3 阪神・淡路大震災
1 概 要
7年1月17日0546ころ、淡路島北端部(34.6°N・135.0°E)地下20kmにおいて、マグニチュード7.2の地震が発生した。
被害状況(兵庫県)は、死者及び行方不明者6,403名、負傷者4万92名、被災住民31万6,678名、家屋損壊24万8,412棟(いずれも13年12月27日現在)という極めて甚大なもので、兵庫県南部を中心とする被災地は壊滅的な状況に陥った。
これに対して海上自衛隊は、阪神地区及びその周辺地区に災害派遣を実施し、呉総監が災害派遣部隊指揮官となって、1月17日1950〜4月27日0800の間、救援活動を行った。なお、発災当日、災害派遣要請前の0935以降、輸送艦「ゆら」、38護隊(「とかち」)、22護隊を派出した。
派遣艦艇、航空機の延べ隻(機)数及び延べ人員は、艦艇701隻、航空機728機、人員6万4,443名に達し、主に次のような成果を上げた。
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命救助活動 : @ 生存者救助 8名、A 生存者確認 2名、B 遺体収容 17体、C 遺体発見 2体 給水支援 : 総給水量 2万5,006トン 糧食等支援 : @ 缶詰 5万484食、A 乾パン 3万6,568食、B 毛布 8,300枚 陸空自衛隊員支援 : @ 宿泊 延べ1万903名、A 入浴 延べ1万9,487名、B 燃料補給 陸上自衛隊第13師団の燃料補給支援(総支援量 791.2キロリットル) |
2 活動状況
■ 全 般
本震災の特色は、@ 臨海都市直下型であり、発災と同時に都市の中枢機能を喪失した。A 神戸市は地勢的に東西に細長く、東西の道路網が切断され閉塞していた。B
地震の烈度が極めて大きい割に被害が局地的であった。C 交通網の寸断により陸上部隊の進出(展開)に難渋した。D 未曾有の震災にもかかわらず、天候及び地理的条件により、甚大な2次被害の発生には至らなかった。
これに対し海上自衛隊は、兵庫県知事の災害派遣要請に基づき、7年1月17日から4月27日までの101日間にわたり救援活動を行った。
発災直後の第1段階では、護衛艦乗員を基幹とする陸上救援隊を派出して、生存者8名を救出するとともに自艦隊・各地方隊等の艦艇や航空機をもって非常用糧食約15万食を提供し、第2段階では、AOE及びYWを主用し、部隊の総力を結集して延べ2万5,006トンの給水支援を実施した。この活動期間中、士気旺盛な隊員たちは一人一人がその使命を自覚して献身的に黙々と自己の職責を果たし、神戸市等地域住民の高い評価を得るとともに、海上自衛隊に対する理解を深めた。
■ 災害派遣に関する兵庫県との調整
〔災害派遣の要請〕
呉監は、発災当日の午前から、災害派遣に関する調整のため兵庫県消防交通安全課に再三再四電話連絡を試みたが、電話回線が錯綜し連絡がとれなかった。このため、阪基に兵庫県当局と連絡を取るように指示し、夕刻に至って陸上自衛隊に派遣している連絡幹部を経由して連絡がついた。1947ごろ作戦室に県当局から連絡が入り、その際「この電話連絡をもって17日1950、兵庫県知事から呉総監に対し災害派遣要請がされたものとし、人命の救助、真水の給水、糧食等の支援を要請する。」旨の調整を行った。その50分後に38護隊(「とかち」)が阪基沖に到着した。 |
〔災害派遣の撤収〕
本災害派遣部隊撤収のめどは配水管の仮復旧であり、神戸市当局が「水道仮復旧」を宣言する時期に海上自衛隊が水源としての役割を終了できるよう、@
応急復旧及び復興作業の進捗、A 給水需要を踏まえた民情・民心の動向、B 派遣部隊の縮小に対するコンセンサスの形成に留意し、県及び市当局と調整した。 3月15日、神戸市の給水支援終了の確認書を得ることができた。 |
■ 震災発生時の措置
本災害派遣においては、発災と同時に隷下部隊を被害調査に当たらせるとともに、総監部の勤務態勢を強化し、@ 可動艦の38護隊(「とかち」)、「ゆら」に対し、災害派遣要請に備え阪基支援のための緊急出港を下令、A
松空のヘリコプターに対し、状況偵察を下令、B 22護隊(「みねぐも」、「なつぐも」)の修理(定期検査)準備を中止させ、救援物資の搭載及び緊急出港を下令、C
自艦隊隷下で緊急出港することとなった補給艦に、非常用糧食等の救援物資を搭載、D 陸上自衛隊中部方面総監部に連絡幹部を派出、E 兵庫県知事に対し災害派遣要請を督促することにより、迅速に対応することができた。
■ 災害派遣部隊の受入れ態勢
この大震災においては、被災現場の湾港事情等に土地勘があり諸情勢を知悉した阪基が、自らが大被害を受けている中においてもギリギリの機能を維持しつつ橋頭堡となり、@
水中処分員による神戸港の岸壁調査、A 神戸市港湾局との調整による所要の岸壁の確保、B 陸上自衛隊関係部隊への所要の連絡幹部の派出等を実施し、来援艦艇の受入れ態勢を完了したことにより、艦艇の現場到着及び災害派遣部隊現地司令部の阪基進出と同時に、円滑な救援活動を開始することができた。
本災害派遣において、海上自衛隊唯一の被災部隊であった阪基の果たした役割は極めて大なるものであったが、幕僚機能、岸壁における物資搭載及び集積時の分類・配分等の後方機能、並びにC3I等の欠落機能も多かった。この教訓が活かされ、関西地区の防災拠点として、現在の阪基が整備された。
■ 災害派遣部隊現地司令部
今回の震災の場合、大部隊を指揮・運用するため災害派遣部隊指揮官が現地で指揮を執る必要があった。現地司令部の設置場所としては、現地に阪基が所在し、被災のため一部の制約はあったもののギリギリの支援機能を保持していたことから、阪基の重要性を各部に認識してもらい、阪神地区における海上自衛隊の重要な拠点として復旧させることも考慮し、災害派遣部隊司令部を呉監から阪基に移設した。
現地視察を踏まえ、阪基進出を決定するに当たり考慮した事項は、@ 地震被害により、阪基の基地機能が低下している。A 阪基の指揮通信能力では、本派遣規模の部隊運用は困難である。B
呉では、現地の実相や活動の実態を速やかに、かつ、正しく把握できない。ということであった。
したがって、阪基進出に当たっては、幕僚組織・情報・後方支援及び通信にかかわる基地機能を強化することを基本方針とし、現地司令部は主として総監部幕僚をもって編成し、災害派遣の推移に応じて、組織編成、業務内容及び所要人員を変更した。
■ 連絡幹部
自衛隊と兵庫県及び神戸市とは、防災に関して平素から接触の機会がなく、相互理解が確立されていなかったため、連絡幹部を次のとおり派出し、連絡調整に当たらせた。
・ 陸上への人員の派出 : 最大226名/日 ・ 給 水 支 援 : 最大958トン/日 ・ 陸上自衛隊等宿泊支援 : 最大818名/日 ・ 陸上自衛隊入浴等支援 : 最大1,166名/日 |
災害派遣中、松空司令をヘリコプター運用統制官とし、全ヘリコプターを主として小松島に集中し、一元的に運用統制に当たらせた。 |
小松島及び徳島の両航空基地は被災地に比較的近く、発災時には同基地から回転翼機を発進させ、被災状況を偵察させるとともに、他地方隊からの支援物資の輸送ターミナルとして使用した。また、回転翼機の物資搭載量をより多くするために搭載燃料を管制し、被災地付近に配備したDD(H)を燃料の再補給艦艇として活用することにより、効率的にヘリコプターを運用することができた。 |
〔場外離着陸場〕
本災害における場外離着陸場として、阪基(神戸・東灘区)、県消防学校(神戸・北区)、姫路駐屯地(姫路市)、王子グラウンド(神戸・灘区)、芦屋中央公園野球場(芦屋市)、伊丹駐屯地(伊丹市)、八尾駐屯地(八尾市)、桂駐屯地(京都市)及び天理中学校(天理市)の9か所を使用した。 |
■ 陸上部隊の編成等
この震災により被災した阪基に加え、呉所在の陸上部隊をもって、次のとおり調査・後方支援及び通信等の任務に当たらせた。
阪基司令は現場調整官として、初動に集結した艦艇部隊(神戸において修理・ぎ装中の潜水艦を含む。)及び阪基の隊員約200名で陸上派遣隊を編成し、発災翌日から4日間、陸上自衛隊が本格的に部隊展開し1万3,000名体制とするまでの間、延べ826名をもって人命救助活動を実施した。このことは、発災翌日の陸上自衛隊兵力が第3特科連隊約400名に過ぎず、また、派出先の生田警察署員が28名であったことから見て、初動における人命救助に多大の貢献をしたと言える。 |
〔糧食等支援〕
発災当初、人命救助と並行し被災者の生活支援のための救助物資を緊急輸送した。特に糧食については、各地方隊からの缶詰約15万食、乾パン約3万6,000食を、艦艇・航空機・車両により徳島及び姫路にいったん集積し、艦艇で海路から阪基に輸送した。 ライフライン(電気・ガス・水道)が破壊され、缶詰食の現地でのボイルができないため、艦艇で輸送途上の缶詰は艦内で、徳空基に集積した缶詰は松空・徳教群においてボイルした。非常用糧食の支援は、連絡調整及び計画を短時間のうちに立案し、高い機動力を発揮して約2日の短期間に輸送したものであり、一連の作業は円滑に遂行された。このことは、非常用糧食を準備した各地方隊及びその輸送に当たった各部隊の指揮官・隊員が、強固な使命感と日ごろ培った即応性をもって対応した成果であった。 |
〔給水支援〕
発災当初の人命救助や糧食の支援に引き続き、被災者のライフライン確保のため、給水源を大阪港として真水を輸送し、市民、陸上自衛隊及び神戸市等の給水車への岸壁給水、トラック又は作業艇による移動給水並びに入浴支援中の「みうら」への給水を行った。 |
a 災害発生直後の支援 平常時の神戸市の真水使用量は、50万トン/日であったが、発災当日にはライフラインが破壊され、3.6万トンまで減少した。 各艦艇の保有している真水の総計は1,560トンであり、市民の渇水に即応できる態勢にあったにもかかわらず、1月18日及び19日両日の給水量は16トンに過ぎなかったため、20日から自衛隊車両6台が900個のポリ容器をもって市民に対して給水した。また、19日にNHKテレビ等への情報提供を行うとともに、ラジオの生中継のインタビュー並びに市役所を通じての海上自衛隊の能力及び救難活動に関する広報を実施した結果、多数の市民が艦艇から直接給水を受けるようになり、23日には給水量が388トン/日となり、自隊車両による供給を終了した。 b 本格的支援 22日以降、本格的な給水支援態勢に移行し、補給艦1隻を含む艦艇13隻をもって、大阪港中央突堤及び天保山岸壁から神戸新港等の給水ポイントに真水を輸送し、最大958トン/日(平均800トン)を給水した。この時期、神戸の給水車による給水全量は約5,000トン/日と推定され、その16〜20%を海上自衛隊が供給したことになる。 本格給水に当たっては、@ 神戸港におけるAOE常時2隻態勢の維持、A 各岸壁における24時間給水態勢の維持、B 市民用給水を行う青木フェリー岸壁への陸上自衛隊のバルーンタンクの設置、C AOEのバラストタンクを清掃した上での約1,600トン/隻の給水能力の確保、D 水船2隻を使用してのAOE(1次給水源)から他艦艇(2次給水源)への配水を措置し、神戸市民に対して安定した給水源を提供したことにより、神戸市及び厚生省調査団等からも高い評価を得た。 c 終期における支援 2月21日以降、水道の仮復旧率が進捗した情勢に応じ、支援規模を徐々に縮小した。最終的に、地元住民と阪基の関係を考慮し、青木フェリー岸壁における給水支援のため「YW20」又は掃海艇を残し、通水率が99.4%となった3月15日、神戸市長の確認書を受領し、撤収可能な態勢としたが、掃海艇による給水支援は災害派遣撤収まで継続した。この間、海上自衛隊の給水支援に対し、1件の苦情も寄せられなかった。 |
〔被災者に対する入浴支援〕
発災当初、約30万名の被災者は入浴が不可能な状況にあった。このため、陸上自衛隊の保有する野外入浴設備を利用して、陸上自衛隊は入浴設備の維持管理を、海上自衛隊は浴場への給水及び湯沸かし用蒸気の供給を担当し、入浴施設の名称を「みうら温泉」と命名して、1月24日から神戸新港第1突堤において、陸海自衛隊共同による入浴支援を開始した。入浴者は、1日平均364名、延べ1万5,647名であり、初期には最大750名/日程度が利用し、2時間待ちで並ぶほどの盛況ぶりであった。本支援は、終始円滑に実施され、今次災害派遣における陸海自衛隊の協同の象徴となった。 |
〔陸上自衛隊支援〕
災害派遣の付随的任務として、ほぼ1個師団規模の陸上自衛隊災害派遣部隊に対し、1日当たり最大818名の宿泊及び最大1,166名の入浴等の支援を実施し、災害復旧の最大戦力である陸上自衛隊員の戦力回復・維持に寄与した。このことは、第3・第10師団長自ら艦艇乗員の慰労に訪れるなど陸上自衛隊から高い評価を得た。 特に、「しらね」はポート産業岸壁において約1か月の間、陸上自衛隊員の入浴支援を施し、最大入浴者数は586名/日であった。同艦は、蒸気タービン艦の特性を生かし、造水装置を最大限に稼動させ、真水タンク及び艦内給水系を、港内で造水した雑用水(洗面、洗濯、入浴)系と飲用水系に区分し、かつ、水中電動ポンプによる応急給水系を設置して、給水支援態勢に万全を期した。 一方、徳島航空基地では、陸上自衛隊の回転翼機10機に対し、燃料補給・搭乗員等の宿泊及び仮事務所の提供等を実施し、陸上自衛隊航空部隊の円滑な救援活動に貢献した。 |