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第13話 加藤友三郎と砲術



ここで公開しますのは、平成30年に 「加藤友三郎元帥研究会」 のセミナーにおいて2回に分けてお話ししたもの です。


このセミナーは同研究会が平成28年に設立されたことを契機として、本拠地である呉と拠点の一つである東京に於いてそれぞれで実施されたもので、私も同研究会での研究活動の呼び水の一つとして、呉での第4回目及び第5回目を担当させていただきました。


しかしながら、同研究会は本年 (令和3年) 4月末をもって突然として解散 してしまったようです。


つきましては、2回の当該セミナーでお話ししたものを こちらに移すこととし、当日のお話で使用したパワーポイント2つとその元の拙論2本を併せてご紹介 するものです。


ご存じのとおり、加藤友三郎については日露戦争において旧海軍がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つにあたって連合艦隊参謀長として東郷平八郎司令長官を補佐し、またワシントン軍縮条約にあたっての首席全権としてこれにあたり、そして条約締結後の旧海軍の体制確立に活躍するなどの業績が良く知られたところです。


しかしながら、友三郎の砲術家としての若き日については、日清戦争直前に英国で建造された 「吉野」 の造兵監督官として、そして同艦の就役後には初代の砲術長として勤務し、そして日清戦争における両国海軍の艦隊決戦である黄海海戦で活躍したこと以外にはほとんど知られていないと言え、『元帥加藤友三郎伝』 や豊田穣著 『蒼茫の海』 などを始めとして全くと言って良いほど描かれておりません。


この友三郎の砲術家としての経験と才能が、後に日露戦争においてバルチック艦隊を迎えるに当たり東郷平八郎の片腕として選ばれ、そしてそれを日本海海戦において遺憾なく発揮しえたことに繋がるわけですが ・・・・


そこで、友三郎がその若き日に、海軍兵学校で砲術についてどの様なことを習い、そして兵学校卒業後は 「砲術家」 としてどの様な道を歩んだのかをお話しすることにしたものです。


併せて、当時の旧海軍における砲術の現状についてご説明し、友三郎が如何に現場での経験と研鑽によりその能力を積み上げて青年海軍将校として成長していったのかをご理解いただければと思います。


ここでお話しすることは知られざる友三郎の若き日として、やはり “私ならでは” と言いますか “私しか” と自負しております。


この方面について、そして加藤友三郎について関心のある方々に興味を持っていただき、かつお楽しみいただけたらならば幸甚です。





PPT 「砲術家としての加藤友三郎」   PPT 「砲術家としての加藤友三郎 ・ 続」
   
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拙論 「加藤友三郎と海軍兵学校」   拙論 「加藤友三郎と砲術」
   
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 最終更新 : 06/Jun/2021