり。)、砲熕、魚雷 (千八百六十六年墺国海軍大佐 「ルーブイス」 は 「ヒューメ」 機械製造会社の技師 White-head 氏の助力により遂に保式魚雷を案出作製す。)、機雷 (十八世紀の末亜米利加独立戦争の初めに於いて米国陸軍大佐 「ブッシュネル」 氏は水中爆発の実験に成功し、次いで十九世紀の半に於いて同国陸軍大佐 「コルト」 氏により電気発火水雷の実験研究を見るに及び、漸く防御兵器として採用を見るに至れり。)、其の他各種兵器の発達及び幾多の戦訓に基づき、木造艦は遂に鉄骨木皮艦、鉄艦、鋼鉄艦に進み、駛走動力も蒸気帆力併用より蒸気機関専用 (電気推進のものもあり) となり、又戦術上の要求に基づき各種水上航艇、潜水艦、飛行機等出現せしため、攻撃力、防御力、運動力等其の一大変化を及ぼし遂に現今に及べり。

以下近世軍艦の変遷に関し、其の概要を述べん。




 

第二節 近世軍艦の変遷


日露戦争以前に於いては各種艦型は殆ど各国共に一定し居れり。

然るに日露戦争の経験により非常なる変化を生じ、最近世界の大戦に至る迄の間約十年間は各国共に大艦巨砲の計画製造に腐心し、速力又非常なる進歩をなし、更に今回の大戦の経験に基づき益々其の進歩を促し、殆ど停止する所なき現状にあり。

今、各種艦型に就き其の大要を述べんとす。

 

第一項 戦  艦


日露戦争当時に於いては、戦艦としては各国共に三笠級の戦艦を以て基本となし居りたり。

要  目 日本 (三笠) 英 (「ブルワーク」) 米 (「オハイオ」) 独 (「カイゼル」、
「ウィルヘルム二世」)
400’ 400’ 388’ 377’
76’ 75’ 72.5’ 66.75’
吃  水 27.25’ 26.75’ 25.5’ 25.5’
排 水 量 15,200T 15,000T 12,440T 10,974T
速  力 18.5kt 18.15kt 17.8kt 18kt
馬  力 15,431 15,000 16,220 13,000
主  砲 30cm - 4門 30cm - 4門 30cm - 4門 24cm - 4門
副  砲 15cm - 14門 15cm - 12門 15cm - 16門 15cm - 18門
発 射 管 4門 4門 4門 6門
装  甲 K.S. 9”〜4” H.S. 9” K.S. 11.4” H.N.S. 11.75”
防御甲板 3” 3” 3”〜4” 3”
進水年次 1900 1899 1901 1897

上記の示すが如く、千九百年には各国共に排水量一万五千噸付近、主砲として三十糎砲塔を前後に有し、副砲としては十五糎砲を左右両舷砲廓内に有し、速力は十八節を基本とせり。 独国は独り他国と比して総べての点に於いて劣勢なりき。

此の状況に於いて日露戦争となり、数次の大海戦の結果巨砲主義の現出となり、我は鹿島、香取、英は 「ロードネルソン」 級を建造せり。 之れ前努級艦なり。

要  目 日本 (香取) 英 (「ロードネルソン」) 米 (「アイダホ」) 独 (「ハノーバー」)
420’ 410’ 375’ 398’
78’ 79.5’ 77’ 73.75’
吃  水 27’ 27’ 25’ 25.25’
f排 水 量 15,850T 16,500T 13,000T 13,040T
速  力 19.5kt 18.9kt 17.2kt 19.16kt
馬  力 18,500 16,750 14,235 22,492
主 砲
大口径
中口径
30cm - 6門
25cm - 4門
30cm - 4門
24cm - 10門
30cm - 4門
20cm - 8門
28cm - 4門
17cm - 14門
副  砲 15cm - 12門 12pr - 24門 18cm - 8門
8cm - 12門
8.5cm - 20門
発 射 管 5門 5門 2門 6門
装  甲 9” 12” 9” 9.5”
防御甲板 3” 3” 3”
進水年次 1905 1906 1905 1905

上表に示せる前努級艦は日露戦争末期に計画せられたるものにして、主砲はやはり三十糎砲四門を二砲塔内に納め前後部に配したるは三笠級と同様にして、中口径砲二十五糎又は二十糎位のものを数門砲塔砲として両舷に配せり。 速力は三笠級より稍々大にして、漸次増大すべき状勢を示せり。

前努級艦時代は極めて僅かにして、直ちに努級艦の時代に入りたり。

努級艦は巨砲単一主義によるものにして、前努級艦は大中小口径の各種砲を有し、之が使用に対し種々の欠点あり。 之に対し寧ろ巨砲の口径を単一なるものとし出来る限り多数を有せんとして、巨砲単一主義が生まれたるものなり。

之が主義より随て小口径十五糎位の水雷防御砲の搭載に困難を生じ殆ど之を廃し、水雷防御は駆逐艦に委し戦艦は極小口径の砲を之に対して有せしめたるもの、即ち 「ドレッドノート」 なり。

我国に於いては 「ドレッドノート」 計画以前に於いて已に此の主義を発表し、薩摩を起工せり。 薩摩は努級と前努級との間に位するものなるも、巨砲主義を発表したるは実に我国を以て第一とす。

以下、千九百六年付近の各国艦を表示す。

要  目 日本 (薩摩) 日本 (河内) 英 (「ドレッドノート」) 米 (「デラウエーア」) 独 (「ナッソウ」)
482’ 480’ 490’ 510’ 452’
83.5’ 84’ 82’ 85.25’ 89’
吃  水 27.5’ 28’ 26.5’ 27’ 26.5’
排 水 量 11,350T 20,800T 17,900T 20,000T 18,200T
速  力 20.5kt 20.5kt 21.85kt 21.5kt 20.7kt
馬  力 17,000 26,500 27,500 29,025 20,000
主  砲 30cm - 4門
25cm - 12門
30cm - 12門 30cm - 10門 30cm - 10門 28cm - 12門
副  砲 12cm - 12門 12cm - 12門 12pr - 24門 13cm - 14門 15cm - 12門
9cm - 16門
発 射 管 5門 5門 5門 2門 6門
装  甲 9” 12” 11” 11” 10”
防御甲板 3” 2.75”
進水年次 1906 1910 1906 1909 1908

「ドレッドノート」 は砲装に於いて前例を打破したるのみならず、推進機械に於いても始めて 「タービン」 を用い、全く前例を打破せり。 又此の期に於いて速力の増進は甚だしきを知る可し。

努級艦に引き続きたるは超努級艦なり。 努級艦に於いては単一口径の巨砲を有するも、片舷の戦闘に対しては反対舷の砲は使用するを得ざりしにより、之が欠点を除かんために凡ての巨砲を船体中心線上に配列し、且つ砲の口径を増大せり。 之れ超努級艦なり。 此の期に於いて益々速力増大の勢いを示せり。

要  目 日本 (扶桑) 英 (「オライオン」) 米 (「アルカンサス」) 独 (「ケーニッヒ」)
630’ 545’ 554’ 580’
94’ 88.5’ 93.25’ 97’
吃  水 28.5’ 27.5’ 28.5’ 27.25’
排 水 量 30,100T 22,800T 26,000T 26,575T
速  力 21.02kt 20.5kt 23kt
馬  力 40,000 28,108 28,000 35,000
主  砲 36cm - 12門 34cm - 10門 30cm - 12門 30cm - 10門
副  砲 15cm - 16門 10cm - 16門 13cm - 16門 15cm - 14門
発 射 管 4門 3門 2門 5門
装  甲 12” 12” 11” 14”
防御甲板 3” 3” 3”
進水年次 1914 1910 1911 1913

次に出現したるものは本超努級艦と大体に於いて同様の配置を有し、之よりも大口径の砲を有し、且つ優速なるものなり。 名付けて超々努級又は前 「フード」 級とも言うべきものなり。 英の 「クイーン・エリザベス」 級之なり。 我長門も本型に入るべきものなる可し。

我長門級2隻は大戦開始より3年後に計画完了し、長門は1920年、陸奥は1921年に夫々竣工したるも、其の16吋砲は各国の15吋主砲に対し世界最初の巨砲にして、次いで1921年より開催せられたる華府会議に於いて陸奥の存廃が問題となり、遂に之が存続に代えるに英の 「ネルソン」 級2隻、米の 「メリーランド」 級2隻の建造を見るに至りたるは、一面以下に同級の威力が当時に於いて優れたるものなるかを証し得べし。

英の 「フード」 は1920年完成し、其の高速力なる点に於いて巡洋戦艦とも、又は攻撃力防御力に於いて戦艦とも称し得。 即ち戦艦の威力に巡洋戦艦の速力を配したるものにして、吾が海軍にては華府会議の結果遂に完成を見るに至らず航空母艦に改装せられたる巡洋戦艦赤城級 (長770呎、幅101呎、吃水31呎、排水量41,000噸、速力28.5節、主砲16吋砲10門 − 原計画) は之に比すべきものにして、速力に於いてやや劣ると雖も、主砲の口径に於いて数等優勢なる計画なり。

斯くの如く各国共益々巨砲高速主義を採用したる結果、排水量の増大は愈著しく其の勢止まる処を知らず、遂に華府会議の開催となり、主力艦の総噸数の比率を当時の現有勢力を基礎として、英、米、日、各5:5:3と定め、単艦の最大基準排水量を35,000噸と限定せらるるに至れり。

本会議後の日、英、米、最新主力艦を比較すれば次の如し。

要  目 日本
(長門)

(「ネルソン」)

(「メリーランド」)

(「エルザツップロイセン」)
660’ 660’ 600’ 180m
95’ 106’ 97’- 3.5” 20m
吃  水 30’ 30’ 30’- 6” 5.8m
排 水 量 33,800T 35,000T 32,600T 10,160T
速  力 23kt 23kt 21kt 26kt
馬  力 60,000 45,000 28,000
(母電動)
50,000
主  砲 16” - 8門 16” - 9門 16” - 8門 28cm - 6門
副  砲 14cm - 20門 6” - 12門 5” - 12門
5” - 8門(AA)
15cm - 8門
発 射 管 6門 2門 2門 6門
装  甲 12” 14” 16”
防御甲板 3”
進水年次 1918 1925 1921 1928

 

第二項 巡洋戦艦


日露戦争当時は、我国は装甲巡洋艦浅間級を有せり。 之れ我国が率先装甲巡洋艦の必要を認め、日露戦争に於いて之が真価を発揮せり。 これ巡洋戦艦の起源にして、日露戦役中我国は又筑波、生駒を起工して益々巡戦の必要を世に公にし、引き続き伊吹、鞍馬の二艦を建造し、全く巡戦の艦型基本を定めたり。

要  目 日本
(浅間)

(「アブキール」)

(「フユールスト」)

(「ブルークリン」)
日本
(筑波)
日本
(伊吹)

(「ディフェンス」)
408’ 440’ 393.5’ 400.5’ 440’ 450.5’ 490’
67’ 69.5’ 66.5’ 62’ 75’ 75.5’ 74.5’
吃  水 24.25’ 26.25’ 26’ 26.25’ 26’ 26.25’ 26’
排 水 量 9,700T 12,000T 10,570T 9,215T 13,750T 14,620T 14,600T
速  力 22.1kt 21.6kt 19kt 22.2kt 21kt 22kt 23.5kt
馬  力 19,000 21,375 14,000 18,425 20,500 27,000 27,570
主  砲 20cm - 4 23cm - 2 24cm - 8 20cm - 6 30cm - 4 30cm - 4 23cm - 4
副  砲 15cm - 14 15cm - 12 15cm - 12 13cm - 12 15cm - 12 12cm - 14 12pr - 16
発 射 管
装  甲 7” 6” 7.75” 3” 7”〜5” 7”〜4” 6”〜4”
防御甲板 2” 3” 3” 6”〜3” 2” 1”〜0.5”
進水年次 1889 1900 1897 1895 1905 1907 1907

米及び独は同年代に於いて同型艦を有せず。 英国は我伊吹級と同年代に於いて 「インビンシブル」 級の純巡戦三隻を (千九百七年) 建造せり。 之れ現今の努級巡戦の最初なり。

要  目 日本
(金剛)

(「インビンシブル」)

(「ライオン」)

(「タイガー」)

(ゲーベン)
704’ 530’ 660’ 660’ 610.25’
92’ 98.5’ 88.5’ 90.5’ 96’
吃  水 27.5’ 26’ 28’ 28.25’ 27’
排 水 量 27,500T 17,250T 26,350T 28,500T 22,640T
速  力 27.5kt 26kt 28.5kt 30kt 28.6kt
馬  力 64,000 41,000 75,685 108,000 70,000
主  砲 36cm - 8 30cm - 8 34cm - 8 34cm - 8 28cm - 10
副  砲 15cm - 16 10cm - 16 10cm - 16 15cm - 12 15cm - 12
発 射 管
装  甲 10”〜4” 7”〜4” 9” 9” 7.5”〜4”
防御甲板 2.75” 3”
進水年次 1913 1907 1910 1913 1911

米国は此の時代に於いて巡戦を有せざりき。 英国は其の後大戦中 「レパルス」、「レナウン」 の二艦を建造せり。 之は寧ろ変形巡戦とも言うべきものにして、速力三十二.五節、二万六千五百噸、長七百五十呎、幅九十呎、吃水二十五.五呎、装甲六吋にて、六門の三十八糎砲、十七門の十糎砲を有し、千九百十六年に進水せり。

其の後は巡洋戦艦は戦艦と殆ど同様になり、遂に戦艦として 「フード」 を建造し、又茲に建艦史上に一区劃を作れり。

 

第三項 巡 洋 艦


華府会議に依り主力艦には大なる制限を受けたるも、補助艦艇たる巡洋艦に対しては基準排水量主砲口径等に簡単なる制限を附せられたるのみなるを以て、又々此の艦種に激烈なる競争を生じ、遂に1927年 「ゼネバ」 に於いて第二次軍縮会議開かれたるも何等結末を見る能わずして終わり、更に1930年第三次軍縮会議の開催となるに至れり。

我国に於いては夙に此の艦種に着目し、1918年天龍級の進水を見、次いで1920年球磨級を進水せしめたるも画期的の成功を収め、建艦計画上大飛躍をなせるは実に1923年に於ける夕張級の出現に在りとす。

同級は排水量僅かに3,100噸なるも、速力防御力に於いて5,500噸の多摩級に比し何等遜色なく、主砲及び発射管数に在りては彼の八門に対し4門にして少しく劣れる観あるも、その配列上攻撃力の実質に於いて何らの差異を認めず。 実に六割以下の排水量にて同一の各要素を完備せしめ得たるものにして、爾後の各艦は皆本級に倣いて計画せられたるものなり。

次いで古鷹級 (7,500噸) は巡洋艦として始めて20糎砲を搭載して現れ、更に1927年即ち那智級 (10,000噸) の進水を見るに至れり。

各国巡洋艦の比較、次の如し。

別表 各国巡洋艦の比較

 

第四項 航空母艦


航空機の発達に伴う航空母艦の出現は、又建艦史上特筆すべきものの一つなりとす。

然れども、各国共航空母艦として計画建造せられたるものは少なく、多くは商船、巡洋戦艦等を改造して之に当てたるものにして、其の外形の各艦著しく相違なるは煙突、艦橋、帰着発甲板等の位置及び形状に依るものなり。

吾が鳳翔は最初より航空母艦として建造せられ、排水量9,500噸、動揺防止のため「ジャイロスタビラーザー」を備え、必要に応じ外舷に倒し得る煙突を有す。 赤城は14,000噸の巡洋戦艦を、加賀は戦艦を夫々改造したるものなり。

各国最新の航空母艦を示せば、次の如し。

要  目 日本
(赤城)

(「ハーミス」)

(「レキシントン」、「サラトガ」)
763’ 548’ 850’
92’ 70’ 106’
吃  水 21.5’ 18.75’ 22’
排 水 量 28,100T 10,950T 33,000T
速  力 28.5kt 25kt 34kt
馬  力 131,200 40,000 180,000 電動
主  砲 8”- 10
12cmAA - 4
5.5”- 6
4”AA - 3
8”- 8
5”AA - 12
装  甲 6”
飛 行 機
搭 載 数
50 20 83〜120?
進水年次 1925 1919〜1923 1925

 

第五項 駆 逐 艦


駆逐艦出現の前程として吾人は水雷艇を一瞥せざるべからず。

水雷艇の最も最初に使用されしは南北戦争 (The Civil War) にして、其の際は Spar-Torpedo (棒の先に火薬を装したるもの) を使用し居たりしが、其の後1873年英国に於いて Towing Torpedo を有する形式生じ、更に1877年に至り同じく英国に於いて魚雷を装する水雷艇出現す。 而して此の型は其の後大正の初めに至る迄使用せられたり。 日清戦争の際、威海衛に於いて清国艦隊を襲撃せしは此の型なり。

右の水雷艇を駆逐撃攘するの目的にて出現せるものは駆逐艦 (Torpedo-boat destroyer) なり。 其の最初の出現は1893年英国に於ける Havock (240噸、26.8kt) なり。

我海軍に於いては明治30年英国に注文し雷、東雲、電、叢雲の四隻建造せられしを嚆矢となす。 其の後日露戦争当時は380噸の所謂三等駆逐艦建造せられ、戦後一層大型なる桜橘級 (600噸) を経て、更に大型の所謂一等駆逐艦出現せり。

之を稍詳説すれば、最近に於ける我駆逐艦には二等一等大型駆逐艦等あり。

二等駆逐艦にありては大戦の要求に応じ樺、桃、楢級等多数の建造ありたるが、1918年樅級 (850噸) の建造に至り重油専燃罐と 「オールギアードタービン」 を採用したり。

次いで若竹級を建造したるも、1924年を最後として二等駆逐艦は建造を見ず、一等駆逐艦以上のみ建造せられたり。 一等駆逐艦としては、海風、山風級に次ぎ磯波級 (1,227噸、速力三十四節) 江風級 (1,300噸、速力三十四節)、次いで峯風級の建造を見、1927年峯風級に多少の改良を加えて、神風級、睦月級建造せたれたり (1,445噸、三十四節)。

之に次いで建造せられたるは大型駆逐艦吹雪級 (1928年) にして、日、英、米の駆逐艦を比較すれば、次の如し。

別表 各国駆逐艦の比較

 

第六項 潜 水 艦


世界に於ける潜水艦の最初の出現は、1624年英国に於いて木造艦を建造し 「テームズ」 河にて実験せしにあり。 其の後発達して今日に至る。

我海軍に於いては明治三十七年 (1904) 「ポーランド」 型潜水艦を購入したるに始まり、爾後各国より其の時代に於ける優秀なる艦型を購い、尚我海軍独自の計画による海軍型潜水艦を創生する等不撓の研鑽を重ね、列国に勝るとも劣らざる威力を備えるに至れり。

彼の欧州大戦は潜水艦の発達を促し、各国共飛躍的進歩を遂げたり。 各国の特徴あるものの数列を示せば、次の如し。

国名 艦  名 水上排水量 水中排水量 水上速力 水中速力 発 射 管 砲  装 年次
Oberou 1348T 1808T 15kt 9kt 21”- 6門 4”- 1門 巡潜 1924
2525T 3600T 19.5kt 9kt 21”- 6門 5.2”- 4門 1921
M3 1600T 1950T 15.5kt 9.5kt 18”- 4門 30cm - 1門
8cm - 1門
機潜 1917
K26 2140T 2770T 23.5kt 9kt 21”- 10門 10cm - 3門 巡潜 1918
L71 960T 1150T 17.3kt 10.5kt 21”- 6門 4”- 1門 1917
V4 2890T 17kt 8kt 21”- 4門 6”- 1門
60 mines
機潜 1928
V1 2160T 2520T 21kt 9kt 21”- 6門 5”- 1門 隊潜 1924
S51 990T 1230T 14.8kt 11kt 21”- 5門 4”- 1門 1921
S47 906T 1126T 14.5kt 11kt 21”- 4門 4”- 1門 1924
Redoutable 1535T 1968T 18kt 10kt 21.7”- 10門 4”- 1門 巡潜 1928
Requin 1130T 1415T 16kt 10kt 21.7”- 10門 4”- 1門 1924
Saphir 747T 910T 12kt 9kt 21.7”- 4門 8cm - 1門
32 mines
機潜 1928
Pierrechailley 886T 1181T 13.5kt 9kt 18”- 4門 4”- 1門
64 mines
機潜 1922
Fieramesca 1300T 1707T 19kt 10kt 21”- 6門 4.7”- 1門 1928
Ballila 1390T 1884T 18.5kt 9.5kt 21”- 6門 4.7”- 1門 1927
伊53 1650T 2200T 21kt 10kt 21”- 8門 4.7”- 1門 1925
伊21 1150T 1750T 21”- 4門 機潜
呂60 998T 1500T 17.5kt 10kt 21”- 6門 3”AA - 1門 1922






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最終更新 : 06/Apr/2006